第三章 32 『消せない炎』
フィナはガルドとの距離を十メートルほどまで詰めたところで足を止めた。
背後ではレオンたち四人が間隔を空けて残り、誰も不用意に近づかず、ガルドの周囲へ集中している反魔法の変化をそれぞれの方法で追っている。
エルナの雷は消え、レオンの構築術式も成立を否定された。
ネムの《万象静止〈サイレント・レスト〉》だけは一瞬反魔法の活動を鈍らせたものの、完全に止めるところまでは届いていない。
「フィナ。いきなり大きいのは使うな」
レオンは測定器をガルドへ向けたまま、念を押すように声を飛ばした。
「最初は最小規模だ。消えるかどうかを見るだけだからな」
「分かってるよ。小さい火でしょ?」
「お前の『小さい』が問題なんだ」
「今回は本当に小さくするよ!」
フィナが振り返ると、エルナも杖を構えたまま眉を寄せる。
「大きさだけじゃなくて、温度も範囲も普通にしなさいよ。確認なのに展示広場を焼いたら、本末転倒なんだから」
「だから焼かないって!」
「その返事を何度聞いたと思ってるのよ」
後方で杖を握っていたリリカが、真剣な表情のまま一歩だけ身を乗り出した。
「つまり今回は、フィナ師匠の究極の加減を――」
「究極にしなくていいから!」
「ですが、反魔法すら欺く極小の炎を――」
「欺かなくていいの! 普通に出すだけ!」
ネムは枕型の魔導具を抱え直し、フィナへ半開きの目を向ける。
「普通。フィナ基準」
「ネムまでやめてよ!」
思わず声を上げたフィナだったが、ガルドへ向き直ると表情から少しだけ笑みが消えた。
今までなら、火を出すことに迷う理由などなかった。
けれど学院と魔導協会の検証によって、自分の魔法には現代魔法の術式が存在しない可能性が高まり、第一章で侵入者から聞いた《原初魔法》という言葉まで再び現実味を帯び始めている。
目の前にいるガルドは、その違いを確かめるためだけに王都全域から初級魔法を消した。
「来い」
ガルドは拳を握りながら、これまでより明らかに集中した目でフィナを見ている。
「じゃあ、本当に小さいのでいくね」
フィナは右手を胸の高さまで上げ、掌の上へいつもの炎を思い浮かべた。
「小さい火」
橙色の炎が、指先ほどの大きさで静かに灯った。
周囲へ強い熱を撒くこともなく、床や展示台にも何の影響もない。フィナ自身が思い描いた通りの、ごく小さな火だった。
「……ちゃんと小さい」
エルナが少し驚いたように漏らす。
「そこ確認するところ!?」
「大事でしょ!」
「反魔法を見るんじゃなかったの!?」
「両方大事よ!」
フィナとエルナのやり取りを無視するように、ガルドの周囲で反魔法反応が一気に高まった。
「消すぞ」
見えない干渉が、フィナの掌へ集中する。
レオンの測定器が鋭い警告音を鳴らした。
「来る!」
エルナの上級雷魔法を消した時と同じ反応が、小さな炎を包み込んでいく。
現代魔法なら術式が現象へ繋がる部分へ食い込み、その成立そのものを否定するはずだった。
それでも炎は消えなかった。
形すら崩れず、フィナの掌で静かに燃え続けている。
「……あれ?」
フィナは自分の手を少しだけ顔へ近づけた。
「普通に残ってるね」
「見れば分かる!」
エルナは叫びながらも、炎から目を離さなかった。
ガルドの口元から笑みが消える。
「まだだ」
王都全域へ広がっていた反魔法の一部が絞られ、フィナの炎へさらに強く集中した。
周囲の空気が押し沈められたように重くなる。レオンの測定器には、通常の現代術式なら維持できるはずのない規模の否定反応が記録されていた。
「出力が上がってる!」
「フィナ、そのまま動かすな!」
「分かってるよ!」
フィナは掌を固定し、炎だけを見つめた。
反魔法は明らかに届いている。
けれど何かを押し返している感覚もなければ、魔力を余分に使って耐えている感覚もない。
フィナ自身にとっては、いつも通り火を出しているだけだった。
「……何も変わらない」
その声を聞いたガルドの眉が深く寄った。
「なら、直接見る」
「直接?」
「外から消せねえなら、中にある術式を探して潰す」
ガルドが右手をフィナへ向けると、反魔法の性質が変わった。
炎そのものを包む圧力が薄れ、その代わりに何かが内部へ入り込んでくるような感覚がフィナの掌へ伝わる。
「フィナ、違和感が強くなったらすぐ下がれ」
レオンは測定器の記録を追いながら、フィナへ退路となる左後方を示す。
「相手は術式の接続点を探してる」
「でも、私のには……」
「ああ。そこを向こう自身に確認させる」
フィナは僅かに緊張しながらも、その場に留まった。
ガルドの反魔法が炎の外縁から内部へ入り、魔力の流れを辿ろうとする。
通常の魔法なら、発動者から供給された魔力が術式へ入り、属性へ変換され、現象として成立するまでの道筋がある。
どれほど複雑であっても、反魔法で否定するための構造はどこかに存在する。
ガルドはその場所を探った。
だが、見つからない。
「……なんだ?」
初めて、ガルドの声に迷いが混じった。
別の方向から干渉し直し、炎の中心へ反魔法を送り込む。
さらに発動直前の魔力反応へ触れようとしても、術式へ繋がる線は一つも現れなかった。
「ない……?」
ガルドの表情が明確に変わる。
先ほどまで戦いを楽しむように笑っていた男が、今はフィナの掌だけを鋭く見つめていた。
「レオン」
フィナは炎を保ったまま、少し不安そうに背後へ視線を向ける。
「本当に、何もないの?」
「ない」
レオンも測定器の表示を何度も切り替えていたが、結果は変わらなかった。
「学院で見た時と同じだ。いや、今回はもっとはっきりしてる。測定器が拾えないんじゃない。ガルドの反魔法が内部まで探っても、否定する術式そのものが見つかってない」
エルナが小さく息を呑む。
「隠れてるとか、複雑すぎるってことでもないのね」
「その可能性もかなり低い」
ネムもフィナの炎へ意識を向け、いつもより僅かに目を細めた。
「魔力はある。でも、線がない」
リリカは自分の杖とフィナの掌を見比べていた。
自分の初級火魔法には、どれだけ簡単でも確かに術式があり、今はその最後を王都全域の干渉に拒絶されている。
フィナの炎には、その「拒絶される場所」さえ存在していなかった。
「……やっぱり、違うんだ」
フィナの声が小さくなる。
掌の炎は、今まで何度も使ってきたものと何も変わらない。
自分にとってはただの「小さい火」だった。
けれど、仲間たちの魔法とは根本から違う。
「前に、あの侵入者が言ってたよね」
フィナは炎を見つめたまま続ける。
「私のこと、《完全な原初魔法適合者》って」
レオンの表情も少しだけ硬くなった。
「言っていた」
「じゃあ……これ、本当に原初魔法なのかな」
フィナが右手を少し握ると、炎は静かに消えた。
「可能性はかなり高くなった」
レオンは記録具を閉じず、今回の反応を学院地下の侵入事件と重ねている。
「術式を必要とせず、認識で現象を成立させる。あいつが説明しかけた特徴と、今回確認できた性質は一致してる」
「じゃあ確定?」
「まだだ」
「また!?」
思わずフィナが振り返る。
「正式資料がない以上、敵側の名称だけで確定はしない。ただし、少なくとも現代魔法ではない可能性は、もうかなり高い」
エルナがフィナの隣まで少し距離を詰める。
「名前が何だろうと、今さらあんたへの接し方を変える気はないわよ」
「エルナ……」
「ただし、正体不明の魔法なら今まで以上に加減はちゃんとして」
「そこまでレオンと同じこと言わなくてもよくない?」
「そこは意見一致してるから!」
リリカも勢いよく顔を上げる。
「私もです! 原初魔法でも何でも、フィナ師匠はフィナ師匠です!」
「ありがとう、リリカ」
「むしろ原初魔法の完全適合者を師匠に持つ弟子として――」
「そこから広げないで!」
ネムがフィナの袖を軽く掴む。
「変わらない」
短い言葉に、フィナは少しだけ表情を緩めた。
その一方で、ガルドはもう笑っていなかった。
フィナへの興味は残っている。
けれど今そこにあるのは、それだけではない。
自分の《反魔法》で外側から否定しても消えず、内部へ直接干渉しても壊すべき術式が見つからない存在を前にして、初めて明確な警戒が浮かんでいる。
「反魔法が効かねえんじゃない」
ガルドはゆっくり拳を握った。
「否定するための形が、最初から存在しねえ」
フィナも、もうその言葉から目を逸らせなかった。
ガルドはしばらく彼女を見据えたあと、理解しきれないものを無理に断定することなく、確かめられた事実だけを低い声で告げた。
「やはり、お前のそれは現代魔法ではない」
敵から与えられた《原初魔法》という言葉は、今や単なる正体不明の呼び名ではなく、フィナ自身の力へ繋がる可能性として、これまで以上にはっきりと五人の前へ浮かび上がっていた。




