第三章 28 『同じはずなのに』
ティアは人通りの多い大通りを避けながら、王都中心部へ向かっていた。
右腕にはまだ鈍い痛みが残っており、ときどき指先の感覚を確かめるように親指と人差し指を擦り合わせると、そこに自分の手があることへ少しだけ安心できた。
王都魔法祭が中断された影響は、中心部へ近づくほど目立っている。
初級光魔法を使った簡易照明は消えたままで、給水器や清掃器具、荷物運搬用の魔導具も動かず、人々は普段なら魔法へ任せていた作業を自分たちの手で補っていた。
「……まだ、いっぱい困ってる」
ティアは人波の端へ身を寄せながら周囲を見回し、その途中で足を止めた。
少し先の広場に、見覚えのある少女がいる。
胸元まで届く淡い桃色がかった茶髪を揺らしながら、フィナがレオンたち四人と一緒に救援作業へ加わっていた。
「フィナ、そっちはもう足りてる。次は東側の給水所だ」
地図を広げたレオンが、広場の入口と周囲の設備を確認しながら指示を飛ばす。
「分かった! これ置いたら行くね!」
フィナは抱えていた水桶を下ろすと、そのまま次へ走り出そうとした。
「ちょっと待ちなさい!」
横から伸びたエルナの手が、フィナの外套の襟を掴んだ。
「なんで止めるの!?」
「その桶、まだ水入ってるじゃない!」
フィナが振り返り、足元の桶を見下ろす。
底には半分ほど水が残っており、一瞬だけ笑顔のまま固まったあと、何事もなかったように持ち直そうとした。
「……今から運ぶところだったよ?」
「今、置いたら行くって言ったでしょ!」
「予定変更!」
「三秒で予定を作り直さないで!」
レオンは地図から顔を上げ、二人を見比べてから小さく息を吐いた。
「中身があるならそのまま東へ持っていけばいい。議論する時間が一番無駄だ」
「ほら、レオンも運べって言ってる!」
「お前の弁護はしてない」
フィナが一瞬だけ勝ち誇った顔をした直後、エルナが額を押さえる。
少し離れた場所では、ネムが枕型の魔導具を抱えたまま止まった清掃器具を見つめ、リリカは空になった水容器をまとめながら困っている市民へ声をかけていた。
忙しいはずなのに、五人の空気は張り詰めきっていなかった。
ティアは建物の陰から、その様子をじっと見つめる。
やがて東側の給水所へ移ったフィナが、空になった大型容器の前で右手を上げた。
すぐ隣ではレオンが容器の大きさと残量を確認し、フィナ本人より先に必要量を決めている。
「三分の一だけだ。勢いもつけるな」
「分かってるよ」
「お前の『分かってる』は確認が必要だ」
「最近ずっとそれ言われてる!」
エルナが別の容器を運びながら、フィナへ呆れた視線を向ける。
「だって『ちょっと』って言わせると危ないでしょ」
「私、ちゃんと細かくできるもん!」
「だから細かくできないんじゃなくて、あんたの基準がおかしいのよ!」
フィナは反論しようとして口を開いたが、レオンに容器を指されて諦めたように右手を向けた。
「——お水」
術式は浮かばない。
杖も使わない。
それでも透明な水が空中へ静かに生まれ、指定された容器だけへ落ちていく。
水面がレオンの示した位置へ届くと、フィナは何の苦労も見せずにぴたりと止めた。
「ほら、三分の一!」
「量は合ってる」
レオンが容器を覗き込みながら確認すると、フィナはすぐ胸を張った。
「もっと褒めてもいいよ?」
「指定量を守っただけだ」
「大事な成長だよ!?」
ネムが給水器の横から半開きの目を向ける。
「……普通」
「ネムまで厳しい!」
「……普通にできた。えらい」
「今ちょっと褒められた!」
「基準が下がりすぎでしょ!」
エルナの声が広場へ響き、近くで作業していたリリカが思わず笑う。
その笑顔につられるようにフィナも笑い、すぐ次の仕事へ向かっていった。
ティアの指が、自分の右手首へ触れた。
フィナの身体には何も起きていない。
水を出しても腕へ亀裂のような光は走らず、痛みに顔を歪めることもない。
魔法を使った直後に指先の感覚を確かめる必要もなく、何かを忘れていないか怯える様子さえなかった。
「……平気なんだ」
ティアは小さく呟き、そのままフィナを追って広場の反対側へ視線を移した。
簡易照明が消えた階段では、エルナが上位魔法を必要な場所だけへ絞って明かりを作っている。
レオンは止まった救助補助用魔導具の安全装置を切り離し、ネムが《魔流鎮静〈カルミア・マナ〉》で不規則に動こうとする術式だけを静めていた。
「フィナ師匠、こっちです!」
階段の下からリリカが声を上げる。
「荷物を持ってる人、こっちなら通れます!」
「ありがとう、リリカ!」
フィナは荷物を抱えた市民を安全な場所まで案内すると、戻ってきたリリカの肩へ自然に手を置いた。
「リリカも休んでる? ずっと動いてるよね」
「大丈夫です! 私もまだ役に立てますから!」
一瞬だけ、リリカの視線が自分の杖へ落ちる。
初級火魔法を使えないことを思い出したように口元が僅かに固くなったが、フィナはそれを見逃さなかった。
「魔法じゃなくても、今日すっごく助かってるよ」
「……はい」
リリカの表情が少しだけ緩む。
「ありがとうございます、フィナ師匠」
その横からネムがフィナの外套を軽く引いた。
「フィナ」
「どうしたの?」
「ネム、疲れた」
「じゃあ休もう!」
フィナは迷うことなくネムを抱き上げた。
ネムは抵抗せず、フィナの肩へ額を預ける。
「抱っこって言ってない」
「じゃあ降りる?」
「……このままでいい」
エルナが階段上から振り返り、呆れたように眉を上げた。
「最初からそれ狙ってたんじゃないでしょうね?」
「歩くより楽」
「否定しなさいよ!」
レオンまで記録具から顔を上げる。
「合理性だけならネムが正しい」
「そこでネム側につくの!?」
「移動速度を落とさないという意味ではな」
「今そこを分析する必要ある!?」
エルナとレオンが今度はどちらの判断が合理的かで言い合いを始め、原因だったネムは既にフィナの肩で目を閉じていた。
リリカだけが何かを学んだように真剣な顔をしていたため、フィナが慌ててそちらへ顔を向ける。
「リリカ、これは修行じゃないからね!?」
「えっ、違うんですか!?」
「何を学ぼうとしてたの!?」
五人の声が重なる。
ティアは、その光景から目を離せなかった。
フィナは笑っている。
仲間に触れ、自分から触れ返し、名前を呼ばれて振り向いている。
誰かに手を掴まれても怯えず、肩へ寄りかかられても、その相手が誰なのか確かめる必要などない。
自分なら、力を使った直後ほど怖くなる。
相手の名前を忘れていないか。
その人を大切だと思っていた気持ちまで消えていないか。
触れられた時に、その温かさをちゃんと自分のものとして感じられるか。
ティアはそこまで考え、自分の右腕を胸元へ抱き寄せた。
「……同じはずなのに」
自分も普通の魔法使いとは違う。
術式を使わなくても、現象へ直接触れられる。
王都全域で初級魔法が消えている状況でも、自分の火は一度確かに成立した。
そこまではフィナと同じだった。
けれど、その先が違う。
ティアは小さな火一つで身体を痛め、感覚を失いかけ、好きだったものの記憶まで薄くなった。
フィナは複数の魔法を使っても何も失わず、そのまま仲間の中で笑っている。
「なんで……」
ティアの視線は、もうフィナの魔法だけを追ってはいなかった。
笑い方。
仲間へ向ける表情。
失敗して言い返す姿。
ネムを抱きながら、レオンとエルナの言い争いを止めようとして余計に巻き込まれている姿。
今までもフィナのことは知っていた。
エルクから話を聞き、自分と似た力を持つ少女として気になっていた。
けれど今は、それだけでは足りない。
どうして壊れないのかだけではなく、どうしてそんなふうに笑えるのか知りたい。
何を好きで、何を嫌い、誰を大切にしているのか。
自分と同じような力を持ちながら、それでも普通の少女のように仲間の中で生きているフィナ・アウセリアという人間そのものへ、ティアの興味は初めて強く向かい始めていた。
人混みの向こうで、フィナがまた仲間たちに囲まれて笑っている。
ティアは痛みの残る右手を抱いたまま、その姿が通りの向こうへ消えるまで、じっと目で追い続けていた。




