第三章 27 『白髪の少女も使えない』
王都中心部から外れた細い裏通りには、魔法祭の名残だけが静かに残されていた。
建物の間には色鮮やかな飾り布が渡されているものの、軒先へ並んでいた初級光魔法式の小さな灯りはすべて消え、遠くの大通りで維持されている中級照明の白い光だけが路地の入口まで届いている。
祭典中断後、来場者のほとんどは広い通りや避難場所へ誘導されていた。
時折、離れた場所から衛兵や学院職員の声が聞こえる以外は静かで、祭りのために飾られた場所とは思えないほど人の気配が薄い。
その壁際で、ティアは自分の右手をじっと見つめていた。
白く見えるほど淡い白桃色の髪が肩の少し下で揺れ、青と金の大きな瞳には、普段の明るさよりも強い焦りが浮かんでいる。
掌を開いて指先を動かしながら、ティアは先ほどまで王都の各所で見ていた光景を思い返した。
「……みんな、使えなかった」
火も、水も、風も、土も、光も。
魔法使いたちはきちんと術式を完成させていた。それでも最後に現象へ変わる部分だけが何かに拒まれたように止まり、初級術式を組み込んだ魔導具も同じように機能を失っていた。
けれど、ティアは彼らと同じやり方で魔法を使っているわけではない。
杖もいらない。
詠唱もしない。
術式線を空中へ組み上げることもなく、求めた現象そのものへ直接触れるようにして力を引き出す。
その使い方だけなら、フィナと似ていた。
「だったら……私もできるよね」
ティアは少し意地を張るように口元を引き結び、右手を胸の高さまで上げた。
誰かに負けたと言われたわけでもないのに、フィナだけが特別なのだと決めつけることが悔しくて、確かめずに終わる気にはなれなかった。
「小さいのでいいもん。ちょっとだけなら、大丈夫」
周囲に人がいないことを確認してから、掌の上へ小さな炎がある姿を思い浮かべる。
初級術式を構築するのではなく、欲しい現象をそこへ直接成立させるため、自分の内側にある力へ意識を伸ばした。
「——原火現出〈アルケ・イグニア〉」
掌の上で空気が僅かに揺れ、その中心へ橙色の火種が生まれた。
術式が途中で止められる様子はなく、豆粒ほどの炎は不安定ながらも確かに形を持っている。
「……できた!」
ティアの表情がぱっと明るくなった。
王都中の初級魔法が沈黙しているのに、自分の火は生まれた。
普通の魔法使いたちがどれだけ試しても現象まで届かなかったのだから、少なくとも同じようには止められていない。
「ほら。私だって――」
言い切る前に、右手首の内側へ白い光が走った。
「っ……!」
細い亀裂のような光が皮膚の下から浮かび上がり、手首から前腕へ一気に伸びていく。
直後、腕の内部を焼きながら引き裂かれるような痛みが走り、ティアの肩が大きく震えた。
「ぁ……っ、痛……!」
それでも掌の炎そのものは消えていない。
王都の異常に壊されているのではなく、ティア自身の身体が、術式を介さず現象を成立させ続ける負荷へ耐えられていなかった。
「まだ……これくらいなら……!」
ティアは歯を食いしばり、手を下ろさなかった。
炎を安定させようと意識を強めると、火は僅かに大きくなる。その代わり、亀裂状の光は肘を越えて上腕へ伸び、痛みと一緒に右手の感覚まで少しずつ遠ざかっていった。
目で見れば、手はそこにある。
それなのに指先がどこを向いているのか、自分がどれほど力を入れているのかが曖昧になる。
ティアは左手で右手首を支え、感覚を繋ぎ止めるように指を何度か動かした。
「やだ……まだ、分かるから……」
呼吸を整えようとした時、別の違和感が胸の奥を掠めた。
祭りの途中で食べた甘い焼き菓子を思い出したはずなのに、美味しかったということしか浮かばない。
どんな味だったのか、口へ入れた時にどんな気持ちになったのか、その部分だけが薄い霧に隠されたように曖昧になっていた。
「……なんで」
甘いものが好きだったことは分かる。
今日も楽しみにしていたことは覚えている。
それなのに、さっきまで残っていたはずの味だけが思い出せない。
その小さな欠落に意識を乱された瞬間、掌の炎が大きく揺らいだ。
「待って。まだ消えないで……!」
慌てて力を繋ぎ直そうとしたところで、肩口まで伸びていた亀裂光が強く明滅した。
身体の奥へ鋭い痛みが走って膝から力が抜け、ティアは壁へ肩を預けながらその場へ座り込む。
炎は最後に一度だけ形を保とうとしたものの、すぐに細かな光の粒へほどけて消えた。
壁にも地面にも傷は残らず、誰かに打ち消された痕跡もない。
「はぁ……っ、は……」
ティアは右腕を左手で抱え込み、浅く乱れた呼吸を何度も繰り返した。
亀裂状の光は徐々に薄れている。
それでも魔法を使った負荷が消えたわけではなく、指先の感覚が自分へ戻っているか確認するように、一本ずつゆっくり曲げていった。
「右手……分かる」
小指、薬指、中指と順番に動かしてから、ティアは胸の中で自分の名前を繰り返す。
ティア・エルネス。
迷わず浮かんだことに、少しだけ息を吐いた。
「……今回は、まだ大丈夫」
安心より、悔しさの方が強かった。
こうなることを知らなかったわけではない。
原初魔法を使えば、身体感覚だけでなく、名前や記憶、好きだったものへの気持ち、大切な相手との関係まで失うことがある。
だからアゼルも、十二原環の仲間たちも、無理に使うなと何度も止めてきた。
それでも今日は試したかった。
王都中の魔法使いが使えないのなら、自分はどうなのか。
そして、フィナはどうなのか。
ティアは壁へ背を預けたまま顔を上げ、細い路地の向こうにある大通りへ視線を向ける。
少し前、離れた場所から見ていたフィナは、杖も使わず術式も組まず、掌へ小さな炎を灯していた。
火だけではない。
水も、風も、土も、光も、闇も。
どれも何事もなかったように成立していた。
しかもフィナは、苦しんでいなかった。
腕に亀裂が走ることもなければ、自分の手を確かめる必要もない。
魔法を使ったあとも仲間たちと普通に話し、誰かの名前や好きなものを失った様子など、どこにも見えなかった。
「……ずるい」
胸の奥から出てきた感情を、ティアは否定しなかった。
自分の魔法も王都の異常には止められなかった。
その一点ではフィナに近いはずなのに、自分は小さな火を維持するだけで身体が悲鳴を上げ、好きだったものの記憶まで削られかけた。
「私だって、できるのに……」
悔しい。
羨ましい。
少し腹も立つ。
けれど、あれほど自然に同じような力を扱えるフィナなら、自分がどうして壊れていくのかを知る手掛かりになるかもしれない。
そんな期待まで一緒に湧いてくるから、ティア自身にもフィナをどう思えばいいのか分からなかった。
痛みの残る右腕を胸元へ抱き寄せながら、ティアは大通りの向こうにいるはずの少女を思い浮かべる。
「……あの子は、できた」
王都の異常を越えられるかどうかではなく、その力を使いながら自分自身でいられるかどうかという違いが、フィナとティアの間には確かに存在していた。




