第三章 26 『それ、本当に初級魔法なのか?』
学院の検証室には、先ほどフィナが使った六属性の記録が並べられていた。
火、水、風、土、光、闇のすべてで現象そのものは正常に成立しているにもかかわらず、術式測定欄だけは例外なく空白のままだった。
室内には学院側の解析担当者と魔導協会から派遣された職員が残り、中央の大型測定器へ何度も記録を送り直している。
フィナたち五人は少し離れた作業台の前に並び、表示板へ映し出される複雑な術式図を見上げていた。
「何回見ても、私のところだけ何もないね」
フィナが表示板の端を指さす。
「何もないという表現が正しいか確認してるんだ」
レオンは測定札を一枚ずつ並べながら、通常の初級火魔法とフィナの記録を重ねた。
「測定器が壊れた可能性も、記録容量を超えた可能性も潰す。似た結果が出たからって、すぐ結論に飛ぶな」
「でも、さっき火も水も全部同じだったよ?」
「だから確認してる」
「……レオン、確認を確認してる」
ネムが椅子へ浅く座ったまま付け加える。
「……それ、終わる?」
「終わらせるためにやってる」
「……終わらなそう」
「お前まで不安を足すな」
レオンが眉間を押さえる横で、エルナは別の表示板を覗き込んでいた。
そこには一般的な初級術式の構造が、属性ごとに分けて示されている。
「火と水で途中は全然違うのに、最初と最後だけ似てるのね」
「ああ。現代の初級魔法は、初心者でも安定して使えるように共通化されてる」
レオンが表示を切り替えると、異なる属性の術式から同じ形の部分だけが残った。
「魔力を術式へ受け入れる入口と、完成した術式を現象へ繋ぐ最後の部分。属性ごとの処理は違っても、初級魔法ではここを共通基底として使う」
リリカは自分の杖を両手で持ちながら、表示板の最後にある細い円環を見つめた。
「私の火が出なかったのも、そこなんですよね」
「そうだ。お前の術式は途中まで正常だった。魔力も流れてるし、火属性への変換もできてる」
レオンはリリカの測定記録を横へ呼び出し、最後の一点だけ赤く点滅させた。
「現象へ成立する直前で、外側から拒絶されてる」
「つまり、私が急に下手になったわけではない……?」
「少なくとも今回に関してはな」
「今回に関してはって付けなくてもよくないですか!?」
リリカが勢いよく振り返ると、エルナは口元を押さえながら肩を揺らした。
「そこは普段の訓練まで保証できないでしょ」
「エルナ先輩まで!」
「でも今の火が出ない原因はリリカじゃないわ。それはちゃんと分かってる」
少しだけ声を柔らかくしたエルナに、リリカも杖を握る力を緩めた。
フィナはそんな二人を見たあと、自分の記録へ視線を戻した。
通常の初級魔法には、今説明された共通基底がある。今の王都では、その最後の部分が何かに妨害されているから、誰も初級魔法を成立させられない。
それなのに、自分の魔法には比較するための線すら表示されていない。
「じゃあ私の火は、その最後のところが強すぎて通ったってことじゃないの?」
フィナの問いに、レオンはすぐ首を横へ振った。
「違う可能性が高い」
「強すぎるんじゃないの?」
「今回はそこじゃない」
レオンは通常の初級火魔法とフィナの記録を完全に重ねた。
一般術式には、魔力が流れ込み、複数の構造を経由して火へ変換される道筋がある。一方、フィナの記録には魔力反応と火の発生だけがあり、その間を繋ぐ術式構造が何も存在していなかった。
「耐性で妨害を押し切ってるなら、最低でも術式自体は検出される。ところがフィナには、妨害されるはずの共通基底が最初からない」
「……ない?」
「入口も、属性変換式も、成立基底もだ」
フィナは表示板と自分の右手を交互に見る。
「じゃあ、どうやって火になってるの?」
その問いに、レオンは答えなかった。
学院側の解析担当者たちも、測定器へ新しい記録を入れながら沈黙している。魔導協会の職員が予備の計測具を追加し、別系統の装置で同じ試験を行ったが、結果は変わらなかった。
フィナは指定された位置まで移動し、掌を上へ向ける。
「もう一回、火でいいんだよね?」
「ああ。今度は出力を変えるな。さっきと同じ程度だ」
「分かってるよ。——小さい火」
掌の中央へ、小さな炎が灯る。
同時に複数の測定器が光り、フィナから流れた魔力と、発生した火の温度や位置を記録していく。
それでも術式構築欄だけは一度も反応しなかった。
「……やっぱり、何も出ませんね」
リリカが表示板を見上げる。
「……フィナの魔力、動いてる」
ネムは炎ではなく、その周囲へ意識を向けていた。
「……でも、形になってない」
「火にはなってるよ?」
「……術式の形」
ネムは少し考えるように間を置いてから、必要なところだけを短く続ける。
「……魔力が線になって、魔法になる感じじゃない。フィナが火にしたら、そのまま火になる」
「その説明、分かりやすいけど余計に怖いんだけど」
フィナの口元から笑みが少し消える。
そのとき、頭の奥へ以前聞いた言葉が浮かんだ。
学院の地下へ侵入した黒い仮面の男。
全属性へ適合し、術式を必要とせず、認識だけで現象を成立させる存在。
そして、あの男がフィナへ向けて使った名称。
「……原初魔法」
室内の空気が僅かに変わった。
レオンが表示板からフィナへ視線を移す。
「覚えてたか」
「さすがに覚えてるよ。あの人、私のこと『完全な原初魔法適合者』って言ってたよね」
フィナは掌の炎を消し、指先をゆっくり閉じた。
「私、あの時は意味分かってなかったけど」
「今も意味は確定してない」
レオンはすぐに釘を刺す。
「あの侵入者は敵だった。原初魔法という名称も、説明しかけた内容も、全部あいつ側から出た情報だ」
「でも、今の結果と似てない?」
「似てる。だから無視はできなくなった」
レオンは学院地下で残した侵入者の記録と、今回の測定結果を並べた。
「術式を必要としない。認識によって現象を成立させる。あいつが言った特徴と、今確認できているフィナの状態は一致する部分が多い」
エルナは腕を組んだまま表示板を見つめる。
「じゃあ、本当に原初魔法って可能性があるのね」
「可能性は前よりかなり上がった。ただし、まだ断定はできない」
「どうして?」
フィナが首を傾げる。
「俺たちは原初魔法そのものの正式な資料を持ってないからだ」
レオンは侵入者の記録を指先で閉じた。
「敵がそう呼んだから、今日から全部それで確定、なんてやり方はしない。少なくとも学院と魔導協会側では、今分かってる事実だけを積み上げる」
「レオンらしいわね」
「曖昧なまま分類する方が気持ち悪い」
「そこまで言うと趣味みたいになるわよ」
エルナが少し呆れた顔をする横で、フィナは自分の手を見つめ続けていた。
今まで、自分は初級魔法を使っているだけだと思っていた。
他の人より魔力が多くて、加減の基準がおかしくて、そのせいで結果だけが大きくなる。
そう考えていれば、少なくとも自分も同じ魔法使いの中にいる気がしていた。
「私……初級魔法、使ってなかったのかな」
小さく漏れた声に、リリカがすぐ顔を上げた。
「フィナ師匠!」
「う、うん?」
「たとえ初級魔法ではなかったとしても、私の師匠であることに変更はありません!」
「そこは変更されないんだ」
「もちろんです!」
リリカは力強く胸を張り、少し考えてからさらに目を輝かせる。
「むしろ、初級魔法だと思って世界の常識そのものを飛び越えていたということは――」
「待って! 今は壮大にしないで!」
「まだ最後まで言ってません!」
「最後まで聞いたら伝説が一個増えそうだから止めてるの!」
エルナが額へ手を当てる。
「リリカ、今はフィナを安心させたいのか不安にさせたいのかどっちなのよ」
「安心です!」
「方法を見直しなさい!」
ネムは騒ぐ三人を見上げたあと、フィナの袖を指先で摘まんだ。
「フィナはフィナ」
短い一言に、フィナは少しだけ目を丸くする。
「魔法の名前、変わっても。フィナは変わらない」
「……そっか」
レオンも記録具を閉じながら、フィナへ向き直った。
「正体が分からないからって、お前まで急に別人になるわけじゃない。調べるのは魔法の方だ」
「うん」
「ただし、分からない魔法を今まで以上に適当に使うな」
「いい話のまま終わらせてよ!」
「安全管理は別件だ」
「別件で今入れないで!」
エルナとリリカが同時に笑い、ネムもフィナの袖を掴んだまま離れなかった。
フィナはもう一度、自分の掌へ視線を落とす。
——原初魔法。
敵から与えられただけだったその言葉が、今度は学院と魔導協会の測定結果によって、自分のすぐ近くまで戻ってきている。
レオンは最後にフィナの記録を拡大し、術式構築欄が完全に空白であることを確認した。
「フィナ」
「なに?」
深い青の瞳が、表示板ではなくフィナ自身へ向けられる。
「——それ、本当に初級魔法なのか?」
答えを持たないまま、フィナは何も映らない術式欄と自分の右手を、しばらく交互に見つめていた。




