第三章 25 『どうして私だけ?』
フィナは開いた右手のひらを見つめたまま、いつもより少しだけ慎重に意識を向けた。
「……小さい火?」
次の瞬間、手のひらの少し上へ、橙色の炎がぽっと灯った。
大きさは指先ほど。熱も周囲へ広がらず、昨日まで何度も見てきたフィナの「小さい火」と何一つ変わらない。
誰も声を出さなかった。
レオンは魔導板を持った姿勢のまま固まり、エルナも腕を組むことさえ忘れて炎を見つめている。ネムの眠そうな目は普段より大きく開き、リリカは杖を胸へ抱えたまま、息を止めたように動かなかった。
「……出た」
最初に声を出したのは、フィナ本人だった。
自分の手の上で揺れている火を見ながら、信じられないものを見るように何度か瞬きをする。
「普通に出た」
リリカの視線が、自分の杖からフィナの火へゆっくり移る。
「フィナ師匠……本当に……」
その声には驚きだけでなく、言葉にしきれない戸惑いが混じっていた。
フィナは慌てて炎を消すと、今度は四人の顔を順番に見る。
「え、待って。これって出ちゃ駄目だったやつだよね?」
「駄目というか、今は誰も出せないはずなのよ」
エルナはようやく腕を組み直したものの、いつもの強気な調子は薄い。
「王都中で初級火魔法が止まってるのに、何でフィナだけ普通に出るの?」
「私が聞きたいよ!」
フィナが困ったように両手を広げる。
レオンは驚いた表情をすぐ引っ込め、魔導板へ視線を落とした。
「もう一度。条件を固定する」
「また火?」
「いや、火だけか確かめる」
レオンは訓練区画の中央へ歩き、周囲に人や可燃物がないことを確認した。
そのうえで、フィナから十分な距離を取りながら魔導板の計測機能を起動する。
「最小規模だけだ。出力を上げるな。まず水」
「分かった」
フィナは右手を前へ出し、今度は掌の上に少量だけ水を思い浮かべた。
「——お水」
透明な水が、掌の上へ小さな球になって浮かんだ。
揺れも濁りもない。
レオンの魔導板には魔力反応が記録されているが、異常停止を示す表示は出なかった。
「……成立」
レオンは画面を確認しながら、次の条件へ進む。
「風。周囲へ広げないように、手元だけ」
「弱い風ね」
フィナが指先を少し動かすと、手の周囲だけで柔らかな風が回った。
床に落ちていた小さな紙片が一枚だけふわりと持ち上がり、フィナが慌てて指を止めると、そのまま足元へ落ちる。
「ごめん、ちょっと動いた」
「その程度なら問題ない」
レオンは記録を見たまま答えた。
エルナはフィナの手元と魔導板を何度も見比べている。
「火も水も風も……全部出るのね」
ネムは《魔揺感知〈センタ・マナリア〉》でフィナの魔力反応を追いながら、小さく首を傾げた。
「止められてない」
「他のみんなと違う?」
フィナが尋ねると、ネムは少し考えてから答えた。
「違う。みんなは最後で止まる。フィナは、そのまま出る」
その言葉に、リリカの指が杖の柄を強く握った。
レオンは次の検証へ移る。
「土。地面を変形させるな。小さい塊だけ作れ」
「うん」
フィナが足元の空いた場所へ視線を落とす。
「——ちょっと土」
手のひらほどの土の塊が床の上へ盛り上がった。
既存の床材を壊すことなく、指定した場所だけに小さくまとまっている。
レオンはその状態を確認すると、すぐ次へ移した。
「光」
「小さい明かりでいい?」
「ああ」
フィナの指先に、豆粒ほどの白い光が灯る。
王都中で初級光魔法の簡易照明が消えている今、その小さな光は妙に鮮明だった。
リリカは思わず一歩だけ近づき、目を離せないまま呟く。
「本当に全部……」
「まだ闇が残ってる」
レオンの声に、フィナが今度は少し困ったような顔をする。
「闇って、小さくするならどうすればいいの?」
「視界を奪うほど広げるな。掌の上だけ影を濃くできるか?」
「やってみる」
フィナは左手を開き、その上へ意識を集中した。
「——小さい闇」
掌の上だけに、黒い影が浮かぶ。
周囲の光を飲み込むほどではなく、手のひらサイズの暗がりだけが静かに形を保っていた。
レオンの魔導板には、六つ目の魔力反応が記録される。
火、水、風、土、光、闇。
六属性すべて、問題なく成立した。
訓練区画に、再び沈黙が落ちる。
「……全部使えた」
フィナは自分の両手を見下ろした。
「なんで?」
その問いに、すぐ答えられる者はいなかった。
エルナは眉を寄せたまま、さっきまでフィナが魔法を出していた場所を見る。
「普通なら、少なくとも一つくらい引っかかってもおかしくないわよね」
「そうだな」
レオンは魔導板の記録を確認しながら、声を低くする。
「王都全域で止まってるのが初級術式なら、属性が違っても共通構造で拒絶される。実際、他の術者は全部そこで止まってる」
リリカはその言葉を聞き、自分の杖へ視線を落とした。
「……私も、もう一度試していいですか?」
レオンは一瞬だけ迷ったが、安全な範囲だと判断して頷いた。
「一回だけだ。無理に魔力を上げるな」
「はい」
リリカはフィナから数歩離れた位置へ移動し、昨日まで何度も使ってきた姿勢で杖を構えた。
魔力を流し、《火珠弾〈ブラーサ〉》の初級術式を組む。
赤い術式光は正常に完成した。
けれど、その先に炎は生まれなかった。
リリカの表情が僅かに固まる。
「……やっぱり出ません」
フィナは何か言いたそうにリリカを見るが、簡単な言葉では埋められないと思ったのか、すぐには口を開かなかった。
エルナも自分で確かめるように、人のいない方向へ右手を向ける。
「私もやるわ。初級だけ」
エルナの指先に《雷針〈アグハ・ヴォルティア〉》の初級術式が形成される。
精度は申し分ない。
それでも雷は生まれず、術式光だけが消えた。
「……私も駄目」
レオン自身も簡単な初級構築術式を試したが、結果は同じだった。
ネムは術式の流れを見ながら、静かにフィナへ目を向ける。
「フィナだけ」
「うん……」
その言葉を否定できないことが、フィナには一番困った。
火も水も風も土も光も闇も、いつもと同じように使えた。
自分では何も特別なことをしていない。
王都中の魔法使いができなくなったことを、自分だけが普通にできている。
「私、本当にいつも通りなんだけど……」
フィナは困惑したまま、両手を見つめる。
「何も違うことしてないよ?」
「それを調べる」
レオンは魔導板の計測設定を切り替えた。
「競技で、フィナの魔法だけ術式反応を拾えなかった。あの時は機器側の誤差として流したけど、今は無視できない」
フィナの顔が少し強張る。
「また測るの?」
「ああ。今度は魔力反応だけじゃなく、術式形成を直接追う」
レオンは計測装置をフィナの正面に置き、距離と角度を調整した。
エルナは装置の横へ回り込み、表示面を確認する。
「壊れてないでしょうね?」
「さっきリリカとお前の術式は正常に読めてる」
「なら比較できるわね」
リリカも少し離れた位置から装置を見つめ、ネムはフィナの隣で魔力の流れへ意識を向ける。
全員の視線が集まり、フィナは落ち着かない様子で右手を上げた。
「何を出せばいい?」
「さっきと同じ火。最小規模で」
「……分かった」
フィナは掌を開く。
「——小さい火」
橙色の炎が、何の抵抗もなく灯った。
同時に計測装置が作動し、複数の数値が表示面を流れていく。
魔力反応はある。
火属性の現象も成立している。
それなのに、通常ならその間へ表示されるはずの術式構築記録だけが、いつまで待っても現れなかった。
レオンが無言で表示面へ顔を近づける。
エルナも隣で息を呑み、リリカはフィナの炎と装置を交互に見た。
最後に、計測装置の中央へ短い文字が浮かび上がった。
——術式反応なし。




