第三章 24 『出ない火』
救援活動がひと段落したあと、リリカは学院東側の訓練区画へ戻っていた。
祭典用に開放されていた場所だが、今は競技も展示も止まり、人影はほとんどない。遠くからは王都各地へ指示を飛ばす魔導放送の声が断続的に聞こえ、そのたびに、祭りの途中なのだという事実だけが妙に浮いて感じられた。
リリカは簡易標的の前に立ち、杖を両手で握る。
「もう一度……」
昨日まで何度も繰り返してきた初級火魔法だった。
杖へ魔力を流し、火属性へ整え、《火珠弾〈ブラーサ〉》の初級術式を組み上げる。手順を飛ばさず、一つずつ確かめるように進めていく。
赤い術式光が杖先へ集まり、構築は問題なく完成した。
それでも、火は出なかった。
リリカは一度息を止め、術式を解除する。
「今の、ちゃんとできてましたよね……」
少し後ろで魔導板を確認していたレオンは、記録から目を離さないまま答える。
「構築までは正常だ。魔力供給も途切れてない」
「では、どこが駄目なんですか?」
リリカが振り返ると、レオンは記録を拡大し、最後の部分だけを指で示した。
「ここだ。術式が現象へ繋がる直前で止まってる」
その説明を聞いたエルナも、レオンの肩越しに魔導板を覗き込んだ。
「途中で崩れてるわけじゃないのね」
「ああ。むしろ綺麗すぎるくらいだ」
レオンは普段のリリカの記録と今の記録を並べる。
「術式構築、属性変換、出力調整。そこまでは昨日とほぼ同じ。でも、最後に火として成立する部分だけが抜け落ちてる」
フィナはリリカのすぐ横で、杖先へ残る淡い術式光を見つめていた。
「じゃあ、リリカが失敗してるわけじゃないんだよね?」
「少なくとも、術式の組み方が原因ではない」
レオンの返答を聞いても、リリカの表情は晴れなかった。
「でも、出てないです」
「それはそうだけど――」
「もう一回やります」
リリカはフィナの言葉を遮るつもりはなかった。ただ、止まっている方が怖くて、すぐに標的へ向き直った。
今度は魔力量を少しだけ増やす。
普段なら必要以上の出力になるため、競技中なら減点される調整だった。
それでも結果は変わらなかった。
術式は完成する。
赤い光も揺らがない。
なのに、その先に火だけが生まれない。
「……もう一回」
リリカは今度は魔力量を戻し、杖の角度を変えた。
「リリカ」
エルナが少し強めの声を向ける。
「同じことを続けても、今は結果変わらないわよ」
「分かってます」
リリカはそう答えながらも、杖を下ろさなかった。
「でも、何か一つくらい違うかもしれません」
再び術式を組む。
今度は発動までの速度を落とし、普段なら意識しない細かな部分まで確認する。
火属性への変換は正常。
魔力の流れにも乱れはない。
それでも最後の瞬間、何か見えない壁へ触れたように現象だけが成立しなかった。
リリカの指先がわずかに震える。
「……どうして」
横で見ていたネムが、《魔揺感知〈センタ・マナリア〉》で術式の消えた空間へ意識を向け、目を細めた。
「……押し返されてる」
レオンがすぐに顔を上げる。
「どこで?」
「最後」
ネムは標的ではなく、リリカの杖先に残る魔力の気配を追っていた。
「火になるところで、外から止められてる」
リリカがゆっくりネムへ振り返る。
「外から……?」
「うん」
ネムは自分の胸元へ枕型魔導具を抱え直しながら、少し言葉を探すように間を置いた。
「リリカの魔力は行こうとしてる。でも、向こうが『駄目』ってしてる感じ」
その表現に、レオンは魔導板へ新しい記録を書き足した。
「術式不良じゃなく、成立側への干渉か」
エルナは腕を組み直し、訓練区画の外へ視線を向ける。
「王都中で同じことが起きてるなら、誰か一人の魔力を狙ってるわけじゃないわね」
「おそらくな」
レオンはさっきまでの複数記録を並べながら、声を低くする。
「初級術式の共通部分を通った現象だけ、最後に拒絶されてる。少なくとも今のデータなら、その見方が一番近い」
リリカは説明を聞きながらも、自分の杖から目を離せなかった。
昨日まで、この杖から火は出ていた。
予選でも準決勝でも、失敗することはあっても、最後には自分のやり方で立て直せた。
なのに今は、正しくやっても何も出ない。
「私の火なのに……」
小さく漏れた声に、フィナがすぐ横から顔を覗き込む。
「リリカ」
「大丈夫です」
リリカは反射的に笑おうとしたが、上手くいかなかった。
「ちゃんとできてるって、レオンさんも言ってますし。私が下手になったわけじゃないって分かってます」
フィナは何も言わず、その続きを待つ。
「でも、できないのは同じです」
リリカは杖を胸元へ引き寄せる。
「昨日まで普通にできてたことが、今日はできません。屋台の火も点けられないし、救援でも火が必要なところへ行けないし……」
フィナの表情が少し曇った。
「でもリリカ、今日いっぱい手伝ってたよ。水の容器運んだり、人の案内したり」
「それはできます」
リリカはすぐに答える。
「でも、それなら私じゃなくてもできます」
「そんなこと――」
フィナが言葉を続けようとすると、リリカは首を横へ振った。
「すみません、フィナ師匠。分かってるんです。できることが全部なくなったわけじゃないって」
声は落ち着いていたが、杖を握る手には力が入ったままだった。
「ただ、ずっと使ってきた火が出ないのが……思ってたより嫌みたいです」
エルナは何か言いかけたものの、すぐには口を挟まなかった。
レオンも魔導板から顔を上げ、リリカの様子を見ている。
少しだけ静かになった訓練区画で、リリカはもう一度杖先へ視線を落とした。
「昨日までは、フィナ師匠みたいにできないことばっかり気にしてました」
フィナが目を瞬く。
「でも今は、自分の火まで出せません」
リリカの口元に、力のない笑みが浮かぶ。
「何だか、贅沢なことで悩んでた気がします」
「そんなことないよ」
今度はフィナがすぐ否定した。
「リリカが私みたいになりたいって思ってたことも、今自分の火が出なくて嫌なのも、別に変じゃないと思う」
「フィナ師匠……」
「だって、できてたことが急にできなくなったら、私だって嫌だよ」
フィナはそこまで言ってから、少し困ったように笑った。
「たぶん、すごく困る」
リリカはその顔を見つめた。
フィナはいつも魔法を使える。
火も、水も、風も、他の属性も。
少なくともリリカの目には、魔法が出ないことで困っている姿など一度も見たことがなかった。
だからこそ、胸の奥へ浮かんだ疑問がそのまま口から出た。
「師匠なら、こんなの関係なく出せるんでしょうか」
フィナの表情が止まった。
「……え?」
「今、初級魔法だけが全部止められてますよね」
リリカは自分の杖とフィナの手を交互に見る。
「でもフィナ師匠の魔法って、ずっと普通の初級魔法と少し違うって言われてましたし……」
競技で、測定器はフィナの魔法から術式反応を拾えなかった。
あの時は機器の読み取り不良として流された。
けれど今、王都中の初級術式だけが止まっている。
「もし師匠が使ったら……どうなるんでしょう」
リリカの言葉に、フィナはすぐ答えられなかった。
「私は……」
自分の手を見る。
「普通に小さい火を出してるだけだと思ってたけど……」
レオンの視線が、フィナの手へ移る。
エルナも同じように表情を引き締めた。
「確かめる価値はあるわね」
ただし、エルナはすぐフィナ本人へ顔を向ける。
「でも勝手にやるのはなしよ。レオン、場所と条件決めて」
「もちろんだ」
レオンは周囲の安全を確認し、使用していない標的だけが置かれた空間を指した。
「最小規模。対象は空中。熱も広げるな。いつもの『小さい火』だけでいい」
「そこまで言われなくても分かってるよ!」
フィナは抗議したものの、今度は誰も笑わなかった。
ネムもフィナの魔力反応を捉えるように目を細め、リリカは杖を胸元へ抱いたまま、その手のひらを見つめている。
フィナ自身も、いつもなら何も考えずに上げるはずの右手を、少しだけためらってから開いた。
王都では今、初級火魔法は誰にも使えない。
リリカの術式も、最後の成立だけを拒絶された。
その中で、自分の火だけはどうなるのか。
フィナは開いた手のひらを見つめ、確かめるように小さく首を傾げた。
「……小さい火?」




