第一章 8 『ネムの昼寝場所』
学院地下の暴走が収まった翌朝、ネム・クォーツは特別研究生として学院生活へ復帰することになった。
ただし、復帰といっても通常の授業へ一人で戻るわけではない。フィナの近くにいる間は魔力が安定するという調査結果から、当面は二人で行動し、レオンがその記録と安全確認を担当する。
「というわけで、今日は私が学院を案内するね!」
学院本棟の玄関で、フィナは自信たっぷりに胸を張った。
その右手の袖を、ネムが長い袖の中から出した指で掴んでいる。昨日と変わらない眠そうなジト目で、広い廊下を見回す気配はまったくなかった。
「フィナ、学院に詳しい?」
「昨日、試験でいっぱい歩いたから大丈夫だよ!」
「入学して二日目」
「細かい日数は気にしないで!」
フィナは笑顔のまま、正面に伸びる廊下を選んだ。
最初に案内するのは教室、その次が図書室、最後に食堂。頭の中では完璧な順番だったが、しばらく進むと窓の外に見覚えのある中庭が三回現れた。
「……この花壇、さっきも見た気がするね」
「三回目」
「似た花壇が多い学院なんだよ、きっと」
「花、一本だけ曲がってる。全部同じ」
「よく見てるね!?」
ネムは眠そうなのに、細部だけは妙によく覚えていた。
二人は曲がった花を目印に別の階段を選び、今度こそ教室棟へ向かう。しかし、上ったはずなのに気づけば地下へ続く扉の前に立っていた。
「えぇ!? どうして下に来たの!?」
「フィナが、こっちって言った」
「案内板の矢印がこっちだったよ!」
「それ、地下保護区画」
「文字は読めるのに、なんで見落としたんだろう……」
「勢いで歩いたから」
ネムの短い指摘が、逃げ道を綺麗に塞いだ。
「二人そろって、何をしている」
背後から聞き慣れ始めた声が届き、フィナはゆっくり振り返った。
レオンが記録板を片手に立っている。その表情は、探し物をようやく見つけた安堵より、見つかった場所への呆れの方が強かった。
「学院を案内してたの」
「地下保護区画へ?」
「途中で道が変わったみたい」
「学院の廊下は勝手に変わらない」
「でも、同じ花壇が三回も出てきたよ?」
「お前が同じ場所を三周しただけだ」
「やっぱり!?」
「なぜ驚く」
レオンは記録板へ何かを書き込んだ。
「今、何を書いたの?」
「午前八時四十分。フィナ・アウセリア、案内開始から十五分で迷子」
「記録しなくていいよ!」
「行動記録も俺の役目だ」
「初日から不名誉な記録が増えてる!」
フィナが抗議しても、レオンの筆は止まらなかった。
その間もネムはフィナの袖を掴み続けている。歩き出そうとすると身体ごと引かれ、フィナは隣を見下ろした。
「ネム、もう少し手を緩めても大丈夫だよ?」
「離すと、歩くの面倒」
「私の袖、移動用の取っ手になってる!?」
「便利」
「便利と言い切った!」
「甘やかすな。そのままでは、いずれ自分で一歩も歩かなくなるぞ」
レオンの警告に、ネムはフィナの袖をさらに深く握った。
「もう、あまり歩きたくない」
「進行が早い!」
「でも、眠そうだし……」
「そこで庇うから悪化する」
フィナは困ったように笑いながらも、袖を引かれる速度に合わせて歩き始めた。
レオンの案内で、今度こそ三人は白級の基礎教室へ到着した。授業開始までにはまだ少し時間があり、フィナは空いている窓際の席をネムへ勧める。
「ここなら日が当たって、暖かいよ。昼寝にもよさそうじゃない?」
「授業を受ける席だ。昼寝場所として選ぶな」
「でも、ネムは寝るのも大事なんでしょ?」
「大事」
「本人も言ってるよ?」
「本人の希望だけで授業の目的を変更するな」
ネムは既に机へ枕型の魔導具を置き、満足そうに頬を乗せていた。
「ここ、採用」
「何に採用されたの!?」
「昼寝場所」
「まだ授業も始まってないよ!」
担当教員が教室へ入ってきても、ネムは顔を上げなかった。
授業内容は、初級魔法に使用する練習用魔導具の扱い方だった。各机へ一台ずつ置かれた小型装置に、決められた量の魔力を流し、内部の術式を安定させる。
「フィナは触る前に俺へ確認しろ」
「分かってるよ。今日は何も壊さないから!」
「その宣言は記録しておく」
「信用する方を記録して!」
フィナの机には、念のため魔導具が置かれなかった。
代わりにレオンの操作を隣から観察し、魔力を流す量や術式の光り方を覚えることになった。ネムは前の席で眠っているように見えたが、教員が説明を止めるたびに、ほんの少しだけ耳を動かしていた。
授業が半分ほど進んだところで、教室後方から異音が響いた。
練習用魔導具の一つが赤く明滅し、内部から白い煙を吹き出している。魔力の供給を止めても熱は上がり続け、外装まで赤く染まり始めた。
「全員、魔導具から離れて!」
担当教員が生徒たちを廊下側へ退避させる。
過熱した装置は窓際の机にあり、その右側には壁、左側には空いた通路がある。周囲の生徒は離れたが、このまま内部の魔力核が破裂すれば、机や窓を巻き込む可能性があった。
「冷却術式が停止している。外から水を掛ければ内部の魔力と反発するぞ」
レオンは装置の前へ防壁を展開し、内部構造を測定札で確認した。
「じゃあ、熱いところだけ冷やせばいい?」
「できるのか?」
「たぶん。お水を出すより、熱を水の方へ持っていけば――」
「待て。その『たぶん』をもう少し詳しく説明しろ」
魔導具の外装が大きく震えた。
説明している時間はない。フィナはレオンの防壁越しに装置を見つめ、内部に集まった熱だけを意識した。
外側はそのまま。
机も、壁も、教室の空気も冷やさない。熱くなりすぎた中身だけを、冷たい水の底へ沈めるように冷やす。
「——冷たい水!」
フィナの指先に、露ほどの小さな水滴が生まれた。
水滴は防壁をすり抜け、魔導具の表面へ触れる。しかし、外装には水の跡さえ残らなかった。
直後、装置の赤い光が消えた。
白煙も止まり、振動も収まる。教室の温度は変わらず、窓にも机にも霜は付いていない。
「止まった!」
フィナが笑顔を向ける中、レオンは慎重に防壁を維持したまま、魔導具の蓋を開いた。
内部の歯車、魔力核、接続線が、透き通る氷の中へ完全に閉じ込められている。熱源だけではなく、装置の中身すべてが芯まで凍っていた。
いつの間にか起きていたネムが、レオンの横から内部を覗き込む。
「中、冬」
「えっ、そんなに?」
「全部、かちかち」
フィナは氷漬けになった装置を見て、首を傾げた。
「冷やしすぎたかな?」
「疑問形にする段階は過ぎている!」
レオンのツッコミが教室へ響いた。
「でも、外は凍ってないよ?」
「外装と周囲を除外し、内部に存在する熱だけを奪った結果、装置全体が凍結したんだ。温度だけを選択して移動させる現象は、初級水魔法ではない!」
「冷たい水だよ?」
「水滴は発動のきっかけにしかなっていない!」
「ちゃんと水、出たよ?」
「そこだけ初級らしくても、結果が初級ではない!」
フィナは褒められたのか怒られたのか分からず、担当教員とレオンを交互に見た。
結果として、魔導具は破裂せず、教室にも負傷者にも被害はなかった。内部は凍ったものの、ゆっくり解凍すれば修理できる範囲らしい。
「じゃあ、成功?」
「事故の阻止には成功。制御の評価は保留だ」
「レオンの採点、厳しい……」
「ネムなら、七十点」
「ネムの方が優しい!」
「残り三十点、魔導具が冬眠した分」
「やっぱり厳しい!」
昼休みになると、三人は学院の食堂へ移動した。
フィナは焼きたてのパンと野菜の煮込み、レオンは肉料理、ネムは小さな果実菓子と温かいミルクを選んだ。窓際の席へ並んで座り、ようやく落ち着いた昼食が始まる。
「ネム、ちゃんとご飯も食べようね。お菓子だけじゃ大きくなれないよ」
「ミルクある」
「飲み物だけじゃ足りないよ」
「パン、半分ほしい」
「うん。食べられる分だけね」
フィナが自分のパンを半分に分けると、ネムは小さな両手で受け取った。
しかし、二口ほど食べたところで動きが止まる。瞼がゆっくり下がり、身体がフィナの方へ傾いた。
「ネム?」
「眠い」
「食べ終わってから寝よう?」
「無理」
短く答えたネムは、椅子を寄せることもなく、フィナの膝へ頭を置いた。
「えぇ!? ここで寝るの!?」
「ここ、採用」
「教室だけじゃなかったの!?」
ネムは枕型の魔導具を抱えたまま、フィナの膝へ頬を預けた。数秒もしないうちに、規則正しい寝息が聞こえ始める。
フィナは片手にスプーンを持った姿勢で固まった。
「どうしよう。動けない」
「起こせばいい」
「でも、気持ちよさそうだよ?」
「そこで許すから、次から当然のように膝を使うぞ」
「まだ小さいんだし、少しくらいいいじゃない」
「その少しが毎日になる」
「ネム、毎日でもいい」
「起きてる!?」
目を閉じたまま返事をしたネムは、フィナの服を掴み直して再び静かになった。
フィナは起こすことを諦め、片手でネムの頭を支えながら食事を続けた。煮込みへスプーンを伸ばすたびに姿勢が不自然になり、向かいのレオンが呆れた目を向ける。
「食べにくそうだな」
「食べにくいよ。でも、可愛いから仕方ないかなって」
「完全に甘やかしている」
「レオンも、寝たら膝を貸してあげようか?」
「なぜ俺まで寝る前提なんだ」
「疲れてそうだから」
「原因の半分はお前だ!」
フィナは楽しそうに笑い、ネムの銀紫色の髪をそっと整えた。
午後になると、学院から三人へ新しい予定が伝えられた。フィナの魔法制御、レオンの記録と安全補助、ネムの静寂魔法による安定性を確認するため、翌日から学院外での課外実習へ参加することになったのだ。
三人で行動する初めての実習を前にしても、ネムはフィナの膝を離れず、そのまま昼休みが終わるまで安心しきった寝息を立て続けていた。




