第一章 7 『うるさい魔力』
記録室を出たフィナとレオンは、学院本棟の奥にある地下階段へ向かった。
地上の明るい廊下とは違い、階段の壁には青白い照明石が一定間隔で埋め込まれている。降りるほど空気は冷たくなり、床や壁に刻まれた魔法陣も複雑なものへ変わっていった。
「すごい……壁の模様、全部光ってる!」
「封印術式だ。触るな」
「まだ触ってないよ?」
「右手が伸びている」
フィナは壁の寸前まで近づいていた指先を、そっと背中へ隠した。
「ちょっと触ってみたら、何の魔法か分かるかもしれないのに」
「分からなくていい。ここは危険な魔導具や特殊な保護対象を管理する区画だ」
「見るだけなら?」
「目で見ろ。手で見るな」
「手で見てるわけじゃないよ!?」
レオンの注意を受けながら、二人は二重の金属扉を抜けた。
その先には円形の通路があり、壁沿いに小型の魔導具がいくつも並んでいる。透明な管の中を淡い光が流れ、天井近くでは歯車型の観測器が音もなく回転していた。
「あれ、可愛いね。持って帰れるかな?」
「学院地下の観測器を持ち帰ろうとするな」
「丸くて、くるくるしてるよ?」
「外見で施設の備品を私物化するな」
「じゃあ、撫でるだけ」
「触るなと言った直後だ!」
伸ばされたフィナの手首を、レオンが反射的に掴んだ。
そのとき、通路の奥から低い振動が伝わった。壁の術式が一斉に明滅し、先ほどまで滑らかに流れていた光が一瞬だけ逆方向へ走る。
レオンはすぐにフィナの手を離し、腰の測定札を取り出した。
「反応源はさらに奥だ。俺から離れるな」
「うん。今度こそ何も触らない」
「今度こそ、が多すぎる」
「成長の途中だから!」
「反省が定着する前に次の事件が起きているだけだ」
円形通路を抜けた先には、大きな保護室があった。
床には幾重もの魔法陣が重なり、その中央に透明な結晶で作られた寝台が置かれている。周囲には防壁を支える柱と、古びた金属製の魔導具が円を描くように並んでいた。
——寝台の上では、小さな少女が眠っていた。
年齢は九歳ほどだろう。淡い銀紫色の髪が枕の上へ広がり、大きすぎるローブに身体のほとんどが埋もれている。胸元には柔らかそうな枕型の魔導具を抱え、静かな寝息を立てていた。
「この子が保護対象?」
「ああ。ネム・クォーツ。静寂系統の希少な魔法を持つ特別研究生だ」
「ずっと寝てるの?」
「起きている時間の方が短いと聞いている」
「いいなあ。私も授業中に寝ても許されるかな」
「お前はまず授業を受けろ」
「まだ入学が決まったばっかりなのに厳しい!」
二人が寝台へ近づくと、周囲の魔法陣がわずかに明るくなった。
レオンは足を止め、フィナへ下がるよう手で示す。だが、その指示より早く、眠っていた少女の瞼がゆっくりと持ち上がった。
暗い赤紫色の瞳は、フィナの顔を見なかった。
最初に天井、次に床、最後にフィナの周囲へまとわりつく何かを確かめるように、眠そうな視線が動く。
「——魔力、うるさい」
「ご、ごめんね!」
フィナは慌てて両手で口を押さえた。
「私、そんなに大きな声だった? 今から静かにするね」
「声じゃない」
「じゃあ、足音?」
「違う」
「服が擦れる音?」
「フィナ。魔力の話だ」
レオンが横から訂正する。
フィナは口を押さえたまま、目だけを丸くした。
「魔力って音がするの?」
「ネムには、そう感じられるという意味だろう」
「じゃあ、小声で魔法を使えば静かになる?」
「何一つ理解していない!」
レオンの声が保護室へ響いた直後、寝台の周囲にある古い装置が一斉に動き出した。
金属製の柱から黒い光が伸び、フィナの足元へ向かって細い線を描く。床の魔法陣が回転し、彼女の周囲に漂う魔力を取り込むように脈打った。
「えっ、何これ?」
「下がれ! 施設がお前へ接続しようとしている!」
「接続って、握手みたいなもの?」
「握手で床が光るか!」
フィナが一歩後退すると、光の線も追うように伸びた。
次の瞬間、壁際に並んでいた四体の魔導兵が起動する。人型の金属鎧が重い音を立てて立ち上がり、左右二体ずつに分かれてフィナたちを囲んだ。
正面には封印寝台があり、背後は入口へ続く一つの通路だけだ。魔導兵のうち二体が退路を塞ぎ、残る二体が寝台の左右から腕を伸ばしてくる。
「敵なの?」
「施設の防衛機構だ。お前を侵入者か接続対象として判定している!」
「どっち!?」
「今はどちらでも困る!」
レオンはフィナと寝台の間へ青白い防壁を展開した。
右側の魔導兵が腕から光弾を放ち、防壁の表面へ激しくぶつかる。衝撃は防いだものの、狭い保護室で強い魔法を撃ち返せば、封印寝台や床の術式まで巻き込む危険があった。
「フィナ、火は使うな! 床も壁も壊すな!」
「じゃあ、軽い風で押さえる!」
「待て、軽いの基準を説明しろ!」
「みんなを壁にぺたってするくらい!」
「説明が幼児向けだ!」
それでも、魔導兵は迫っている。
フィナは四体の位置を確かめた。寝台の左右に二体、入口前に二体。床、壁、天井、ネム、レオンには触れず、金属の身体だけを動かす。
「——軽い風!」
フィナの周囲から、柔らかな風が四方向へ分かれた。
風は床の砂埃さえ巻き上げず、魔導兵だけを選んで横から押す。四体の金属鎧は抵抗する間もなく浮き上がり、それぞれ最も近い壁へ背中から押しつけられた。
轟音は起きなかった。
壁にも床にも傷はなく、封印寝台を覆う光も揺れていない。ただ、魔導兵だけが両腕を広げた姿勢で、見えない力に固定されていた。
「できた! 今回はちゃんと何も壊してないよ!」
「魔導兵四体を同時に選択し、周囲へ圧力を逃がさず固定した時点で普通ではない!」
「でも、壁は無事だよ?」
「そこは評価する。だが、安心して風を強めるな!」
「強めないよ! 今、すごく褒められた気分だったのに!」
固定された魔導兵の胸部で、赤い術式が再点灯した。
身体は動かなくても、内部の攻撃術式は止まっていない。四体の胸元へ光が集まり、保護室全体を狙うように照準が開く。
「風だけでは術式を止められない!」
「じゃあ、もっと押した方がいい?」
「押すな! 壁が負ける!」
そのやり取りを、寝台の上からネムが眠そうに見ていた。
魔導兵の光が増すと、ネムは枕型の魔導具を抱えたまま、ゆっくり片手を持ち上げる。
「うるさい。静かにして」
小さな指先から、透明な波が広がった。
音が消えたわけではない。フィナの風も、レオンの防壁も、そのまま残っている。だが、魔導兵の胸元で組み上がっていた攻撃術式だけが、灯火を吹き消されたように一斉に停止した。
「術式だけ止めた……?」
レオンは驚きを押し込め、すぐに床へ視線を落とした。
フィナへ伸びる黒い接続線は、まだ動いている。彼は測定札を三枚投げ、施設側の経路を解析した。
「フィナ、風を維持しろ。ネムは魔導兵の術式だけを止めたままにできるか?」
「できる。少し眠い」
「もう眠いの!?」
「起きたばかりだから」
「起きたばかりなら元気な時間じゃない!?」
「ネムは違う」
短いやり取りの間にも、黒い線はフィナの足元へ近づいていた。
レオンは床へ膝をつき、三枚の測定札が示す経路を追う。施設はフィナの魔力を寝台周囲の古い術式へ接続し、何かを起動しようとしている。
だが、その接続命令には現代の術式規格が使われていなかった。
「経路だけ切る。床の魔法陣には触れるなよ」
「私は動かない方がいい?」
「絶対に動くな」
「分かった。息も止める?」
「呼吸はしろ!」
レオンは黒い線と床の術式の間へ、細い構築陣を差し込んだ。
一度目は弾かれた。古い施設の魔力が強く、現代式の切断術式を押し返してくる。
「レオン、大丈夫?」
「問題ない。相手が古いなら、接続先ではなく流れの途中を断つ」
彼は術式の形を組み替え、フィナへ向かう経路を三つに分けた。
その一つを防壁へ逃がし、二つ目を空の記録札へ誘導する。最後に残った細い線を、構築魔法で挟み切った。
黒い光が弾け、床の魔法陣が停止する。
同時に魔導兵の赤い光も消え、保護室へ静けさが戻った。
「止まった?」
「ああ。風を消していい」
「みんな、そっと下りてね」
フィナが意識を解くと、四体の魔導兵は壁際へ静かに着地した。
倒れもせず、床へ傷も残さない。フィナは自分の成果を確かめ、満足そうに胸を張った。
「今回は百点じゃない?」
「勝手に採点するな。だが、対象だけを制御した点は認める」
「やった!」
「ただし、軽い風という名称は記録に使わない」
「えぇ!? そこまで決めてないよ!」
「新現象を使ったら報告する規則へ、さっき署名したばかりだ」
「もう規則が働いてる!」
フィナが肩を落としたとき、寝台から小さな音がした。
ネムが立ち上がろうとして、長すぎるローブの裾を踏んでいる。その身体が前へ傾き、フィナは慌てて両腕を伸ばした。
「危ない!」
受け止めたネムは驚く様子もなく、フィナの胸元へ額を預けた。
小さな身体は力が抜けており、能力を使った疲労で瞼もほとんど閉じている。
「ネム、大丈夫? どこか痛い?」
「眠いだけ」
「じゃあ、寝台へ戻ろうか?」
「ここでいい」
「ここって、私!?」
ネムはフィナの服を掴み、離れる気配を見せなかった。
「さっき、私の魔力がうるさいって言ってたよね?」
「うるさい」
「やっぱり私、声を小さくした方が――」
「だから音量ではない」
レオンが疲れた声で訂正する。
ネムは閉じかけた瞳を少しだけ開き、フィナの胸元へ頬を寄せた。
「うるさい。でも、揺れない」
「揺れない?」
「ずっと同じ。だから、寝られる」
「どういう意味?」
「説明、面倒」
「そこ大事なところじゃない!?」
ネムは答えず、そのまま規則正しい寝息を立て始めた。
フィナは戸惑いながらも、落とさないよう小さな身体を抱き直す。銀紫色の髪をそっと撫でると、ネムの服を掴む力が少しだけ緩んだ。
「私、そんなに寝やすいのかな」
「少なくとも、本人はそう判断したらしい」
「じゃあ、これから声を小さくすれば、もっと寝やすい?」
「まだ音量の話から離れられないのか!」
レオンのツッコミが保護室へ響いても、ネムは起きなかった。
暴走後の調査では、古代施設がフィナの魔力へ反応し、ネムの封印寝台を介して何らかの接続を試みたことだけが確認された。
ネムの静寂魔法が施設内の術式を選んで止めた理由や、フィナの魔力を安定していると感じた理由までは分からない。
学院側は、ネムの状態がフィナの近くで安定していること、二人の魔法が互いの暴走を抑える可能性があることを重視した。
こうしてネム・クォーツは、レオンの監督下でフィナと行動しながら、経過観察を受けることになった。
決定を聞く前から、ネムはフィナの腕の中を新しい寝場所と定めたように、安心しきった寝息を立て続けていた。




