第三章 22 『消えた初級魔法』
王都魔法祭全体へ緊急警戒が発令されてから、異常が王都のほぼ全域へ広がるまで、それほど時間はかからなかった。
学院中央競技場では競技停止を告げる鐘が鳴り続け、各区画の職員が観客を安全な通路へ誘導している。つい先ほどまで歓声に包まれていた観客席には不安げな声が増え、誰もが周囲の魔導具や自分の手元を確かめ始めていた。
「また報告です! 南街区でも初級術式が全停止しました!」
学院職員が息を切らしながら駆け込んでくる。
「西市場、北通り、東門周辺も同じです! 今確認できている範囲では、初級魔法が一件も成立していません!」
レオンは受け取った王都地図へ新しい印を書き込もうとして、途中で手を止めた。
もう印を増やす意味がない。
最初は点だった異常区域が外側へ広がり続け、今では王都の主要街区がほとんど塗り潰されていた。
「局所障害じゃない」
地図を見つめるレオンの声から、これまで残っていた慎重さとは別の重さが滲む。
「王都全域が同じ状態になったと考えた方がいい」
その隣でエルナも、競技場を囲む照明へ視線を向けていた。
通路用に設置された小さな光球は既に半分以上が消えている。中級光魔法式を使う大型照明だけは残っているため完全な暗闇にはならないが、普段なら当然のように浮かんでいる小さな灯りがなくなっただけで、広い競技場が妙に寂しく見えた。
「こんなに一気に……」
エルナは腕を組んだまま、眉を寄せる。
「さっきまで使えてた場所まで全部止まってるじゃない」
フィナも周囲を見渡しながら、いつもの明るさを少し抑えた声を出した。
「王都の外は?」
「まだ報告待ちだ」
レオンは地図を畳まず、そのまま答える。
「少なくとも今分かってるのは王都内だけだ。範囲がどこまでかはまだ確認できてない」
ネムは四人の会話から少し離れ、競技場の外へ続く大通りを見ていた。
人の流れが変わっている。
祭りを楽しむために歩いていた人々が立ち止まり、動かなくなった魔導具を囲んだり、職員の指示を聞こうとしたりしていた。
「困ってる人、多い」
その短い言葉に、フィナが大通りへ目を向ける。
「行こう」
五人は学院側の指示を受けながら、競技場から王都中心部へ出た。
異常の影響は、競技会場だけでは済んでいなかった。
屋台通りでは、着火用の初級火魔法が使えなくなったため鉄板が次々に冷え、営業を止める店が増えている。簡易給水器からは水が出ず、初級風魔法で動かしていた乾燥器や送風器も沈黙していた。
「こっちも水が出ません!」
「予備の魔導具も駄目だ!」
「中級を使える人はいないのか!」
商人たちの声が飛び交う。
少し先では冒険者らしい男が、荷物運搬用の初級風魔法を何度も試していた。
杖先に術式光は浮かぶ。
しかし風は発生しない。
「くそ、何でだよ!」
男は一度杖を下ろし、今度は自分の手で大きな荷箱を持ち上げようとする。周囲の仲間がすぐ駆け寄り、二人がかりで運び始めた。
フィナはその様子を見て、困惑したように周囲へ視線を巡らせる。
「初級魔法って、こんなにいっぱい使われてたんだね」
「生活に一番近い階級だからな」
レオンは歩きながら、停止した設備を一つずつ確認していく。
「着火、照明、給水、乾燥、荷物の補助。中級以上でも代用できるけど、誰でも使えるわけじゃない」
エルナは少し先で、中級光魔法を使って通路を照らしている学院生へ視線を向けた。
「学院生でも中級を安定して使える人ばかりじゃないもの。まして一般の人なら、なおさらよ」
「初級が使えないだけで、こんなに変わるんですね……」
リリカは周囲の止まった屋台を見ながら、杖を胸元へ寄せた。
昨日までなら、火を点けることも、小さな明かりを作ることも、特別なことではなかった。
今はその当たり前が、王都全体から消えている。
大通り中央の大型魔導放送器が低く鳴った。
周囲の人々が一斉に顔を上げる。
『王都魔法祭運営本部より通達します。現在、王都全域において初級魔法および初級術式を基礎とする魔導具の広域停止を確認しました』
放送を聞き、通りのざわめきが大きくなる。
『安全確保を優先し、王都魔法祭はただいまをもって正式に中断します。全競技、展示、演舞を停止し、来場者は職員および衛兵の誘導に従ってください』
フィナの表情が固まった。
「中断……」
昨日、五人で笑いながら歩いた祭りが止まった。
夜空を染めた魔導演舞も、今日の競技も、これから回るはずだった屋台も、原因不明の異常によって一斉に止められていく。
エルナは悔しそうに唇を結んだものの、すぐに周囲の人々へ視線を戻した。
「仕方ないわ。安全が確認できないまま続ける方が危ない」
レオンも頷き、放送の続きへ耳を傾ける。
『中級以上の魔法については、現在のところ発動を確認しています。ただし、無理な代用は行わず、扱える術者の指示に従ってください』
中級魔法が使える。
それだけ聞けば、全てを代替できそうに思える。
だが実際には違った。
初級魔法は、多くの人が日常的に扱えるよう簡略化され、安全性も高く、魔力消費も小さい。中級魔法へ置き換えれば、必要な魔力量も制御の難度も上がる。
通りの一角では、初級光魔法が消えた場所を補うため、中級光魔法を使える術者が一人で複数の照明を維持していた。
その額には、既に薄く汗が浮かんでいる。
「全部を中級で置き換えるのは無理だな」
レオンはその様子を見ながら、低い声で結論を出した。
「人手も魔力も足りない」
ネムは止まった照明の下へ視線を向け、小さく呟く。
「いつも明るいのに、暗い」
その言葉を聞いたリリカは、自分の杖へ目を落とした。
ふと、確かめたくなる。
競技場で失敗していたのは他の参加者だった。
展示区画で止まったのは魔導具だった。
もし自分なら。
昨日まで何百回も使ってきた、自分の初級火魔法なら。
「……私も試してみます」
リリカの声に、フィナがすぐ振り返った。
「リリカ?」
「火です。小さいので」
レオンは周囲を確認し、人や荷物から十分に離れた場所を指した。
「試すならそこで。出力は最低限にしろ」
「はい」
リリカは指示された場所へ立ち、杖を構えた。
いつもの姿勢。
いつもの呼吸。
いつもの魔力の流し方。
フィナを真似しようとはしない。
自分が一番安定して使える方法で、術式を組み上げる。
「……《火珠弾〈ブラーサ〉》」
杖先へ赤い術式光が集まった。
魔力は通っている。
火属性への変換も、手応えとしては普段と変わらない。
それなのに、最後の一歩だけが繋がらない。
炎は生まれなかった。
「……え?」
リリカの目が見開かれる。
もう一度、杖を構え直した。
今度はさらに慎重に魔力を流し、術式の一つ一つを意識する。
それでも出ない。
「もう一回……」
フィナが何か言いかけたが、リリカは先に三度目を試した。
魔力の量を変える。
杖の角度を直す。
呼吸を整える。
昨日なら、それだけで何の問題もなく灯っていた火が、今日はどれだけ正確に術式を組んでも生まれない。
「どうして……?」
リリカの声から、少しずつ余裕が消えていく。
エルナが近づき、杖先の術式へ目を向けた。
「リリカ、魔力の流れは変じゃないわ」
「でも出ません!」
「分かってる。だから、あなたの失敗じゃない」
エルナはそう言いながらも、表情を緩めなかった。
レオンもリリカの術式を確認し、魔導板へ記録を残していく。
「術式形成は正常。魔力供給も問題なし。それでも成立しない。競技場と同じだ」
「じゃあ、本当に……」
リリカは杖を下ろしきれず、そのまま見つめた。
「初級魔法が、使えない……」
フィナはすぐ隣まで来たものの、簡単に励ます言葉が見つからないようだった。
昨日までリリカが何度も練習していた火。
準決勝で失敗しても、最後には自分のやり方で立て直せた火。
その火そのものが、今は出ない。
周囲では、さらにいくつもの初級魔法が消えていた。
商店の小さな照明が落ち、広場の給水器が止まり、屋台の着火口から火が消える。子供が遊びで浮かべようとした小さな光球も生まれず、冒険者が使おうとした風も起こらなかった。
中級以上の大きな魔法だけは残っている。
けれど、それだけでは王都の日常を埋められない。
つい昨日まで、祭りの夜を彩っていた無数の小さな光。
料理を温め、道を照らし、水を生み、風を送っていた当たり前の魔法。
それらが一つずつ消えていくにつれ、王都魔法祭の熱気も急速に薄れていった。
祭りに満ちていたセレフィア王都から、誰も意識しないほど身近だった初級魔法の光が、完全に消え始めていた。




