第三章 19 『火が点かない』
学院側の屋台通りで起きた異変は、最初の数分だけなら、本当にただの不調にしか見えなかった。
鉄板の前に立つ担当者は、着火用の小型魔導具を何度か裏返し、接続部へ指を当てて魔力の流れを確かめていた。魔導具の表面には初級火魔法の術式が刻まれており、起動時の淡い赤色も正常に灯っている。
「おかしいな……反応はしてるのに」
担当者がもう一度魔力を流す。
術式線が赤く光ったまではよかった。
しかし、鉄板の下にある着火口には何も起こらず、火の気配すら生まれなかった。
「また失敗ですか?」
隣で食材を並べていた別の担当者が、不思議そうに手元を覗き込む。
「いや、失敗っていうか……いつも通り流してるんだけどな」
「貸してください。自分がやります」
魔導具を受け取った担当者は、先ほどより慎重に初級火魔法式を起動した。
魔力が流れ、赤い光が走る。
それでも火は出ない。
二人は揃って黙り込み、しばらく着火口を見つめた。
「……壊れた?」
「たぶんな」
その頃、少し離れた場所にいたフィナたちは、屋台の前へ集まり始めた小さな人だかりへ気づいていた。
焼き菓子の包みを持っていたフィナが、背伸びをするようにして人の向こうを覗き込む。
「何かあったのかな?」
レオンは手にしていた予定表から顔を上げ、騒ぎの中心へ視線を向けた。
「屋台の設備不良みたいだな」
「設備不良であんなに集まる?」
エルナも立ち止まり、人だかりの隙間から鉄板周りの様子を確認する。
「煙も出てないし、事故ではなさそうだけど」
リリカは自分の杖を胸元へ寄せながら、屋台の担当者たちが何度も同じ魔導具を試しているのを見つけた。
「火が点かないみたいです」
ネムはフィナの横から人混みを見て、眠そうな目を少し細める。
「……魔力は流れてる」
「分かるの?」
フィナが振り返ると、ネムは屋台の方へ視線を戻したまま小さく頷く。
「流れてる。でも、火にならない」
その言葉にレオンの表情が変わった。
「見てくる」
五人は人だかりの端へ移動し、屋台の担当者たちの邪魔にならない位置から様子を確認した。
ちょうど別の学院生が、問題の魔導具へ手を伸ばしているところだった。
「使用者側の魔力制御かもしれません。少し試します」
「お願いします」
学院生は術式を一度確認してから、落ち着いて魔力を流した。
赤い術式線が点灯する。
今度もそこまでは正常だった。
それなのに火は生まれない。
「……あれ?」
学院生が眉を寄せ、もう一度試す。
結果は同じだった。
周囲から小さなざわめきが起きる。
「三人やって全部駄目か」
レオンは人垣の外から魔導具の様子を追い、視線を細めた。
「単純な使用者側の失敗ではなさそうだな」
「じゃあ本当に壊れてる?」
フィナが隣から尋ねると、レオンはすぐには答えず、屋台の術式線と周囲の魔力反応を順番に見た。
「壊れてるなら、術式の起動自体が不安定になるはずだ。少なくとも見た限り、魔力は正常に流れてる」
「でも火は出ないのよね」
エルナは腕を組みながら、着火口の前へ視線を固定する。
「途中で止まってるってこと?」
「可能性はある」
レオンの返答を聞き、リリカは少し緊張したように自分の杖を握り直した。
「初級火魔法ですよね、あれ」
「ああ」
「私も試した方がいいですか?」
リリカの提案に、レオンはすぐ首を横へ振った。
「今は待て。競技用の魔法を勝手に試して、原因不明の異常へ触る必要はない」
エルナもリリカへ視線を向け、少し強めに続ける。
「そうよ。昨日まで普通に使えてた魔導具が急に止まったんだから、まず原因を調べる方が先」
「分かりました」
リリカは少しだけ残念そうに杖から手を離した。
その時、通りの少し先から明るい声が上がった。
「こっちは点いたぞ!」
人だかりの何人かが振り返る。
五人も声のした方へ目を向けると、二十歩ほど離れた別の屋台で、調理用の初級火魔法式が普通に使われていた。
鉄板の下では小さな炎が安定して燃えている。
「……点いてる」
フィナが屋台同士を見比べる。
「こっちは駄目で、あっちは大丈夫なんだ」
レオンはすぐに距離を測るように視線を動かし、二つの屋台の位置関係を確認した。
「同じ初級火魔法式でも、場所が違えば成立するのか」
「魔導具の型が違う可能性は?」
エルナが先の屋台を見ながら尋ねる。
「それもある。けど、切り分けるなら同じ型を持ってくるのが早い」
レオンがそう言った直後、騒ぎを聞きつけた学院職員が二人、通りの奥から急いでやって来た。
事情を聞いた職員たちは、問題の魔導具を一度回収し、代わりに同型の予備器を持ってくる。
「これなら昨日まで正常でした」
予備器を受け取った担当者が、少し緊張した手つきで魔力を流した。
同じように術式が赤く光る。
しかし、火は出ない。
周囲のざわめきが少し大きくなった。
「予備も駄目か」
レオンは眉を寄せたまま、今度は屋台の周辺そのものへ視線を移す。
「機器単体じゃない可能性が高くなった」
「場所の方がおかしいってこと?」
フィナが問いかけると、レオンはすぐに頷くのではなく、周囲の魔力灯や別系統の小型魔導具を確認していく。
「この一帯だけ、何かの魔導障害が出てる可能性はある」
「魔導障害?」
リリカが不安そうに聞き返す。
「局所的に術式の成立を乱す現象だ。ただし、今の段階じゃ原因までは分からない」
エルナは周囲の屋台を見回しながら、声を少し落とした。
「祭りで魔導具を使いすぎてる影響とか?」
「それならもっと広範囲で不調が出るはずだ」
レオンはそう返しながら、問題の屋台から数歩離れた地面へ目を向けた。
「しかも向こうでは同じ初級火魔法が動いてる。範囲がかなり限定されてるなら、単純な過負荷とは考えにくい」
その説明を聞いていたフィナは、難しそうに眉を寄せた。
「じゃあ、火そのものが嫌がってるとか?」
「現象に気分を持たせるな」
レオンが即座に返す。
エルナも呆れたようにフィナへ顔を向けた。
「しかも何で祭りの途中で急に機嫌悪くなるのよ」
「人が多くて疲れたとか」
フィナが本気で考え始める横で、ネムが屋台の魔力反応を見たまま小さく口を開いた。
「……ネムみたい」
「火を昼寝させないで!」
エルナの声が飛び、少しだけ張り詰めていた空気が緩んだ。
しかし、原因が分からないこと自体は変わらない。
学院職員の一人は周囲を整理しながら、近くにいた別の魔法使いへ声をかけた。
「念のため、中級火魔法で同じ場所に着火してもらえますか」
選ばれた魔法使いは慎重に距離を取り、鉄板の下へ向けて中級火魔法の術式を組み上げる。
今度は赤い術式光が複雑に重なり、空気がわずかに熱を帯びた。
次の瞬間、小さく抑えられた炎が着火口へ正常に灯る。
「……出た」
リリカが思わず呟く。
フィナも目を丸くし、初級魔導具と中級魔法の炎を交互に見た。
「中級なら平気なんだ」
レオンの表情から、さっきまで残っていた軽い疑念が消える。
「これで少なくとも、火属性そのものが使えないわけじゃない」
「初級だけ?」
エルナがその言葉を拾う。
「この場所では、そう見える」
レオンはまだ断定を避けながら、問題の屋台周辺へ視線を巡らせた。
「ただし一箇所だけで決めるのは早い。別の場所と別の術式も確認しないと分からない」
学院職員たちも同じ判断に至ったらしく、周囲の屋台へ使用中の魔導具と魔法式を確認するよう指示を出し始めた。
問題の屋台では、中級火魔法による着火で営業を続けることになり、人だかりも少しずつ散っていく。
祭りそのものを止めるほどの騒ぎには、まだなっていなかった。
フィナたち五人もその場を離れず、学院側の確認作業が始まるのを見守っていた。
今のところ、異常は狭い範囲だけ。
少し離れれば初級火魔法は使え、中級火魔法も問題なく発動している。
それでも学院側は、単なる機器故障では片づけず、周辺の魔導具と術式を一つずつ調べ始めた。
祭典の音楽と歓声は変わらず王都へ響いていたが、その片隅では、初級火魔法だけが成立しない小さな空白が確かに生まれていた。




