第三章 16 『目標と真似』
準決勝開始まで一時間を切った頃、リリカたちは学院東側の調整区画にいた。
競技場本体から少し離れたこの場所には、参加者が最終確認に使う簡易標的と魔力計測板が並んでいる。
祭りの歓声は壁越しに聞こえる程度で、朝の訓練場よりは人が多いものの、競技直前の集中を妨げるほどではなかった。
「——もう一回だけお願いします」
リリカは簡易標的の前に立ち、杖を構え直した。
正面の標的は三つ。
距離も大きさも違うが、どれも昨日までなら問題なく処理できる難度だった。
少し離れた位置では、レオンが計測用の魔導板を手にしている。今朝の練習で見つけた不自然な記録を確かめるため、今回は単に命中だけではなく、リリカの魔力経路そのものを追っていた。
「最初はいつも通りでいい。余計なことは考えるな」
「はい!」
リリカは一つ目の標的へ意識を向けた。
杖を通して魔力を流す。
火属性へ変換し、必要な量だけ術式へ乗せる。
杖先から初級火魔法《火珠弾〈ブラーサ〉》が放たれ、小さな火球が真っ直ぐ飛んで標的中央へ触れた。
二つ目も成功。
三つ目は最も遠かったが、途中で膨らむこともなく、指定範囲内へ収まった。
「全部成功!」
横で見ていたフィナが、嬉しそうに両手を合わせる。
「リリカ、やっぱり朝よりずっと上手だよ!」
「ありがとうございます、フィナ師匠!」
リリカが笑顔を向ける一方で、レオンはすぐには顔を上げなかった。
魔導板へ残った三本の魔力経路を拡大し、開始点から術式形成、火属性変換、放出までを順番に追っている。
「今の三回は問題なし」
レオンは記録の一部を指で示し、リリカにも見えるよう魔導板を傾けた。
「魔力の移動距離も短い。杖を経由してから術式へ入る流れも安定してるし、無駄な戻りもほとんどない」
「つまり、良かったんですよね?」
「ああ。普段のお前ならな」
最後の言葉に、リリカの笑顔が少しだけ止まった。
レオンはそこで、朝の練習時に記録した別の魔力経路を隣へ表示する。
二つの記録は、同じ初級火魔法とは思えないほど形が違っていた。
「こっちが今朝の記録。フィナを意識して撃った時のものだ」
「……そんなに違うんですか?」
「違う」
レオンは赤く強調された部分を指す。
「普段なら杖からそのまま前へ流れてる魔力が、こっちは途中で一度手元へ戻ってる。しかも術式を作りながら、その流れを無理に止めようとしてる」
リリカは魔導板へ顔を近づけた。
確かに、自分でも分かるほど歪んでいる。
流れた魔力が途中で細くなり、別方向へ寄ってから、また元の経路へ戻ろうとしている。
「でも、それは……フィナ師匠みたいに杖を使わずに出そうとしてるからです」
「だからだ」
レオンは魔導板を閉じず、そのままリリカへ視線を向けた。
「お前は元々、杖を使った方が安定する。なのにフィナを真似する時だけ、自分で安定してる経路を崩してる」
「でも、練習すれば慣れるかもしれません」
「慣れる前提で効率の悪い経路を使う理由は?」
リリカはすぐ答えられなかった。
少し後ろで腕を組んでいたエルナが、二人の間へ視線を向ける。
「リリカ。レオンが言いたいのは、フィナを目標にするなってことじゃないのよ」
「分かってます」
「本当に?」
エルナは問い返しながら、標的の前まで歩いてきた。
その表情はいつもの強気なものだったが、からかう時の軽さはない。
「私だってフィナを意識してるわよ」
横にいたフィナが目を瞬く。
「私?」
「そうよ」
エルナは一度だけフィナへ視線を向け、それからすぐリリカへ戻した。
「負けたくないし、できるなら超えたい。今でもそう思ってるわ」
「急にすごいこと言われた」
「今は黙ってて」
「はい」
フィナが素直に口を閉じると、エルナは小さく息を吐いてから続けた。
「でも私は、フィナの火を出そうとは思わない。フィナみたいに杖なしで何でもやろうとも思わない」
「それは、エルナ先輩が雷属性だからじゃ……」
「それだけじゃないわ」
エルナは自分の指先にほんの僅かな雷光を集め、細い紫電を一瞬だけ瞬かせると、すぐに消した。
「私は私の雷を一番上手く使えるようになりたいの。フィナより速く撃てるなら速さで勝つし、細かく狙えるなら精度で勝つ。フィナにできないことを探すのも、その逆も全部含めてね」
リリカは黙ったまま聞いていた。
「フィナより強くなろうとすることと、フィナそのものになろうとすることは違うのよ」
エルナの言葉は、今度こそはっきり届いた。
分からないわけではない。
言いたいことは理解できる。
自分の魔法を使った時の方が上手いことも、記録で見せられた。
それでも、胸の奥では何かが引っかかっていた。
「でも……」
リリカは杖を握る指へ力を込める。
「フィナ師匠みたいになりたいって思うのは、そんなに駄目ですか?」
「駄目なんて誰も言ってない」
レオンは魔導板を下げながら、声の調子を少しだけ柔らかくした。
「ただ、お前が上手くできてることまで捨てて、真似する必要はないって言ってる」
「捨ててません」
「今朝は捨てかけてた」
その指摘に、リリカの肩が僅かに固くなる。
朝の標的。
何度も外れた火。
フィナに「昨日よりずれてる」と言われた瞬間。
思い出したくなかった記録を、そのまま言葉にされたような気がした。
「私は……もっとできるようになりたいだけです」
リリカは俯きかけた視線を上げた。
「最初は火を出すことも怖かったです。でも、フィナ師匠を見てたら、火って怖いだけじゃないって思えました」
フィナは黙ってリリカを見ている。
リリカの声は少しずつ強くなっていった。
「迷宮でも、アクアレイアでも、フィナ師匠はいつもすごくて。でも、ただ強いだけじゃなくて、ちゃんと必要なところに魔法を使ってました」
「リリカ……」
「だから私は、ああなりたいんです」
フィナが何か言いかける。
けれどリリカは止まらなかった。
「レオンさんが言ってることも分かります。エルナ先輩が言ってることも、たぶん分かります」
「たぶん、なのね」
エルナが苦笑する。
「でも、私にとってはフィナ師匠が一番の目標なんです」
リリカはそこで一度息を吸い、杖を胸元へ引き寄せた。
「だったら、師匠がどうやってるのか知りたいって思うのは普通だと思います」
レオンはすぐには否定しなかった。
その代わり、魔導板へ残る二つの記録をもう一度見せる。
「知ろうとすることは悪くない。真似することも、全部が悪いわけじゃない」
「なら――」
「ただ、結果は見ろ」
レオンの指が、安定した経路と歪んだ経路を交互に示す。
「今のお前は、自分のやり方を使った時の方が明らかに上手い」
リリカの視線も同じ記録を追う。
否定できない。
数字でも、感覚でも分かっている。
それでも気持ちは追いつかなかった。
「レオン」
少し離れていたフィナが、ようやく口を開いた。
「もういいんじゃない?」
「フィナ?」
「リリカ、もうすぐ準決勝だよ」
フィナは責めるでも庇うでもなく、ただ競技場へ続く通路を見た。
「今いっぱい考えたら、余計緊張しそう」
エルナがその言葉を聞き、小さく肩の力を抜く。
「……それはそうね」
レオンも競技開始時刻を確認し、魔導板を閉じた。
「続きは競技後でいい。今は調整を優先する」
「はい」
リリカはそう答えたものの、すぐには標的へ向かなかった。
フィナが隣へ来ると、いつものように明るい笑顔を向ける。
「リリカの魔法、私は好きだよ」
「……ありがとうございます」
「さっきの三つも綺麗だったし」
「でも、フィナ師匠みたいにはできませんでした」
「別に同じじゃなくてもいいと思うけどなあ」
フィナは本当に不思議そうだった。
その言い方に悪意も、難しい意味もない。
だからこそ、リリカにはまだ飲み込めなかった。
「フィナ師匠は、フィナ師匠だからそう言えるんです」
「え?」
「何でもありません!」
リリカはすぐ笑顔を作り、標的へ向き直った。
今度は杖を使う。
自分が一番安定する形で魔力を流す。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
小さな火球はどれも迷いなく飛び、全て中央へ命中した。
「ほら、やっぱり上手」
フィナが嬉しそうに笑う。
リリカも笑い返した。
けれど胸の奥に残った引っかかりは、消えていなかった。
準決勝開始を知らせる予備鐘が、遠くの競技場から響く。
レオンが移動を促し、エルナがリリカの肩を軽く叩く。ネムも壁際から立ち上がり、枕型魔導具を抱えたまま四人の後へ続いた。
競技場へ向かう通路の途中で、リリカは一度だけ立ち止まりかけた。
レオンの記録も正しい。
エルナの言葉も分かる。
それでも、フィナの背中を追いかけたいという気持ちまで手放すことはできなかった。
リリカは杖を握り直し、少し先を歩くフィナへ視線を向ける。
「それでも私は、師匠みたいになりたいです」
小さく、けれど迷いなく口にしたその答えを胸へ残したまま、リリカは準決勝の待つ競技場へ歩いていった。




