第三章 15 『師匠に近づきたい』
王都魔法祭二日目の朝、学院東側の初級魔法訓練場には、まだ祭りの喧騒が届いていなかった。
競技開始までにはかなり時間がある。昨日使われた標的は夜のうちに整備され、朝露の残る地面には誰の足跡もほとんどない。
その中央で、リリカは一人、杖を構えていた。
「……もう一回」
正面五歩の位置に置いた小型標的へ魔力を流す。
小さな火球が杖先から飛び、標的中央へ触れた。
命中。
大きさも問題ない。
それなのに、リリカの表情は晴れなかった。
昨日の予選で一度だけ出力を誤った場面が、何度も頭の中へ戻ってくる。
フィナのような小さな火を出そうとした瞬間だけ、ほんの少し大きくなった。
予選は通過した。
最後の課題も成功した。
レオンにもエルナにも、十分な結果だったと言われた。
それでもリリカには、一度の黄色判定の方が強く残っていた。
「もっと小さく……もっと、フィナ師匠みたいに」
杖を下げ、今度は右手だけを前へ出す。
フィナが火を出す時の姿を、何度も見てきた。
杖は使わない。
複雑な詠唱もしない。
指先を向けて、必要な場所に必要な火を作る。
動きだけなら、とても簡単に見える。
「小さい火……」
リリカは指先へ魔力を集めようとした。
普段なら杖を通して安定して流れる魔力が、手の中でわずかに揺れる。
火が生まれる。
だが、指先に灯った炎は形を保てず、一瞬で消えた。
「……違う」
リリカは唇を結び、もう一度試した。
今度は消えないよう魔力を少し増やす。
火は出た。
しかし大きさが指定より膨らみ、慌てて供給を切ると、標的へ届く前に散った。
「また……」
昨日までなら、こんな近距離の標的で二回も続けて失敗することはなかった。
その事実が胸の奥へ小さく刺さる。
「リリカ?」
背後から聞き慣れた声がして、リリカの肩が跳ねた。
振り返ると、訓練場入口にフィナが立っていた。
「フィナ師匠!?」
思わず杖を背中へ隠しかけてから、隠す意味などないと気づき、リリカは慌てて姿勢を整えた。
「お、おはようございます!」
「おはよう。早いね」
フィナはまだ人の少ない訓練場を見回し、それから標的へ残った焦げ跡へ視線を移した。
「もう練習してたの?」
「はい! 準決勝なので!」
明るく答えたつもりだった。
それでも声が少しだけ上ずった気がして、リリカは杖を握る手へ力を込める。
フィナは深く疑うことなく、いつもの笑顔で近づいてきた。
「昨日もいっぱい魔法使ったのに、元気だね」
「フィナ師匠に近づくためです!」
「私?」
「はい!」
リリカはそこで、ちょうどいいと思った。
昨日より近くで見れば、何か分かるかもしれない。
「フィナ師匠、お願いがあります!」
「なに?」
「もう一度、小さい火を見せてください!」
フィナは少しだけ首を傾げたものの、特に断る理由もないらしく、すぐ右手を上げた。
「これ?」
指先の少し先へ、小さな炎が灯った。
本当に、それだけだった。
魔力を練るための構えもない。
杖もない。
術式を組み立てるための手順も見えない。
フィナが「小さい」と思った結果だけが、最初からそこにあったように見える。
リリカは瞬きも忘れて、その火を見つめた。
「……今、何をしました?」
「小さい火を出したよ?」
「その前です!」
「その前?」
フィナは自分の手を見下ろし、本気で考え込んだ。
「手を上げた?」
「魔法の方です!」
「ああ」
納得したように声を出したフィナだったが、その後が続かない。
「えっと……火を出そうって思って」
「はい」
「小さくしようって思って」
「はい」
「出した」
「終わりですか!?」
リリカの声が思った以上に訓練場へ響いた。
フィナは驚いて目を丸くする。
「う、うん」
「魔力量を決める感覚とか、火属性へ変える時の感覚とか、形を作る順番とかは?」
「順番……?」
フィナは指先に残る炎を見ながら、ますます困った顔になった。
「火って思ったら火になるし、小さくって思ったら小さくなるよ?」
「それを真似したいんです!」
「真似……できるのかな?」
「できます!」
ほとんど反射的に答えてから、リリカは自分の言葉へ縋るように杖を置いた。
フィナの前へ並び、同じように右手を上げる。
肩の力を抜く。
指先を見る。
フィナと同じように、ただ火を思い浮かべる。
「火……小さく……」
魔力が動く。
だがリリカの中では、何もせずに現象だけが生まれることはない。
普段なら無意識に使っている術式経路へ魔力が流れようとし、それを「フィナと同じように」と止めた瞬間、流れが途中でぶつかった。
小さな火が歪んで生まれ、すぐに二つへ割れる。
「あっ」
片方が消え、もう片方だけが標的の横へ飛んだ。
外れた。
「昨日よりずれてるね」
フィナが純粋に不思議そうな声を出す。
「いつものリリカなら、もっと真ん中に当たるのに」
「今のは、少し感覚が違っただけです!」
「じゃあ、いつものやり方でいいんじゃない?」
悪意など一つもない。
むしろ本当に、なぜわざわざ難しい方法を選んでいるのか分からないという顔だった。
リリカは返事をするまでに一拍かかった。
「でも……フィナ師匠みたいにできたら、もっと上手くなれます」
「そうかなあ」
「そうです!」
強く答え、今度はフィナの手首の角度まで意識して右手を伸ばす。
指先。
視線。
呼吸。
火を出す瞬間の表情まで思い出す。
「フィナ師匠なら……こうやって……」
生まれた火球は、さっきより大きかった。
「わっ!」
リリカが急いで魔力を絞ると、今度は形が崩れる。
標的の手前で炎が消え、計測板には何も残らなかった。
フィナが眉を下げる。
「リリカ、今日ちょっと変じゃない?」
「大丈夫です!」
即答した声が、また少しだけ大きくなった。
リリカは自分でも気づき、慌てて笑顔を作る。
「準決勝前なので、いつもより難しい練習をしているだけです!」
「でも昨日の方が上手だったよ?」
その言葉が、一番痛かった。
怒られたわけではない。
否定されたわけでもない。
ただフィナが見たままを口にしただけだと分かっているからこそ、胸の奥がざわつく。
「……もう一回やります」
リリカは今度こそ杖を拾った。
いつもの構えへ戻る。
杖を通して火属性へ魔力を整え、初級火魔法《火珠弾〈ブラーサ〉》を組み上げると、先ほどまでの不安定さが嘘のように消えた。
小さな火球が真っ直ぐ飛び、標的中央へ当たる。
計測板には正常判定。
「ほら!」
フィナの顔がぱっと明るくなる。
「そっちの方が上手だよ!」
「……はい」
喜ぶべき言葉なのに、リリカは素直に笑えなかった。
自分のやり方ならできる。
フィナを真似すると失敗する。
それが昨日よりはっきりしてしまった。
けれどリリカの中では、それが「真似することが間違っている」という結論には繋がらなかった。
まだ足りない。
見方が足りない。
感覚を掴めていない。
だからできないだけだ。
「——おはよう。やっぱりもう始めてたか」
訓練場入口からレオンの声が届いた。
その隣にはエルナがいて、少し遅れてネムも眠そうに歩いてくる。
「リリカ、準決勝前にやりすぎないでよ」
エルナは標的へ残った複数の焦げ跡を見つけると、すぐに眉を寄せた。
「昨日より撃ってるんじゃない?」
「大丈夫です、エルナ先輩!」
リリカは今度こそ自然に聞こえるよう、明るく返した。
レオンが測定板へ視線を落とし、中央を外れた数発の記録を見つける。
「珍しいな。朝一番にしても精度が乱れてる」
「難しい練習をしていただけです!」
先回りするように答え、リリカは計測板から視線を逸らした。
ネムはフィナの隣まで来ると、まだ眠気の残る目でリリカを眺める。
「顔、固い」
「ネムちゃんまで!?」
「いつもより」
リリカは一瞬だけ言葉に詰まったものの、すぐ両手で杖を握り直した。
「緊張してるだけです! 準決勝ですから!」
嘘ではない。
緊張している。
ただ、それだけではなかった。
フィナはそんなリリカをしばらく見つめていたが、無理に問い詰めることはせず、いつもの明るい笑顔を向けた。
「じゃあ、今日も応援するね」
「はい!」
今度の返事だけは、迷わなかった。
「ありがとうございます、フィナ師匠!」
競技開始時刻が近づき、五人は訓練場を離れた。
リリカは四人より半歩だけ前を歩きながら、杖を胸元へ抱える。
自分の火なら、昨日よりずっと上手く使える。
それでも、フィナへ近づきたいという気持ちは消えなかった。
むしろ追いかけようとするほど遠さが見えてきて、その距離を認めたくない焦りだけが少しずつ膨らんでいた。
けれどリリカはそれを誰にも見せず、準決勝会場へ向かう足を止めなかった。




