第三章 12 『リリカ、予選始まる』
——王都魔法祭初日、午後。
学院東側の初級魔法競技場には、朝の事前説明とは比べものにならないほど多くの観客が集まっていた。
火属性競技区画の中央には、距離も高さも異なる標的が十基並んでいる。近距離の発火板、細い金属棒の先に設置された小型標的、一定速度で左右へ動く標的まであり、その一つ一つに要求される炎の大きさと温度が違っていた。
「人、多い……」
出場者待機区画から観客席を見上げたリリカは、杖を握る指へ少しだけ力を込めた。
予選だと分かっている。
これまで何度も練習した。
事前試走でも通過基準を超えている。
それでも、本番の競技場へ立つと、練習場とは空気そのものが違って感じられた。
「リリカー!」
観客席の前方から、よく通る声が飛んでくる。
見上げれば、フィナが両手を大きく振っていた。
「頑張ってー!」
「フィナ師匠!」
緊張していたリリカの顔が、一瞬で明るくなる。
その隣では、エルナがフィナの袖を掴みながら周囲へ視線を向けていた。
「フィナ、声が大きい! まだ始まってないから!」
「応援は早い方がいいかなって!」
「早すぎて他の参加者まで振り向いてるわよ!」
さらに反対側では、レオンが競技冊子を閉じながらフィナへ呆れた目を向ける。
「開始前から集中を乱すな」
「応援してるだけだよ!」
「声量を下げろと言ってる」
四人の一番端に座ったネムは、膝へ枕型魔導具を置いたまま、競技場とフィナを交互に見ていた。
「リリカより、フィナが目立ってる」
「そんなつもりないよ!?」
観客席で始まったやり取りを見ているうちに、リリカの肩から余計な力が抜けた。
いつもの四人がいる。
それだけで、さっきまで大きく見えていた競技場が少しだけ身近に感じられた。
やがて予選開始を告げる鐘が鳴り、待機区画の空気が一気に引き締まる。
今回の課題は全五段階。
最初は、三つの固定標的へ指定された順番で火を灯す。
二つ目は、炎の大きさを一定に保つ。
三つ目は、それぞれ異なる温度へ調整する。
四つ目では距離が伸び、最後は複数条件を同時に満たさなければならない。
高火力は必要ない。
むしろ、強すぎれば減点になる。
リリカは自分の順番が呼ばれると、競技線の中央へ立ち、正面の標的へ杖を向けた。
「大丈夫……いつも通り」
小さく息を吐き、魔力を杖へ流す。
開始の光が点灯した。
一つ目の標的は正面五歩。
要求されるのは、拳より小さな炎を二秒間。
リリカは必要な分だけ魔力を流し、杖先から初級火魔法《火珠弾〈ブラーサ〉》を放った。
小さな火球は真っ直ぐ標的中央へ触れ、指定範囲の中だけで静かに燃える。
一秒。
二秒。
時間通りに消え、計測板へ正常判定が灯った。
「よし……!」
二つ目は右側。
炎の大きさは一つ目の半分で、温度だけを少し上げる。
以前なら、小さくしようとした時に魔力量まで削りすぎ、標的へ届く前に火が消えていた。
今は違う。
大きさを抑えながら、必要な熱だけを残す。
火球が指定された小さな円の中へぴたりと収まり、標的表面だけを正確に温めた。
「成功です!」
観客席でリリカの数値を確認していたレオンが、隣の三人にも見えるよう記録板を指した。
「出力誤差も小さい。練習より安定してる」
「リリカ、すごい!」
フィナがまた身を乗り出す。
「フィナ師匠ー!」
競技中にもかかわらず、リリカの口元が思わず緩んだ。
エルナはそんなフィナを横目で見ながら、競技場中央のリリカへ意識を戻す。
「ここからよ。距離が伸びるから、いつもの癖で出力を上げすぎないことね」
「聞こえるかな?」
フィナが尋ねると、エルナはすぐ首を横へ振った。
「聞かせる必要ないわ。あの子なら分かってる」
その予想通り、三つ目の課題でもリリカは落ち着いていた。
最初の標的より倍近く遠い位置。
しかも標的は腰より低く、火球の軌道を少し下げなければならない。
リリカは杖の角度を調整し、魔力供給を一度だけ確認してから放つ。
火球は途中で膨らむことなく低い軌道を維持し、標的の中心へ届いた。
以前のリリカなら、距離を意識した瞬間に不安から出力を上げすぎていた。
今では、必要な距離へ必要な分だけ火を運べる。
四つ目の課題では、細い棒の先にある小型標的へ三秒間だけ火を灯す必要があった。
周囲の棒へ熱が伝われば減点になる。
リリカは火球をぶつけるのではなく、標的表面へ触れた瞬間に広がりを抑えた。
炎が小さく灯り、その場へ必要な熱だけを残す。
棒には焦げ跡一つ残らない。
「綺麗……!」
観客席でフィナが両手を合わせる。
「前よりずっと上手になってるよ!」
その声は、今度こそ競技場まで届いた。
リリカにも聞こえた。
胸の奥が熱くなる。
フィナに褒められた。
ずっと追いかけてきた師匠に、自分の火を見てもらえている。
嬉しさが膨らむほど、頭の中へ別の考えが入り込んできた。
もっと見せたい。
もっとフィナ師匠みたいに。
次の課題は、最も小さな炎を指定位置へ灯すものだった。
リリカは杖を構えながら、数日前に見たフィナの「小さい火」を思い出す。
杖も使わず、指先に生まれた炎。
何の迷いもなく、必要な場所へ必要な熱だけを残した火。
「師匠なら……」
その瞬間、いつも使っている魔力経路から意識が外れた。
杖を通して整えていた流れを、フィナのように直接小さくしようとする。
炎は生まれた。
だが、普段より少しだけ魔力量が多い。
「っ!」
リリカはすぐに異変へ気づき、供給を絞った。
それでも一瞬遅かった。
標的へ届いた火は指定範囲から指一本分だけ大きく広がり、計測板へ黄色の減点表示が灯る。
「あ……」
リリカの表情が固まった。
致命的な失敗ではない。
標的は壊れていない。
失格条件にも触れていない。
それでも、ここまで全て綺麗に成功していただけに、その一度だけが強く目へ残った。
「リリカ!」
観客席からフィナの声が飛ぶ。
「まだ終わってないよ!」
その声に、リリカははっと顔を上げた。
最後の課題が残っている。
複数条件を同時に満たす、予選最後の標的。
三つの小型標的へ順番通り火を灯し、それぞれ異なる大きさと温度へ調整する。
リリカは一度だけ深く息を吸った。
「今は……いつも通り」
フィナの姿を頭から追い出すのではなく、自分が何度も繰り返してきた手順へ意識を戻す。
杖を通して魔力を整える。
一つ目。
小さな火を指定位置へ灯す。
二つ目。
炎の大きさを抑えたまま、必要な温度まで上げる。
三つ目。
最も遠い標的へ、火球の形を崩さず運ぶ。
最後の炎が中央へ届いた瞬間、三枚の計測板が続けて正常判定を示した。
競技終了の鐘が鳴る。
「できた!」
リリカは杖を胸元へ引き寄せ、ようやく大きく息を吐いた。
観客席ではフィナが立ち上がり、今度こそ遠慮なく両手を振っている。
「リリカ、すごかったー!」
「ありがとうございます、フィナ師匠!」
リリカも競技線の中から思いきり手を振り返した。
少し遅れて得点板へ結果が表示される。
精度。
持続時間。
温度制御。
距離。
一度の出力超過による減点はあるものの、それ以外は高水準だった。
そして最後に、予選通過を示す光が灯る。
「通った!」
フィナがリリカ本人より先に喜ぶ。
その隣でレオンも得点の内訳を確認し、表情を僅かに緩めた。
「十分だ。あの一回があっても通過圏内に余裕がある」
「後半でちゃんと立て直したのも良かったわ」
エルナは競技場から戻ってくるリリカへ視線を向け、少し誇らしそうに腕を組んだ。
「最初の頃なら、一回崩れた後に焦って連続で失敗してたでしょうね」
ネムも枕型魔導具を抱えたまま得点板を見上げる。
「最後、いつものリリカ」
「はい!」
四人のところへ戻ってきたリリカは、嬉しさを隠しきれないまま参加証を握りしめた。
「準決勝です!」
「やったね!」
フィナが笑顔で迎えると、リリカの頬がさらに緩む。
「フィナ師匠が応援してくださったおかげです!」
「リリカが頑張ったからだよ」
「でも、一個だけ失敗しました」
リリカは黄色判定が出た課題を思い出し、自分の杖へ視線を落とした。
「師匠みたいに小さくしようとしたのに、少し大きくなってしまいました」
レオンの眉が僅かに動き、エルナも何かを言いかける。
しかしリリカは落ち込んだ様子もなく、むしろ次の課題を見つけたように顔を上げた。
「やっぱり、もっとフィナ師匠の制御を真似しないと駄目ですね!」
フィナだけは深刻に受け取らず、明るく首を傾げる。
「でも他の火、全部すごく上手だったよ?」
「だからこそです!」
リリカは競技参加証を胸へ抱き、準決勝と書かれた欄を嬉しそうに見つめた。
自分が以前より成長していることも、予選を突破できたことも分かっている。
ただ、一度だけ起きた失敗の理由を、リリカはまだ別の方向へ受け取っていた。
もっと師匠のように。
もっと上手く真似できるように。
その考えを疑わないまま、リリカは準決勝進出者として次の競技へ名を連ねた。




