第三章 4 『初級魔法競技』
王都魔法祭の開催まで、あと数日。
学院東側の競技場では、本番へ向けた事前説明と試験運用が始まっていた。普段は模擬戦に使われている広い円形競技場も、今は中央を複数の区画へ分けられ、火、水、風、土、光といった初級魔法ごとの課題設備が並んでいる。
「思ったよりいっぱいあるね」
観客席へ続く階段の途中で、フィナは競技場全体を見渡しながら目を輝かせた。
火属性区画だけでも、木製標的、耐熱板、小型炉、温度計測器、距離の異なる発火台が並んでいる。
隣の水属性区画には大小の容器や水路模型があり、そのさらに奥では風魔法用らしい羽根車が規則正しく並べられていた。
「初級魔法の競技だけで、こんなに種類あるんだ」
「初級だから種類が多いとも言える」
隣を歩くレオンは、参加者用冊子を開きながら競技設備を確認していた。
「実生活で一番使われてるのは、むしろこの辺りだからな」
「そうなの?」
「フィナ師匠!」
その問いへ反応したリリカが、今日の説明会でもらった資料を胸元へ抱えながら振り返る。
「初級魔法は日常生活の基本なのです!」
「すごく自信ありそう」
「昨日、勉強しました!」
「昨日なんだ」
フィナが思わず笑うと、リリカは少しだけ頬を膨らませた。
「でもちゃんと覚えました! 火属性なら着火や加熱、水属性なら給水、風属性なら乾燥や掃除、光属性なら簡易照明です!」
勢いよく並べるリリカの横から、エルナが指を一本立てて補足する。
「土なら道の小さな段差を直したり、簡単な足場を作ったりもできるわ。風だって荷物の移動補助や救助で使われるし、単に家事だけじゃないからね」
「救助にも使うんだ」
フィナが感心したように競技場へ目を戻す。
街で暮らしていると、灯りをつけることも、水を出すことも、物を乾かすことも珍しくない。
だからこそ、それを支える初級魔法がどれほど多く使われているかを、フィナは今まで深く考えたことがなかった。
「強い魔法より、毎日使う魔法の方が多いんだね」
「そりゃそうよ」
エルナは階段を下りながら、当然というように肩をすくめる。
「毎朝、戦略級魔法でお湯を沸かす人なんていないでしょ」
「すごく早そう」
「そういう問題じゃない!」
即座に返したエルナの声に、少し後ろを歩いていたネムが眠そうな顔を上げる。
「家、なくなる」
「そこまでしないよ!」
「フィナなら分からない」
「ネムまで!?」
フィナが振り返って抗議している間に、レオンは競技場中央へ設置された説明用標的を指した。
「初級魔法が便利なのは、弱いからじゃない。必要な出力を安全に、何度でも再現できるからだ」
「弱いのと違うの?」
「違う」
レオンはそこで冊子を閉じ、フィナへ向き直る。
「例えば火をつけるだけなら、必要なのは家を吹き飛ばす威力じゃない。薪だけ燃やして、周囲には燃え移らず、毎回同じ結果になる方が価値がある」
「なるほど……」
フィナが珍しく真面目な顔で頷く。
「じゃあ私の小さい火も生活向き?」
「お前の場合、その『小さい』が信用できないって何回言わせるんだ」
「今回は何もしてないよ!」
また始まりそうになったところで、競技場中央から参加者を呼ぶ合図が響いた。
リリカは慌てて姿勢を正し、フィナたちから数歩離れる。
「行ってきます!」
「頑張ってね!」
フィナが大きく手を振ると、リリカも嬉しそうに振り返してから参加者区画へ向かった。
今日行われるのは本番前の事前説明と簡易試走だけだったが、課題内容は実際の予選に近いものが用意されている。
初級火魔法競技では、単純な威力はほとんど評価されない。
第一課題では、距離の異なる五つの標的へ順番通りに火を灯す。
第二課題では、指定された大きさを維持する。
第三課題では、標的ごとに異なる温度を一定時間保つ。
そして複合課題では、それらを組み合わせながら、余計な場所へ熱を伝えない精度まで求められる。
「標的を壊した場合は?」
参加者の一人から質問が出ると、説明役の教員は中央の耐熱板を指した。
「大幅減点です。課題によってはその時点で失格になります」
観客席で聞いていたフィナが小声で首を傾げる。
「壊したら駄目なんだ」
「そこに驚くな」
隣のレオンが即座に釘を刺す。
「競技だから壊さないのが前提だ」
「でも火の強さを競うなら、大きい方が――」
「今の説明聞いてた!?」
エルナが横から振り向き、フィナの両肩を掴みそうな勢いで身を寄せる。
「指定通りに出す競技! 大きければいい競技じゃない!」
「分かってるよ!」
「今、分かってない顔してたわよ!」
「また顔!」
騒いでいる三人から少し離れ、ネムは観客席の端へ座っていた。膝に枕型魔導具を置きながら競技場を見下ろしているため、寝る気はあっても完全に興味がないわけではないらしい。
やがて簡易試走が始まった。
リリカの前には五つの発火標的が並ぶ。
一つ目は近距離。
二つ目は少し遠く。
三つ目は低い位置。
四つ目は右側。
五つ目は最も遠い位置にあり、それぞれ指定された炎の大きさと温度が違っていた。
開始の合図と同時に、リリカは杖を構える。
最初の火球は小さく、安定していた。
標的中央へ触れると、必要な大きさだけ炎が広がり、そのまま指定時間まで形を保つ。
「上手!」
フィナが思わず身を乗り出す。
二つ目も成功。
三つ目では炎の大きさをさらに落とし、低い位置にある小さな受け皿だけを温める。
四つ目へ移る頃には、リリカの動きから余計な力みが消えていた。アクアレイアで濡れた縄の一点だけを焼き、金属部品を必要な分だけ熱した経験が、そのまま精度へ繋がっている。
「かなり安定してるな」
レオンは観客席から魔力の流れを追いながら、珍しく素直に評価した。
「前より出力を下げる判断が早い」
「だから言ったでしょ。リリカは細かい制御の方が向いてるのよ」
エルナも競技場へ視線を向けたまま、口元を少し緩める。
「無理に強く撃たなくなった分、魔力の流れも綺麗になってる」
最後の標的だけ、指定された炎はこれまでより小さかった。
リリカは杖先へ集める魔力をさらに絞る。
そこまでは良かった。
だが、炎を出そうとした瞬間、観客席のフィナが視界へ入った。
昨日、何の苦もなく指先へ小さな火を灯した姿が頭に浮かぶ。
杖を使わず、ただ「小さい」と考えるだけで成立したように見えた火。
リリカは反射的に杖を僅かに下げた。
「師匠みたいに……」
自分でも気づかないほど小さく呟き、普段とは違う流れで魔力を指先へ寄せようとする。
その瞬間、安定していた術式の一部が揺れた。
生まれた炎は指定より大きく膨らみ、リリカは慌てて供給量を絞る。
今度は弱めすぎた。
炎は標的へ届く前に形を崩し、途中で消える。
「あっ……!」
リリカの肩が落ちた。
観客席でもフィナが思わず立ち上がりかけたが、隣のレオンが片手で制した。
「まだ終わってない」
競技場では再試行が許可されていた。
リリカは一度だけ深く息を吸い、自分の杖を握り直す。
今度はフィナを見ない。
いつも通り、杖を通して魔力を整え、必要な量だけ火へ変える。
放たれた小さな炎は真っ直ぐ標的へ届き、指定された大きさで灯った。
計測器が正常判定を示す。
「できた!」
観客席でフィナが両手を上げる。
試走終了後、記録板へ表示された結果は十分に高かった。
致命的な失敗は一度だけ。再試行後の精度も良く、本番予選を想定した基準では通過圏内だった。
「やりました!」
戻ってきたリリカは真っ先にフィナの前へ駆け寄り、記録板を見せる。
「予選の基準、超えてます!」
「すごいよ! 最後もちゃんと直せたし!」
フィナが自分のことのように喜ぶと、リリカの顔もさらに明るくなった。
レオンはその横から記録板を確認し、四つ目までの数値と最後の一回だけ乱れた数値を見比べる。
「最初の四つはかなり良かった。最後だけ魔力経路が変わってる」
「フィナを意識したでしょ?」
エルナも同じ点に気づいたらしく、リリカへ少しだけ真剣な目を向ける。
「え?」
リリカは一瞬きょとんとしたあと、すぐ笑顔へ戻った。
「はい! フィナ師匠の小さい火をやってみようと思って!」
「それで崩れたんだぞ」
「でも二回目は成功しました!」
レオンが何か言おうとしたものの、リリカの表情には失敗への落ち込みより、次こそ上手くやれるという期待の方が強かった。
フィナも純粋に結果を喜んでいるため、今ここで深く追及する空気ではない。
「本番も頑張ろうね!」
「はい、フィナ師匠!」
リリカは力強く頷き、記録板を胸元へ抱え直した。
その少し後ろで、ネムが枕を抱えたまま小さく口を開く。
「いつもの方、上手」
「ネムも見てたの!?」
「半分」
「半分寝てたのね!」
エルナのツッコミに、ネムは否定もせず瞬きを一つ返した。
五人が競技場を離れようとした時だった。
フィナは何となく観客席の上段へ目を向ける。
祭典前の説明日ということもあり、観客席には参加者の付き添いや学院関係者がまばらに座っている。その遠い一角に、白に近い髪をした小柄な少女が一人だけ立っていた。
「……?」
フィナが僅かに首を傾げる。
少女が見ていたのは、競技場ではなかった。
初級火魔法の標的でも、記録板でも、リリカでもない。
まっすぐフィナの方を見ていた。
視線が合ったように思えた次の瞬間、前を歩いていたリリカが振り返る。
「フィナ師匠、行きましょう!」
「あ、うん!」
フィナがそちらへ返事をしてから再び上段へ目を向けると、白髪の少女の姿はもう人影の向こうへ消えていた。
気のせいだったのかもしれない。
そう考えたフィナは深く気にせず、四人の後を追って階段を下りていく。
一方で、リリカの意識は既に本番へ向いていた。
自分の火は前よりずっと上手くなっている。最後の失敗も、もっとフィナのやり方を理解できれば越えられると信じていた。
競技場を出たリリカは記録板の高い数値をもう一度見つめながら、次はもっと師匠の「小さい火」へ近づこうと、迷いなく考えていた。




