第二章 幕間 『始まりへ還す夜』
夜のアーク・ノクス拠点は、外から想像するほど静まり返ってはいなかった。
古代施設を改修した石造りの回廊には新しい魔導灯が等間隔に並び、その奥では研究区画の装置が低く唸っている。
生活区画まで戻れば様子はさらに変わり、開いたままの本、修理途中の魔導具、椅子へ掛けられた外套、誰かが置き忘れた菓子皿まであり、長く人が暮らしてきた場所だと分かる空気が残っていた。
アゼルへの報告を終えたエルクが共用区画へ入ると、長椅子に座っていた第四環ミゼラ・ローヴェが真っ先に顔を上げた。
「——おかえり、エルク」
「ただいま」
ミゼラの視線は笑顔のまま、裂けた外套の裾から濡れ跡の残る袖へ移っていく。
「楽しそうな顔してるけど、それなりにやられてるね?」
「最後に落ちたくらい」
大きな卓の向こうで食事をしていた第三環ガルド・レヴァンが、太い腕を組みながら豪快に笑った。
「負けたのか?」
「うん」
「で、面白い相手だったか?」
「すごく」
「なら悪くない!」
「任務の成否を戦闘の満足度で判定するな」
資料を広げていた第一環ゼイル・アークトが冷静に割り込むと、ガルドは悪びれもせず肩を揺らした。
「第九環が笑って帰ってきたんだ。死んでねえならまず十分だろ」
「十分かどうかを決めるのは報告後だ」
「もう報告、終わったよ」
エルクが空いていた椅子へ座ると、その隣から菓子を一つ取ろうとしていたティアが興味深そうに身を寄せた。
「海、本当に空にあったの?」
「いっぱいあったよ」
「いっぱい?」
「何個か重なってた」
「見たかった」
ティアの瞳が輝いた瞬間、ゼイルは資料から顔を上げるより早く釘を刺した。
「見るな。参加するな。真似するな」
「まだ何もするって言ってない!」
「顔が言ってたよ」
ミゼラが楽しそうに追撃すると、ソファの反対側で本を閉じた第二環セレナ・ヴェイルまで穏やかに微笑んだ。
「ティアなら、次に『少しくらいなら』と言うでしょうね」
「セレナまで!?」
抗議するティアの前へ、セレナは温め直した飲み物を差し出す。そのまま第十二環の少女を宥めるように一度だけ肩へ触れ、今度はエルクの袖口へ視線を移した。
「怪我は?」
「ほとんどないよ」
「本当に?」
「フィナが最後に拾ってくれたから」
その名前が出た瞬間、ティアの指先だけが止まった。
菓子を掴みかけたまま、青金色の瞳が一度だけエルクへ向く。すぐ普段通りを装うように飲み物へ手を伸ばしたが、セレナは何も指摘せず、その小さな変化を見なかったことにした。
「第九環としての報告は済んだんだな?」
ゼイルが確認すると、エルクは素直に頷いた。
「うん。アゼルには全部話した」
首領直属の十二人の最高幹部――十二原環〈デュオレイア〉。
第一環から第十二環まで番号を持つ彼らは、それぞれ異なる役割を担っている。
番号は単純な強さの順位ではなく、ゼイルが全体をまとめる一方で、エルクのように特異な任務を担当する者もいた。
「なら今夜は休め」
「まだ眠くないよ」
「外套を直してから休め。明日、破れたまま歩くな」
「ゼイル、お母さんみたい」
「次に言ったら自分で縫え」
「もう言わない」
即座に引き下がったエルクを見て、ミゼラが笑いを堪えきれず肩を震わせる。
ひとしきり空気が緩んだところで、セレナが卓上の資料へ目を落とした。
「学院で捕まった彼の方は?」
ゼイルの表情がわずかに引き締まる。
「生存は確認できている。特殊拘束施設へ移送されたままだ。尋問も続いている」
「何か話した?」
「核心情報は漏れていない。押収された記録板と黒い結晶については、向こうもまだ解析中だ」
セレフィア魔法学院地下へ潜入し、フィナたちに捕縛された男もアーク・ノクスの構成員だった。
十二原環本人ではなく、ゼイル直属の《原初観測執行官》。古代施設への潜入、遺物回収、原初魔力反応の観測、適合者候補の判定を専門とする工作員であり、学院では異常反応を確認して記録することが任務だった。
「助けに行かないの?」
ティアの問いに、ゼイルは資料を閉じてから答えた。
「本人が望んでいない」
「捕まったままなのに?」
「任務前に決めていた。捕縛された場合、自分一人のために組織を動かすな、と」
「でも仲間でしょ」
珍しく食い下がるティアへ、ゼイルは否定ではなく説明を返した。
「だから状況は監視している。安全に回収できる機会が来れば動く。ただし、本人が決めた覚悟を無視して救出するのも違う」
ティアは完全には納得していない顔をしたものの、それ以上は口を挟まなかった。
そのとき、回廊から足音が近づいてくる。
現れたのは、先ほどまでエルクの報告を受けていたアーク・ノクス首領、アゼル・ノクティスだった。
「まだ起きていたか」
王座も護衛も伴わず、アゼルは空いていた椅子を普通に引いた。三十代前半ほどに見える穏やかな男が加わっただけで、騒いでいた空気が自然と少し落ち着く。
「エルクが帰ってきたから、みんな集まってただけ」
ミゼラの返事に、アゼルは短く笑った。
「そうか」
そのままゼイルへ目を向ける。
「学院で捕まった彼は、生きているか?」
「はい。生存しています」
「そうか」
大きく安堵するでも、冷たく切り捨てるでもない。
ただ、一人の構成員が生きていると確認できたことを受け止めるように、アゼルは静かに息を吐いた。
「救出は本人の希望通り保留しています」
「それでいい。彼が選んだことなら、まずは尊重しよう」
卓上には、学院地下で押収されたものに関する情報も置かれていた。
当時起動された神話級反転術式は、捕縛された執行官一人が短期間で構築したものではない。
複数回の潜入と偽装術式、古代基盤への追記を何年も積み重ねた末、彼は最終起動だけを任されていた。
その長期計画を、フィナは初級火魔法一発で術式線だけ焼き切った。
「改めて考えても異常だ」
ゼイルは指先で資料の一部を押さえた。
「現代術式を上から破壊したのではない。必要な線だけを選んで消している」
「アクアレイアでも似たことをしたよ」
エルクが楽しげに会話へ戻る。
「僕の可能性を全部壊すんじゃなくて、今そこにないものだけ外した」
「しかも人格も記憶も失わずに?」
ティアの声だけが僅かに低くなった。
「うん。最後まで普通だったよ」
エルクの何気ない返答に、ティアは掌を握った。
その仕草を見たアゼルは何も言わず、話を続ける。
「学院地下で《完全な原初魔法適合者》と判定された時点では、力の性質しか分からなかった。今回、少しだけ本人の考え方が見えた」
「今ある一つを選んだこと?」
「それも含めてだ」
アゼルは机へ広げられた地図へ視線を落とした。
「魔法の価値を階級だけで決めない。才能の有無で人の価値まで決めない。そこだけなら、出発点は俺たちと近い」
「でもフィナは、今ある街を守った」
エルクの言葉に、アゼルはゆっくり頷く。
「俺たちは、今の仕組みそのものを壊す必要があるなら、それも選択肢から外さない」
似ている部分があるからこそ、違いもはっきりしていた。
フィナは目の前にいる人間を残そうとする。
アゼルは、世界を縛っている仕組みを変えるためなら、今ある形そのものを崩すことも受け入れている。
「彼女は今後、俺たちにとって最大級の障害になる可能性がある」
ゼイルが現実的な懸念を口にすると、アゼルは否定しなかった。
「そうだろうな」
「なら、先に排除しますか?」
「しない」
答えは早かった。
「彼女が何を選ぶのか、まだ全部は見ていない」
「その答えが、俺たちと相容れなければ?」
「その時は、互いに自分の答えを通すだけだ」
静かな言葉なのに、誰も続けて軽口を挟まなかった。
その沈黙の中で、ティアが自分の手を見下ろす。
「私も行けばよかった」
「駄目だ」
今度もゼイルがすぐ止めた。
「まだ続き言ってない!」
「分かる」
「私なら、もっと――」
「ティア」
アゼルの声に、少女の言葉が止まる。
「競うために原初魔法を使う必要はない」
「でも……」
「自分を削って証明することじゃない」
ティアは唇を尖らせたまま俯いた。
ガルドも先ほどまでの豪快な笑いを抑え、まるで妹を諭すように片手を振る。
「戦いたいなら俺が付き合ってやる。わざわざ減る方を選ぶな」
「私、そんなに弱くないもん」
「弱いとは言ってねえ」
セレナも何も足さず、冷めかけた飲み物をティアの手元へ戻した。
しばらく黙っていたエルクが、そんな彼女の横から顔を覗き込む。
「でも、フィナには会ってみたいでしょ?」
「……別に」
「今の間、長かったよ」
「長くない!」
「ミゼラ、どう思う?」
「会いたそう」
「聞かないでよ!」
膨れたティアへ笑いが戻り、張りつめていた空気も少しだけほどけた。
アゼルはその輪から離れ、壁面に広げられた地図の前へ立つ。
セレフィア学院。
アクアレイア。
そして、それらから遠く離れた別の地域。
古代施設と原初魔力反応を示す印が、複数の地点へ刻まれていた。
「次も動き始めている」
アゼルの指先が、新たな印の上で止まる。
ティアは少し離れた場所から、自分の掌をもう一度見つめた。
力を使うたびに何かが欠けていく感覚を、彼女は知っている。
それなのにフィナは、同じように世界へ触れながら、仲間の名前を覚えたまま笑って帰った。
「……私が会ったら、分かるのかな」
「やっぱり会いたいんだ」
「エルク、うるさい!」
反射的に言い返したティアの声には、いつもの明るさが少しだけ戻っていた。
アゼルはそのやり取りを止めず、地図上の新たな反応へ視線を移す。
石造りの拠点に夜の静けさが戻る頃には、アクアレイアから帰ってきた一人を迎えた者たちの間で、まだ名も知らない次の土地へ向かう準備が、すでに静かに始まっていた。




