第二章 24 『ただいま、私たちの班室』
出発の日を迎えたアクアレイアには、まだ事件の傷跡が残っていた。
破損した空中水路には仮設の補強術式が組まれ、水流昇降機も一部だけの運転に限られている。
それでも主要な交通網は再開し、港には魔導船が戻り、透明な水路では小さな魚が再び流れに乗っていた。
「次に来る時までには、もっと綺麗に直しておきます」
海上魔導列車の発着場で、セレスティアはいつもの真面目な表情を少しだけ緩めた。
見送りには交流実習で顔を合わせた学生や技術者も集まり、忙しい復旧作業の合間を縫って五人へ手を振っている。
「じゃあ、また案内してね!」
「もちろんです。今度は空に海がない状態のアクアレイアを」
「普通はそっちだからね!?」
フィナが大きく反応すると、セレスティアの口元にも小さな笑みが浮かんだ。
「その代わり、いつか私もセレフィアへ行ってみたいです」
「来て来て! 学院も王都も案内するよ!」
弾んだ二人の声を聞いたリリカが目元を押さえ始めるより早く、隣のエルナが肩へ手を置いた。
「泣く前に止まりなさい」
「まだ泣いてません!」
「その顔で言われても説得力ないわよ」
「師匠が国境を越えて築いた友情の第二章が――」
「章にするな」
レオンの冷静な一言で、リリカの感動が途中で切られる。
ネムはフィナの袖を掴んだまま眠そうに目を細め、見送りの人数より列車の座席を気にしていた。
「もう乗る?」
「ネムだけ目的が帰宅じゃなくて睡眠なのよね」
「どっちも同じ」
「違うと思う!」
笑いながら列車へ向かう五人を、セレスティアは最後まで見送っていた。
フィナも乗車口へ入る直前に振り返り、何度も手を振る。
悲しい別れではなかった。
また会える。
そう思える友達が、海の向こうに一人増えた。
帰路の海上魔導列車が動き出すと、窓の外へ青い海が広がった。
行きには初めて見る景色へ顔を張りつかせるようにしていたフィナも、今は座席へ背を預けながら静かに水平線を眺めている。
「なんか、すごかったね」
「感想が雑だな」
向かいの席では、レオンが既に事件記録の下書きを始めていた。
「国外実習中に古代施設を発見、アーク・ノクス十二原環と接触、国家規模の可能性異常が発生、逆さの海を復旧……報告書が何枚になるんだ」
「私のところ、変な書き方しないでよ」
エルナは身を乗り出し、レオンの記録紙を警戒する。
「何を心配してるんだ?」
「『雷を撃ちすぎて指が痺れた』とか!」
「事実だろ」
「もっと格好よく書きなさい!」
「報告書に演出を要求するな」
二人が早くも揉め始める横で、リリカは分厚い記録冊子を何冊も膝へ積み上げていた。
「私は今回の教えを六十二項目に整理しました!」
「多くない!?」
「市場編と料理編を含めれば百を超えます!」
「実習記録の半分くらい関係ないよね!?」
フィナが抗議している間にも、ネムは窓側の席で丸くなり、早々に眠る体勢へ入っている。
「ネムは何が一番楽しかった?」
「寝た場所」
「観光地一個も入ってない!」
「フィナの隣、安定」
「そこ国関係ないよ!」
今回の旅には、怖かったこともたくさんあった。
空へ海が持ち上がり、街そのものが何重にも重なり、もう少し遅ければ帰れなかったかもしれない。
けれど思い出すのは、それだけではない。
市場で食べた料理。
可愛い海魔物。
レオンが水の術式へ夢中になったこと。
エルナが勝手に「ルル」と名前を考えていたこと。
セレスティアと友達になれたこと。
どれも同じ旅の中に残っている。
フィナが再び窓の外へ顔を向けると、レオンが記録紙から目を上げた。
「念のため言っておく」
「何?」
「海を持ち上げるなよ」
「しないよ!」
即答したあと、フィナは広い海をもう一度眺めた。
少しだけ間が空く。
「……ちょっとだけなら?」
「駄目だ!」
「駄目に決まってるでしょ!」
レオンとエルナの声が綺麗に重なった。
「一度本当に空へ行った海を見た後で、よくその台詞が出るわね!」
「今回は国際問題では済まないぞ」
「今回はって何!? 前回も何もしてないからね!?」
その横で、リリカがすぐ冊子を開く。
「『海を持ち上げないこともまた、師の教え』……」
「私の失言を教えに昇格させないで!」
「でも弟子として重要な心得です!」
「それはそうだけど!」
騒ぎの中でも眠りかけていたネムが、目を閉じたまま小さく口を開いた。
「魚、二度目」
「分かってるよ! 今回は本当にやらないから!」
「今回“も”だ」
「レオン、細かい!」
行きと同じ海なのに、見え方は少し違っていた。
やがて列車はセレフィア側へ入り、窓の外に見慣れた街道や城壁が増えていく。
「帰ってきた……」
王都の白い城壁が見えたとき、フィナの声は自然と柔らかくなった。
学院へ到着したあと、正式な報告は後日に回され、五人は荷物を抱えたまま真っ先に班室へ向かった。
扉を開けると、旅に出る前と変わらない机と椅子が並んでいる。
棚の位置も、置きっぱなしにした資料もそのままだった。
そして壁には、一枚の集合写真が飾られている。
レオンとエルナが言い争い、フィナが間へ入ろうとし、リリカがなぜか感動し、ネムがフィナの腕の中で眠っている。
整っているとは言い難い。
けれど、五人らしい一枚だった。
「戻ってきたね」
フィナが写真を見上げている間にも、後ろでは荷解きが始まっていた。
「フィナ、これは何だ」
レオンが鞄から次々と出てくる包みを机へ並べる。
「お土産」
「量を聞いてる」
「お土産いっぱい」
「説明になってない!」
エルナも別の袋を持ち上げ、呆れたように眉を寄せた。
「誰がこんなに買ったのよ!」
「私だけじゃないよ!」
「じゃあ誰よ!」
その答えを探すより先に、リリカの鞄からフィナ以上の冊子が雪崩のように崩れた。
一瞬、全員の視線がそちらへ集まる。
「……記録です」
「多いわよ!」
「フィナより荷物重かった原因それか!」
ネムの荷物だけは相変わらず小さく、本人も片付ける気配すら見せず机へ伏している。
旅の最中、世界の変化を止めるほど力を使った疲労がまだ完全には抜けていないのだろう。
フィナが近くの椅子へ座ると、ネムは安心したように身体の向きを少しだけそちらへ寄せた。
***************
——その頃。
アーク・ノクスの施設では、帰還したエルクがアゼル・ノクティスの前に立っていた。
「フィナって面白いね」
失敗を報告する者とは思えないほど、エルクの声は楽しげだった。
「何が?」
アゼルが静かに問い返すと、エルクは少し考えるように左右で色の違う瞳を細めた。
「いっぱい世界を見られる僕より、一つしか見てないあの子の方が、迷わなかった」
部屋の端では、ティアが黙ったままその会話を聞いていた。
「最後まで普通だったよ。あれだけ力を使ったのに、帰る時には仲間と笑ってた」
その言葉へ、ティアの指先がわずかに動いた。
「……あの子、今回も壊れなかったの?」
普段の明るい声とは違う、小さな問いだった。
「うん。何も変わってなかったよ」
「……何も、失わなかった?」
「たぶんね。仲間の名前も覚えてたし、普通に笑ってた」
ティアは自分の掌へ視線を落とした。
何かを確かめようとするように指を握り、すぐ開く。その表情に浮かんだものを、エルクは不思議そうに眺め、アゼルだけが何も言わず見ていた。
「……ずるい」
零れた声には、怒りだけでは説明できない熱が混ざっていた。
アゼルは答えを与えず、机上に広げられた別地域の地図へ視線を移す。
その一角では、アクアレイアとは異なる場所を示す印が静かに光っていた。
***************
そして再び、王立セレフィア魔法学院の班室。
「——だからこれは共有用のお土産!」
「共有用を十四個も買うな!」
「味が違うの!」
「六種類しかないじゃない!」
「残りは予備!」
「何の予備よ!」
レオンとエルナの追及を受けながら、フィナは机の上へ積み上がった包みを必死に守っていた。
リリカはその様子を見ながら、新しい記録冊子へ何かを書き始めている。
「『旅を終えた師は、仲間へ等しく海の恵みを分け与え――』」
「ただのお土産だから!」
「食料配分の記録なら数量を正確に――」
「レオンまで乗らないで!」
「旅の締めに食料監査始めるのやめなさいよ!」
机へ伏したネムが、騒がしさに片目だけ開ける。
「いつも通り」
その一言で、フィナの動きが少しだけ止まった。
壁には出発前と同じ写真がある。
その下では、レオンとエルナが言い合い、リリカが勝手に話を壮大にし、ネムが眠そうにしている。
海の向こうでは、空そのものが壊れかけた。
いくつもの街を見た。
一つの国を守り、新しい友達もできた。
それでも帰ってくれば、ここには変わらない四人がいる。
フィナは写真と目の前の仲間たちを見比べながら、肩の力を抜いて笑った。
「やっぱり、ここが落ち着くね」
騒がしい班室の壁で、五人の不格好な集合写真だけが、旅に出る前と変わらない姿のまま彼女たちの帰還を見守っていた。




