第二章 23 『一つしかないから、面白い』
逆さの海が消えたアクアレイアの上には、ようやく一つだけの青空が戻っていた。
ただし、街まで元通りになったわけではない。空中水路の一部は途中で折れ、水流昇降機は停止したまま傾き、浮遊灯台も片側を大きく下げている。
浸水した通りでは魔導師と冒険者が負傷者を運び、避難所へ向かう市民の列もまだ途切れていなかった。
「……ちゃんと残ってるけど、ボロボロだね」
中央広場から街を見渡したフィナの声には、安堵と痛ましさが半分ずつ混ざっていた。
少し離れた石畳では、敗北したエルクが座り込んだまま青空を眺めている。無限可能界〈インフィニア・ヴァリアス〉の痕跡はもうなく、左右で色の違う瞳にも、戦う意思は残っていなかった。
「不思議だなあ」
膝を抱えるようにして座ったエルクは、崩れた水路よりフィナの方へ興味深そうな視線を向けていた。
「何が?」
「僕はたくさん見えるのに、君より迷った」
フィナが眉を寄せると、エルクは空中を指でなぞるように動かした。
「壊れなかった街も、もっと栄えた街も、誰も怪我しなかった可能性もあった。でも君は最後まで、ここしか見なかったよね」
「だって、私ここにいるし」
「そういうところ」
エルクは少し笑い、それから本当に不思議なものを見るように首を傾けた。
「君って、不自由なんだね」
侮辱する響きはなかった。
エルクにとっては、無数にある可能性から一つしか選べないことが、本当に不自由に見えているのだろう。
フィナはすぐ反論せず、濡れた石畳へ視線を落とした。
もっと上手くできた世界も、あるのかもしれない。
もっと早く終わらせた自分も。
誰も泣かなかった結果だって、どこかにはあるのかもしれない。
「……うん」
少し考えた末、フィナは素直に認めた。
「でも結構楽しいよ」
「楽しい?」
「だって、一つしか見えないなら、今いる人を大事にすればいいじゃん」
フィナは避難所の方へ目を向けた。
「今泣いてる人がいたら助けるし、今笑ってる人がいたら一緒に笑うし、帰りたい場所があるならそこに帰りたいし」
「別の可能性の方が、もっと良くても?」
「そっちは知らないからね」
あっさり返され、エルクの笑みが一瞬止まった。
「知らないものより、今一緒にいる人の方が大事かな」
難しい理屈ではなかった。
だからこそ、エルクには余計に理解しづらいらしい。
しばらく黙っていた少年は、やがて青空を見上げながら楽しそうに目を細めた。
「一つしか選べないから、一つが大事になるのかな」
「分かんない」
「即答だね」
「そういう難しい話、レオンの担当だから」
フィナが胸を張ると、遠くから戻ってきたレオンが聞きつけたように眉間を押さえた。
「——俺を哲学担当にするな」
「いた!」
「最初からいた!」
いつもの調子へ戻ったフィナを見て、エルクは声を立てずに笑った。
「やっぱり面白いなあ」
立ち上がったエルクの足元へ、薄い白光が集まり始める。
フィナが身構えかけたものの、攻撃へ変わる様子はない。アーク・ノクス側が用意していた撤退手段なのか、光は少年の輪郭だけを少しずつ薄くしていった。
「逃げるの?」
「今日は負けたから帰る」
「次は街ひっくり返さないでね」
「約束はできないかな」
「そこはしてよ!」
フィナの抗議を楽しそうに受け流しながら、エルクは消えかけた身体で片手を振った。
「またね、フィナ——」
白い光が収束すると、そこにはもう誰も残っていなかった。
エルクが消えたあとも、街は立ち止まらなかった。
セレスティアは休む間もなく携帯端末を開き、水流管理局へ戻るための経路を確認している。
その隣ではレオンも都市術式の損傷状況を受け取り、既に修復の優先順位について技術者と話し始めていた。
「高架避難路、もう一回見てくるわ」
指先の痺れを確かめながらも、エルナは壊れた階段へ目を向けた。
「私も避難所へ戻ります! まだ荷物運びできます!」
リリカが勢いよく続こうとしたところで、フィナの服の裾へ小さな重みが掛かった。
ネムが半分眠るように寄りかかっている。
「ネム?」
「もう無理」
今回ばかりは誤魔化す気もないらしく、ネムはそのままフィナの腕へ額を預けた。
「眠い。重い。歩きたくない」
「最後の一個、完全に気持ちじゃない?」
「全部ほんと」
フィナは苦笑しながら小さな身体を抱き上げた。
近くの魔導師が休憩場所を案内すると、ネムは抵抗せず素直に目を閉じる。世界の変化を抑え続けた負荷は大きく、呼吸が落ち着くまで誰も起こそうとはしなかった。
「ネムは休ませよう」
レオンもそれ以上を求めず、毛布を掛ける位置だけ確認してから作業へ戻った。
フィナは眠ったネムの顔を見たあと、ふと周囲へ視線を巡らせた。
壊れた家屋。
腕を押さえて運ばれていく負傷者。
泣きながら再会を喜ぶ家族。
水路脇へ座り込み、肩で息をする魔導師。
助けられた人は多い。
それでも、被害は残った。
「もっと早くできたのかな……」
胸の奥から浮かんだ言葉を、フィナは途中で飲み込めなかった。
自分なら、もっと上手くできたのではないか。
もっと早く《可能性重層》の仕組みに気づいていれば。
もっと最初から全部できていれば。
「——フィナ」
振り向くと、水流管理局へ向かいかけていたセレスティアが足を止めていた。
以前なら危険な魔法使いを見るように向けられていた視線は、今ではずっと柔らかい。
「また、一人で数えようとしていますね」
「え?」
「自分ができなかったことを」
言い当てられ、フィナは少しだけ視線を逸らした。
「だって、私もっとできたかもしれないし」
「あなたは何でもできます」
前と同じ言葉だった。
けれど、今度のセレスティアはフィナを止めるためではなく、その隣へ並ぶように街を見渡した。
「ですが、何でも一人でしなければならないわけではありません」
通りの向こうでは、技術者たちが破損した水路へ仮設術式を組み込んでいる。
店主たちは余った食料を避難所へ運び、学生たちは寝具と水を配っていた。冒険者が負傷者を担架で運び、その横では市民自身が瓦礫を少しずつ端へ寄せている。
「この国を守ったのは、あなただけではありません」
セレスティアは一つずつ確かめるように続けた。
「そして、この国を直すのも、あなた一人ではありません」
フィナの肩から、少しだけ力が抜けた。
「……また同じこと言われた」
「また同じことを考えていたからです」
「それはそうなんだけど」
困ったように笑ったフィナへ、セレスティアもわずかに表情を緩める。
「私は最初、あなたの魔法を技術とは呼べないと言いました」
「うん」
「今でも、その考え自体は変わっていません」
「そこは変わらないんだ!?」
「再現できませんから」
即答され、フィナは思わず肩を落とした。
けれどセレスティアは、その反応を見ながら言葉を続けた。
「ただ、それと価値がないことは、まったく別でした」
フィナの目が上がる。
「あなたにしかできないことがある。私たちの技術だからできることもある。どちらかだけでこの街は守れませんでした」
「……うん」
「だから、ありがとうございました。フィナ」
今度は記録上の危険人物へではなく、一人の魔法使いへ向けられた感謝だった。
フィナも笑って返す。
「私もありがとう。やっぱり、みんなが使える魔法を作れるセレスティアたちってすごいよ」
「その評価は、ありがたく受け取っておきます」
「じゃあ、友達ってことでいい?」
あまりに自然に飛んできた言葉に、セレスティアが一瞬だけ目を瞬いた。
やがて小さく息を吐き、いつもの真面目な表情のまま頬だけを少し緩める。
「……はい。それで構いません」
「やった!」
フィナが喜んだ直後、少し離れた場所から鼻をすする音が聞こえた。
リリカが泣いていた。
しかも当事者二人より明らかに泣いている。
「なんでリリカが一番泣いてるの!?」
「感動担当」
フィナの腕の中で目を閉じたまま、ネムが即答した。
「担当だったの!?」
「フィナ師匠が国境を越えて友情まで築かれて……!」
「外交条約みたいに言うな!」
エルナのツッコミに、レオンまで真面目な顔で口を挟む。
「実際、学生交流という観点では今後の両国――」
「本当に外交の話になってる!」
「師匠の友情が国家間交流へ……!」
「広げるな!」
エルナとフィナの声が重なり、リリカがさらに感動し、レオンは説明を続けようとする。
その騒ぎの中心で、ネムだけがフィナの腕に収まったまま薄く目を開けた。
「友情、うるさい」
「起きて最初がそれ!?」
笑い声が広がる頃には、傾き始めた陽光がアクアレイアの街を橙色に染めていた。
停止していた水路の一つへ再び水が流れ、小さな魚が透明な管の中をゆっくり泳いでいく。
傾いた浮遊灯台にも灯りが戻り、街灯が一本ずつ点灯するたび、壊れた街へ少しずつ日常の色が戻っていった。
完全に直るまでには時間がかかる。
それでも、誰も立ち止まってはいなかった。
***************
——その夜。
アーク・ノクス側の施設へ戻ったエルクは、廊下を歩きながら上機嫌に小さく笑っていた。
「フィナ、面白かったよ」
すれ違いかけていた白桃色の髪の少女が、その名前だけで足を止める。
青金色の瞳が僅かに見開かれ、普段の明るさとは違う強い色が宿った。
「……フィナ」
ティア・エルネスはその名を確かめるように小さく繰り返し、消えかけたエルクの足音とは反対方向を見つめたまま、しばらく動かなかった。




