第二章 22 『蒼穹帰界』
フィナの周囲へ集まった風は、広場の旗も、人々の髪も揺らさなかった。
足元に溜まった水さえ波立たず、現在のアクアレイアを形作る青い魔力線も静かなまま残っている。
その一方で、レオンが識別した白い構造だけには、目に見えない風が細い指を掛けるように絡み始めていた。
『フィナ、青は絶対に残せ!』
通信越しのレオンの声には、術式中枢から送られ続ける膨大な情報を追う緊張が滲んでいる。
「分かってる! 今ここにあるのは触らない!」
フィナは頭上へ重なった無数の街を見上げた。
沈没したアクアレイア。
石造りの塔が並ぶ古代都市。
戦火で崩れた街。
建設されなかった海域。
現在よりはるかに発展した未来都市。
そして、そのすべてを覆う複数の逆さの海。
どれも今この瞬間へ入り込んではいるが、レオンが示した線を見れば違いは分かる。
現在へ連続しているものは青。
後から重なった可能性は白。
ならば、やることは難しくなかった。
「人も、街も、この海も残す」
フィナの声に合わせるように、風がさらに広がる。
「みんなの魔法も触らない。レオンたちが繋いだのも、そのまま」
青い線の間を縫い、白い魔力だけへ風が潜り込んでいく。
建物を押す風ではない。
海を吹き飛ばす風でもない。
そこにある物ではなく、今ここにない可能性を成立させている異質な魔力だけを選び、その表面へ薄く入り込んでいく。
「何、それ……」
少し離れた空中で、エルクの笑顔が初めて引きつった。
無限可能界〈インフィニア・ヴァリアス〉を維持していた白い魔力が、端から細かく震え始めている。
「吹き飛ばすんじゃないの?」
「それやったら街まで飛ぶでしょ!」
「うん。だから困ると思ってた」
「困ったから、別のやり方にしたの!」
フィナが両手を大きく広げると、風は都市全体へ一気に伸びた。
その瞬間、沈没都市の輪郭が空から剥がれた。
海中へ沈んでいたはずの塔も、魚が泳いでいた街路も、壊れる音一つ立てずに青白い光へほどけていく。
「一つ!」
続いて古代都市の石塔が薄くなる。
現代の街と同じ位置へ立っていた巨大施設は、基礎から砕けるのではなく、そこへ重なる理由だけを失ったように輪郭を崩した。
無数の光粒となった街が、風に乗って空へ舞い上がる。
『フィナ、南西側! 白線が青へ食い込んでる!』
「見えた!」
レオンの指示に従い、フィナは風の向きを僅かにずらした。
広げすぎない。
青へ触れない。
そこだけを切り離すように、白い魔力を引き剥がす。
南西側の未来都市がゆっくり透け、現在の建物だけがその場へ残った。
『できてる……!』
セレスティアの声が通信へ混じる。
『現在側の水流値、変化ありません! 都市術式も維持されています!』
「よし!」
フィナの顔に笑みが戻った。
自分の魔法が大きく広がっているのに、守るべきものには何も起きていない。
それが分かれば、もう迷う必要はなかった。
「じゃあ、もっといくよ!」
風が空を覆う。
戦争で崩壊した都市が光へ変わり、建設されなかった海域の景色が透明になって消える。
未来都市の空中水路も一つずつほどけ、重なっていた別の海獣たちまで白い光へ戻っていった。
現在の巨大海獣だけは、フィナの風の拘束の中に残っている。
味方の魔力も消えない。
リリカたちが守った地上術式も、エルナが確保した空中避難路も、ネムの静寂が支えた現在の輪郭も、そのままだった。
「おかしいな」
エルクは両手を広げ、消えていく可能性をつなぎ止めようとする。
白い魔力が何度も伸びる。
けれど、そのたびに風が接続前の異質な魔力だけを拾い上げ、空へ引き剥がしていく。
「まだあるよ」
「うん」
フィナは空いっぱいに重なった可能性を見回した。
「だから全部どかす!」
風がさらに深く入り込んだ。
空が鳴る。
ただし、轟音ではない。
無数の魔力が同時に現在から剥がれることで、巨大な布を一枚ずつ引き抜いていくような低い震えが都市全域を包んだ。
沈没都市が消える。
古代都市が消える。
未来都市が消える。
最後に残ったのは、空へ持ち上げられていた巨大な海だった。
『フィナ!』
レオンの声が鋭くなる。
『それは現在の海水だ! 消すな!』
「分かってる!」
フィナは風の性質を変えた。
逆さの海そのものを消すのではない。
海を空へ固定している白い魔力だけを外す。
その瞬間、都市上空を覆っていた巨大水塊の底面が大きく揺らいだ。
『海が落ちます!』
セレスティアの警告が飛ぶ。
「落とさない!」
フィナの風が海水の外側へ回り込む。
街へ落ちれば終わる。
だから落下する前に全体を支え、そのまま都市の外側へ誘導する。
数百万トンにも及ぶ水が、ゆっくりと形を変え始めた。
『……輪になってる』
地上から見上げたリリカの声が通信へ混じった。
逆さの海は巨大な環状水流へ変わり、アクアレイアの上空を囲むように回転していた。
魚も船も、現在側に属するものは水の中へ残っている。
フィナの風はそれら一つ一つを避けながら、海水だけを本来の海へ戻す流れを作っていく。
『そんな制御、どうなってるのよ……!』
エルナの呆れた声が聞こえる。
「私にもよく分かんない!」
『分かってやりなさいよ!』
「今ちゃんとできてるからいいでしょ!」
『良くないわよ!』
言い争う声の向こうで、環状水流がゆっくり都市外周へ広がっていった。
傾き始めた陽光が巨大な水の輪を透かし、空全体へ青と金の光が広がる。数え切れない水滴が宝石のように輝きながら、そのすべてが街へ落ちることなく外海へ流れていった。
『……きれい』
ネムの弱々しい声が通信へ混じる。
フィナは少しだけ笑い、最後の白い魔力へ意識を向けた。
「あとちょっと!」
風が一度、大きく広がる。
空に残っていた無限可能界〈インフィニア・ヴァリアス〉の輪郭が剥がれ、無数の可能性都市が一斉に光の粒へ変わった。
都市上空を覆っていた異質な光が、星屑のように舞い上がって消えていく。
その中心で、エルクの身体がぐらりと傾いた。
「——あ」
足元に重ねていた別可能性の足場まで失われ、少年の身体が空中から落ちる。
「ちょっと!」
フィナは反射的に風を伸ばした。
エルク本人だけを柔らかく受け止め、そのまま中央広場へ降ろす。
地面へ座り込んだエルクは、しばらく空を見上げたまま動かなかった。
もう彼の周囲に別の都市はない。
《無限可能界》も消えている。
残っているのは、疲れたような少年一人だけだった。
「負けた」
不思議そうに自分の手を見ながら、エルクは小さく笑った。
「こんな消し方あるんだね」
「消してないよ」
フィナは空を確認しながら返す。
「ここにないのをどかしただけ」
『だからその言い方をどうにかしろ!』
通信越しにレオンが耐えきれず声を上げる。
「また!?」
『国家規模の魔法だぞ! 記録へ「変なのだけ全部どかす」と書けるか!』
「意味は合ってるよ!?」
『合ってればいい問題じゃない!』
少し間を置き、レオンの声が落ち着いた。
『……蒼穹帰界〈ネレ=アルシオン〉』
「え?」
『今の魔法の正式名称だ。空へ重なった異界を退け、海を本来の場所へ帰した。これで記録する』
「急に格好よくなった!」
『お前が雑すぎるんだ!』
エルナのため息まで通信へ重なる。
『悔しいけど今回はレオンの方がいいわ』
「二対一になった!」
いつものやり取りが戻る中、最後の環状水流が外海へ降りていった。
巨大な水の輪がほどけ、海面へ戻るたびに遠くで白い波が広がる。空中に残っていた魚や船も水とともに本来の海へ収まり、アクアレイアの上空から青い水塊が完全に消えた。
静かになった空の下で、フィナはゆっくり街を見渡した。
水に濡れた建物。
傷ついた水路。
避難を終えた人々。
まだ修復が必要な場所はいくつもある。
それでも、街はここにある。
レオンたちが守った青い現在も、フィナが絶対に触れないと決めた人々も、何一つ別の可能性へ消えてはいなかった。
「……ちゃんと残ってる」
胸に溜まっていた息をようやく吐き出すと、傾いた陽光の下に広がるアクアレイアが、今度こそ一つだけの街としてフィナの目の前に残っていた。




