第二章 21 『三秒だけ、世界を止める』
都市全域へ広がった無限可能界〈インフィニア・ヴァリアス〉は、もはや一つの街という形を保っていなかった。
現在のアクアレイアへ沈没都市が重なり、その上へ古代都市と未来都市が透け、さらに複数の逆さの海まで空を埋めている。
建物も水路も海獣も、数秒ごとに別の位置へずれ続け、レオンが送った青と白の識別線さえ境界から崩れ始めていた。
『フィナ、そのまま待て!』
通信越しのレオンの声が、今まで以上に鋭く響く。
『ここで動かしたら現在側まで巻き込む! ネムが止める瞬間に合わせる!』
「分かった!」
中央広場で両手を上げたまま、フィナは周囲へ広がりかけていた風を抑えた。
目の前では白い線が青い線へ食い込み、どちらが本来の街なのか、あと数秒もすれば判別できなくなりそうだった。
それでも今は自分から手を出さず、四人の仕事が届くのを待つ。
北側居住区では、壁際へ身体を預けたネムが、両手で枕型魔導具を抱えながら呼吸を整えていた。
既に指先は震え、立っているだけでも膝へ力が入りにくい。周囲の現地魔導師たちは防壁を厚くし、小型海魔物が近づくたびにネムへ届く前で押し返している。
「ネムさん、本当にできますか?」
心配そうに問われても、ネムは無理に平気な顔を作らなかった。
「しんどい」
「なら――」
「でも、三秒ならできる」
眠たげな瞳を細め、街全体へ意識を伸ばしていく。
これまで静めていたのは一つの区画だけだった。
今度は違う。
建物が別の建物へ変わろうとする働き。
水路が違う経路へ移ろうとする働き。
海が別の海へ重なり、可能性が現在へ定着しようとする、その変化そのもの。
「世界、ちょっとだけ静かにして」
ネムの魔力が広がった。
音が消えたわけではない。
風も、水も、人も動いている。
けれど、アクアレイアを覆っていた無数の可能性だけが、何かに手を押さえられたように動きを鈍らせた。
沈没都市の塔が半透明のまま止まり、古代水路の流れが現在へ入り込む直前で留まる。重なった海獣の影も、別の位置へ移ることなく一つの場所へ固定された。
『止まった!』
都市術式中枢で監視盤を見ていたレオンは、その瞬間を逃さなかった。
「全員、現在側だけ拾え!」
セレスティアと現地技術者たちが同時に制御盤へ手を走らせる。
ネムが作った静止時間のおかげで、これまで追うたびに形を変えていた魔力線が、初めて同じ位置へ留まっていた。
「第一水路、現在値一致!」
「港湾結界、異常発生前の接続と連続しています!」
「北側居住区、青線確定!」
次々と飛ぶ報告を受けながら、レオンは術式編纂を一気に進めた。
今ここにある都市だけを残す。
異常を消す術式ではない。
現在まで連続して存在していた魔力経路、水流、建築術式、結界、動力、そのすべてへ一つの基準を与える。
「セレスティア!」
「都市水流を固定します!」
セレスティアは両手を中央制御盤へ置き、アクアレイア全域の水流術式を現在側の経路へ接続した。
空へ持ち上がった海そのものには触れない。
都市内部を流れる水だけを、異常発生前から続く経路へ戻し、別可能性の水路へ流れ込まないよう固定する。
「第三水路、現在側へ固定!」
「第四も続きます!」
現地技術者たちが補助術式をつなぎ、青い線が都市模型の上で一本ずつ強くなる。
だが、その変化に気づいたエルクも黙ってはいなかった。
「へえ」
都市上空に立った彼の周囲で、停止しかけていた白い可能性が再び揺れる。
「一つに決めるんだ」
エルクが右手を上げると、現在側へ固定されかけた都市術式の接続点へ、別の可能性が細く伸び始めた。
『エルクが触ってる!』
レオンの警告と同時に、上空水路から雷光が走った。
「邪魔しないで!」
エルナだった。
広域雷撃は使えない。
周囲には逆さの海と無数の水滴が残っている。
それでも、エルクの指先から伸びる白い干渉線と、その周囲に水滴が存在しない一瞬の隙間を見抜くには十分だった。
「——雷光演算〈ルクシヴェリア〉」
視線の先で、干渉線が揺れる位置を読み切る。
エルクが指を動かすより先に、一本だけに絞った雷が空を抜けた。
「そこ!」
極細の雷撃が白い線だけを正確に撃ち抜く。
エルク本人を傷つけるためではない。
現在側術式へ触れようとしていた妨害だけが弾け、その周囲の水には一滴も電撃が広がらなかった。
「わ」
エルクが少し驚いた顔で手を引く。
「それ、すごいね」
「褒めてる暇があるなら大人しくしてなさい!」
言い返したエルナの指先は、連戦の反動でわずかに震えていた。それでも妨害が戻らないよう、次の一点へいつでも雷を通せる位置を保つ。
地上でも、最後の綻びが現れていた。
現在側へ固定されつつある都市術式の末端が、避難区画の入口付近で白い構造に押され、接続が切れかけている。
「ここだけは通しません!」
避難誘導を終えていたリリカは、現地学生たちと一緒にその接続部の前へ残っていた。
大きな魔法は使えない。
けれど、切れかけた術式線へ水が流れ込めば、現在側の固定そのものが外れる。
「右から水が来ます!」
「分かりました!」
リリカは床へ小さな火球を落とし、流れ込んできた水の手前だけを素早く蒸発させた。
全部を消す必要はない。
術式接続部へ触れる寸前の水だけを減らせばいい。
「左側、金具が外れます!」
現地学生が支えに入ると、リリカもすぐ接続板へ視線を移す。
熱を加えすぎれば術式そのものを傷める。
必要なのは、僅かな温度差だけだった。
「ここ、少しだけ温めます!」
初級火魔法を一点へ集め、歪みかけた金具の位置を戻す。その隙に学生たちが固定具を押し込み、青い術式線が途切れずに繋がった。
『地上側、最後の接続維持しました!』
「よし!」
リリカの報告を聞いたレオンは、都市模型へ最後の線を書き込んだ。
「現在構造、完全定義!」
その瞬間、フィナの視界に浮かんでいた青と白の境界が一気に鮮明になる。
現在の街。
今ここを流れる水。
今ここにいる人。
今ここへ繋がっている建物。
それ以外の沈没都市も、古代都市も、未来都市も、逆さに重なった複数の海も、すべて白い異物として浮かび上がった。
『フィナ! 三秒だ!』
レオンの声が響く。
同時に、ネムの静寂がさらに深まった。
北側で壁へ身体を預けていた小さな身体が大きく揺れ、周囲の魔導師がすぐ支える。それでもネムは目を閉じず、最後の力を可能性の定着へ向け続けていた。
『一秒』
世界の重なりが止まる。
『二秒』
エルナの雷がエルクの二度目の妨害を弾き、リリカたちが地上接続を守り、セレスティアの水流固定が現在側だけを青く照らす。
全部がフィナへ集まってくる。
自分一人で作った三秒ではない。
みんながそれぞれの場所で積み重ねた結果として生まれた三秒だった。
フィナは青い街と、そこへ絡みつく白い可能性を見比べた。
世界全部を元へ戻す必要はない。
どの可能性が正しくて、どれが間違いなのかを決める必要もない。
今ここにないものだけを、この街から外へ出せばいい。
『三秒!』
ネムの声が響く。
フィナは両手を大きく広げた。
「分かった!」
白く浮かぶ無数の可能性だけを見つめながら、いつもの調子で明るく息を吸う。
「じゃあ、——変なのだけ全部どかす!」
『名称が雑すぎる!』
「こんな時までそれ!?」
通信越しのレオンへエルナの声まで重なった。
『今それを気にするところじゃないでしょ! ……いや、確かに雑だけど!』
「エルナまで!?」
緊張しきっていた空気の中で、ほんの一瞬だけいつもの五人らしいやり取りが戻る。
その直後、フィナの周囲に集まった風が、青い現在には触れず、白く浮かび上がった無数の可能性だけへ静かに絡み始めた。




