第二章 20 『空に、いくつもの海がある』
エルクが無限可能界〈インフィニア・ヴァリアス〉を解放した瞬間、アクアレイアの空は一つではなくなった。
現在の街を覆っていた逆さの海の上へ、さらに別の海が重なり、その奥には海底へ沈んだ都市、古代の石造施設、見たこともないほど発展した未来都市が同時に浮かび上がる。空中水路さえ何本にも分裂し、同じ場所を別々の方向へ流れる水が透け合って、都市全体が巨大な多重映像の中へ閉じ込められたようだった。
「何これ……」
フィナの頭上では、三つの異なる海が同時に波打っている。
一つには現在の巨大海獣。
別の海にはさらに大きな影が泳ぎ、その隣では既に滅びたらしい古代都市の塔が水中から伸びていた。
しかも、そのすべてが幻ではない。
落ちてくる水滴は石畳を濡らし、重なった建物の壁は現在の家屋へ食い込みかけ、別の空中水路から溢れた水が市街へ流れ込んでくる。
「いっぱいあると、どれ見たらいいか分かんないんだけど!」
フィナが思わず声を上げると、少し離れた空中に立つエルクが楽しそうに笑った。
「全部見ればいいんじゃない?」
「無茶言わないで!」
「でも君ならできそう」
「できそうで仕事増やさないでよ!」
軽口を返した直後、右側の空間が大きく歪んだ。
戦争で崩壊した可能性の塔が、現在の広場へ倒れ込むように重なってくる。まだ完全には定着していないが、輪郭が濃くなれば避難区画まで巻き込まれる位置だった。
フィナは反射的に両手を向けた。
「そっちは来ないで!」
強い風が塔へぶつかり、現在側へ入り込もうとしていた瓦礫だけを押し返す。
だが吹き飛ばした先に、別の可能性の水路が重なっていた。
風がそこへ触れかけた瞬間、フィナは慌てて出力を絞る。
「危なっ……!」
「ね?」
エルクは面白そうに目を細めた。
「適当に消したら、今の街まで一緒に壊れるよ」
「分かってる!」
フィナは歯を食いしばりながら、目の前へ重なった景色を見比べた。
現在の塔。
沈没した塔。
戦争で折れた塔。
未来で増築された塔。
どれも同じ場所から伸びているせいで、力任せに全部まとめて吹き飛ばせば、今ここに残すべき建物まで消しかねない。
自分なら壊せる。
それが、今は解決にならない。
「じゃあ、これは?」
エルクが指先を弾いた。
今度は頭上の海から巨大海獣が二体降りてくる。
一体は現在の逆さの海から。
もう一体は、別の可能性から重なった海から。
左右に分かれた二つの巨体が、中央広場を挟み込むように落下してきた。
「増やさないで!」
フィナは風を二方向へ分け、それぞれの海獣だけを空中で止める。
現在側の一体は問題なく固定できた。
しかし、もう一体へ触れた風が途中で揺らいだ。
海獣の位置そのものが何度も変わっている。
右にいた可能性。
左へ避けた可能性。
少し高い位置に残った可能性。
それらが瞬間的に重なり、狙う場所が定まらない。
「もう!」
フィナは広げようとした風を直前で止めた。
範囲を広げれば捕まえられる。
けれど、その中には現在の水路も建物も人も入ってしまう。
その迷いを見透かすように、エルクが笑った。
「強いのに大変だね」
「誰のせいだと思ってるの!」
返した声へ、通信魔法の光が割り込んだ。
『フィナ、聞こえるか!』
「レオン!」
耳元に浮かんだ光から、聞き慣れた声が届く。
『都市全体の構造を分けた。今から識別情報を送る!』
次の瞬間、フィナの視界へ青と白の細い線が重なった。
青は現在へ連続している構造。
白は異常発生後に重なった構造。
完全に見分けられるわけではないが、少なくとも何を残さなければならないかが分かる。
「これ、レオンがやったの?」
『俺だけじゃない。セレスティアと現地技術者全員だ』
「……そっか」
『感心するのは後だ! 青には絶対触るな! 白だけを狙え!』
「分かった!」
返事をした直後、都市北側の表示が大きく揺れた。
白い線が急速に濃くなり、別の街が現在側へ入り込もうとしている。
その変化を追っていたフィナの耳へ、今度は弱い通信が届いた。
『フィナ』
「ネム?」
声がいつも以上に小さい。
『今、遅くしてる』
北側で《可能性重層》の定着を抑えていたネムは、もう立っているのも苦しいはずだった。それでも通信越しに聞こえる声には、無理を隠そうとする気配がなかった。
『全部は無理。でも、少しなら』
「無理しないでね!」
『無理してる』
「してるんだ!?」
『でも、守ってもらってるから平気』
その返事に、フィナは一瞬だけ言葉を失った。
ネムの周囲では現地魔導師たちが守りについている。
自分一人で全部抱えず、助けを求めながら、自分にしかできない部分だけを続けている。
少し前までの自分とは違う。
「……うん。お願い」
『うん』
通信が切れた直後、別の報告が重なる。
『西側避難区画、避難完了しました!』
リリカの声だった。
『最後の列まで安全区画へ入りました! 現地学生のみなさんも一緒です!』
「リリカ!」
『フィナ師匠、そっちはお願いします!』
その向こうで聞こえる声は疲れている。
それでも、やるべきことを終えた強さがあった。
続いて空中水路側から、エルナの通信が入る。
『高架避難路も空けたわ! 小型海獣はこっちで押さえる!』
「エルナ、大丈夫?」
『指がちょっと痺れてるだけ! そっちのデカいのよりマシよ!』
「比べるもの違わない!?」
『いいから集中しなさい!』
通信が切れたあと、フィナは無意識に笑っていた。
レオンが区別する。
ネムが変化を遅らせる。
リリカが地上を空ける。
エルナが空中避難路を守る。
四人が別々の場所でやっていたことが、今ここで一つにつながっている。
「みんな、ちゃんとやってる」
フィナの視線が、再び無数の都市へ向く。
現在。
沈没都市。
古代都市。
廃墟。
未来都市。
いくつもの海。
いくつもの道。
それでも今なら、残すべきものの輪郭だけは見失わない。
エルクはそんなフィナを眺めながら、少し不思議そうに首を傾けた。
「一人じゃない方が、強いんだ?」
「うん」
今度は迷わなかった。
「たぶんね」
その答えを聞いたエルクが両腕を広げると、無限可能界〈インフィニア・ヴァリアス〉がさらに膨張した。
複数の逆さの海が互いへ食い込み、都市全体の境界が急激に曖昧になっていく。
『まずい!』
レオンの声が響く。
『白側の構造が一気に現在へ定着し始めた! このままじゃ識別線そのものが潰れる!』
「どれくらい持つ?」
『今のままじゃ数秒もない!』
フィナは頭上の海を見上げた。
何をするべきかは分かっている。
けれど、まだ動けない。
白だけをまとめて外すには、現在との境界が完全に固定される一瞬が必要だった。
『フィナ!』
レオンの声が一段強くなる。
『三秒だけ作る!』
通信の向こうで、別の小さな声が重なった。
『三秒なら、止められる』
「ネム……!」
『大丈夫。三秒だけ』
フィナは目を閉じず、仲間たちの声を聞いたまま息を整えた。
レオンが境界を作る。
ネムが世界の変化を止める。
リリカとエルナが守るべき人と道を空けてくれている。
なら、自分がやることは一つだけだった。
「分かった」
フィナの周囲へ風が集まり始める。
けれど今度は焦りに反応したものではない。
残すものと、どかすものをはっきりと見定めた上で、自分の意思だけで呼び出した風だった。
無数の可能性がアクアレイアを飲み込もうとする中、フィナは四人が作る三秒を信じ、最後の魔法へ踏み込むために両手をゆっくりと上げた。




