第二章 19 『他の世界なら助かってるよ』
逆さの海を見上げていたフィナの視界で、空の景色がまた揺らいだ。
青い水塊の向こうへ沈没した街並みが透けたかと思えば、その隣には見たこともないほど高い塔が並ぶアクアレイアが重なる。
崩れた橋、海だけが広がる空白、古い石造都市までが同じ場所へ現れては薄れ、今いる街の輪郭を何重にも覆っていた。
「こんなに……」
レオンから届いた情報で、別のアクアレイアが複数重なっていることは聞いていた。
それでも実際に目の前へ並べられると、数える気にもなれない。
その中を歩くように、一人の少年が空から降りてきた。
「——やっぱりここにいた」
淡水色と銀色の中間の髪を揺らし、エルク・ノーティアは空中に重なった足場へ軽く降りる。
少年のような顔には迷宮で見たときと変わらない笑みがあり、都市が崩れかけている状況すら珍しい景色を眺めるように見回していた。
「エルク」
「うん。フィナ」
名前を呼び返す声音に、敵意はほとんどない。
それがかえってフィナには理解しづらかった。
「もうやめて」
「どうして?」
返ってきた問いには、本当に理由が分からないという響きがあった。
フィナは一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから眼下の街へ手を向ける。
「街がこんなことになってるからだよ! みんな避難してるし、海獣まで落ちてきてるし!」
「でも、全員が困ってるわけじゃないよ」
エルクが指先を軽く振ると、フィナの右側へ別の街が重なった。
そこでは逆さの海など存在せず、空中水路を魔導船が静かに進み、市民たちが普通に買い物をしている。
少し離れた場所では、今まさに避難しているはずの人とよく似た姿が笑いながら家族と歩いていた。
「こっちでは何も起きてない」
「でも、それは今の街じゃないでしょ」
「そうだね」
エルクはあっさり認めた。
「だから面白いんだよ」
笑顔のまま、今度は左手を向ける。
別の景色が現れた。
崩れた建物の下に人影が倒れている。
フィナの胸が強く縮んだ直後、そのすぐ隣へ同じ人物が無傷で歩いている可能性が重なった。
「この人、こっちでは死んでる」
「……」
「でも、こっちでは生きてるよ」
エルクは二つの姿を見比べながら、何でもないことのように続ける。
「逆もある。今ここで助かった人が、別の可能性では死んでることもある」
フィナは答えられなかった。
「街も同じだよ」
周囲の景色が次々と変わる。
戦争で焼けたアクアレイア。
海へ沈んだアクアレイア。
何百年も発展を続けたらしい巨大都市。
そもそも人工島すら建設されず、青い海だけが広がっている場所。
「壊れた街があっても、壊れてない街もある。ここで失敗しても、別のところでは成功してるかもしれない」
エルクは悪びれもせず、むしろ不思議そうにフィナへ首を傾けた。
「だったら、どうして一つだけそんなに大事にするの?」
「それは……」
反論しようとして、フィナは口を閉じた。
理屈を考えてみる。
もし本当に、助かった世界が存在するなら。
死ななかった人がいて、壊れなかった街があり、もっと幸福な結果がどこかにあるなら。
それを全部間違いだと言う理由を、フィナは知らない。
「レオンなら、もっと上手に説明できるかもしれないけど……」
「レオンは今、街の術式を調べてるね」
「知ってるんだ」
「見えるから」
エルクは楽しそうに笑う。
その笑顔を見ながら、フィナは眉を寄せた。
「でも、レオンが何を言うかじゃなくて、君がどう思うかを聞きたい」
「私?」
「うん」
エルクの左右へ、さらに幾つものフィナが重なって見えた。
迷宮へ来なかったフィナ。
アクアレイアへ来る途中らしいフィナ。
見知らぬ場所で一人立っているフィナ。
どれも一瞬で薄れていき、今ここにいる自分だけが残る。
「君なら、もっといろんな世界を作れそうなのに」
「作るって……」
「嫌な結果が出たら、別の結果を選べばいいんじゃない?」
その言葉に、フィナはすぐ答えられなかった。
できるのかもしれない。
自分の魔法がどこまでできるのか、自分自身でもまだ分かっていない。
けれど、その考えに胸がざわついた。
眼下から泣き声が聞こえた。
避難途中で家族とはぐれたのか、幼い子供を現地魔導師が抱き上げ、安全区画へ連れていくところだった。別の通りでは水浸しになった市民たちが互いの手を引き、倒れた荷物をその場へ置いて先へ進んでいる。
誰も、別の世界を見ていない。
今、この場所で必死に動いている。
「……分かんない」
フィナの返事に、エルクが少しだけ目を丸くした。
「何が?」
「エルクの言ってること、全部間違ってるって言えるほど、私そういうの詳しくない」
可能性。
別の世界。
今とは違う結果。
そんなものを理論的に説明できる知識はなかった。
「他にもっといい世界があるのかもしれない」
「うん」
エルクは嬉しそうに頷く。
けれどフィナは、そこで言葉を終わらせなかった。
「でも私がいるのはここだよ」
エルクの笑みが僅かに止まった。
「ここ?」
「うん」
フィナは足元の広場を指した。
「今、私が立ってるところ」
さらに、その先へ視線を向ける。
「ここで泣いてる人がいるなら、私はこっちを助ける」
「別の世界では笑ってても?」
「それでも」
「こっちで助からなくても、別のところでは助かるかもしれないよ?」
「それでもだよ」
フィナ自身、どうしてここまで言い切れるのかをきれいには説明できなかった。
ただ、目の前で泣いている人を見ながら「別の場所では笑っているから大丈夫」と思うことだけはできなかった。
「だって、その人が今泣いてるのはここだから」
視線を上げる。
「私がいるのもここだし」
レオンも。
ネムも。
リリカも。
エルナも。
今、このアクアレイアで動いている。
「他の世界に私の仲間がいるとしても、私が一緒にいるのは今の四人だよ」
「……同じ人なのに?」
「同じじゃないよ」
今度だけは、すぐ言えた。
「私と一緒に学院で写真撮ったのは、今ここにいるみんなだから」
少しだけ自分でもおかしくなって、フィナの口元が緩む。
「あの写真、レオンとエルナが言い争ってて、リリカが変に感動してて、ネムが寝てたんだよ?」
「もっと綺麗に撮れた可能性もあるんじゃない?」
「あるかも」
「そっちの方がいい写真かもしれない」
「でも、私はあれが好き」
エルクから笑顔が消えた。
怒ったわけではない。
悲しんだわけでもない。
ただ、本当に分からないものへ出会ったように、左右で色の違う瞳がフィナを見つめている。
「……どうして?」
「一つしかないから、かな」
自分でも曖昧な答えだった。
それでもフィナは笑った。
「失敗したのも、変だったのも、全部そのときの私たちだから」
周囲では無数のアクアレイアが浮かんでは消えている。
どれほど素晴らしい街が存在しても、フィナが選ぶべきものは目の前にあった。
エルクはしばらく黙っていた。
やがて理解できない表情のまま、それでも少しだけ楽しそうに口元を持ち上げる。
「やっぱりフィナって変だね」
「エルクに言われたくないよ」
「うん。だから、もっと見たくなった」
その瞬間、周囲に重なっていた可能性の都市が一斉に揺れた。
沈没都市も、古代都市も、廃墟も、未来都市も、空白の海も、薄れるどころか輪郭を急激に濃くしていく。
フィナはすぐ身構えた。
「何する気?」
エルクは両腕をゆっくり広げ、無邪気な笑みを取り戻した。
「じゃあ、君が選んだ一つを守れるか試してみよう——無限可能界〈インフィニア・ヴァリアス〉」
エルクの周囲から膨れ上がった《可能性重層》が、都市全域を包むように拡大する。
無数の可能性が同時に現在へ押し寄せ、どの街が本物なのかさえ塗り潰そうとする中、無限可能界〈インフィニア・ヴァリアス〉が最大出力でアクアレイアを覆い始めた。




