第二章 18 『何でもできても、一人じゃ足りない』
中央海域で巨大海獣を風に固定したまま、フィナは広場の端へ視線を走らせた。
上空の逆さの海からは今も水滴が降り続け、建物の屋根や石畳を絶え間なく叩いている。中央の海獣は抑えられているものの、その向こうでは別の小型海獣が水塊から抜け出し、さらに西側の高架水路では透明な壁面が大きく歪み始めていた。
「また……!」
風の拘束を残したまま、フィナは西側へ片手を向けた。
「水、こっち来ないで!」
亀裂から噴き出しかけた水が途中で進路を変え、建物の外壁を避けながら空いている排水路へ流れ込んでいく。避難していた市民が水に巻き込まれずに済んだことを確かめると、今度は頭上から悲鳴が届いた。
空中水路の保守足場から、一人の魔導師が滑り落ちている。
「待って!」
地面へ届く前に柔らかな風で受け止め、そのまま近くの屋根へ降ろす。
安心する暇もなく、背後で大きな音が響いた。
中央広場の反対側では、逆さの海から落ちた船の残骸が建物へ向かっている。
「そっちも!」
今度は風で残骸だけを持ち上げ、人気のない空き地へ移動させる。巨大海獣の固定、西側の水流、落下物の制御を同時に維持するうち、フィナの視線は休む間もなく都市中を往復していた。
「まだある……」
救助警報が別方向から上がる。
北東区画。
今度は建物の一部が別の形へ重なり、避難路へ壁が出現しかけているらしい。
フィナは一歩踏み出したところで足を止めた。
レオンは都市術式中枢。
ネムは可能性異常の感知と抑制。
リリカは避難。
エルナは空中海域。
分かれて対応していることは知っている。
それでも、自分ならもっと早く行けるという思いが、胸の奥から消えてくれなかった。
「私が行けば……」
フィナは北東へ向けて風を起こしかけた。
その瞬間、中央の巨大海獣が拘束の中で大きく身体を捻る。
「っ!」
意識を戻し、風圧を強める。
海獣だけを押さえ直せたものの、今度は広場の水滴まで一瞬だけ横へ流れた。
フィナの表情が固まる。
「今の……」
普段なら間違えない。
人だけ。
魔物だけ。
水だけ。
必要なものを選び、それ以外には触れない。
それができるはずなのに、ほんの少しだけ範囲がぶれた。
「落ち着いて……」
自分へ言い聞かせながら、呼吸を整えようとする。
しかし、その間にも遠くで新しい警報が鳴った。
港湾区。
南側居住区。
迷宮入口周辺。
都市のあちこちから助けを求める音が重なってくる。
「もっと速くできるはずなのに」
焦りが言葉になった瞬間、足元の水溜まりが震えた。
風は起こしていない。
それなのにフィナの周囲だけ、細かな水滴が石畳からゆっくり浮き上がっていく。
「……え?」
広場へ降っていた雨まで、ほんの一瞬だけフィナの周囲で軌道を変えた。
髪が風に揺れる。
けれど、その風を自分で出した覚えはない。
胸の中の焦りへ呼応するように、水と空気が勝手に動いている。
「違う。止まって」
フィナが小さく告げると、浮いていた水滴はすぐ石畳へ落ちた。
それでも胸の奥に残った違和感までは消えない。
もっと。
早く。
全部。
その思いが強くなるほど、周囲の魔力までこちらへ寄ってくるような感覚があった。
「フィナ!」
聞き慣れた声ではなかった。
振り向くと、セレスティアが中央広場へ駆け込んでくる。都市中枢から戻ってきたのか、制服の裾は濡れ、片手には携帯端末を握ったままだった。
「何をしているんですか!」
「何って……助けてる!」
「見れば分かります!」
珍しく強い声を返しながら、セレスティアはフィナの周囲へ浮き残っていた水滴を見た。
「ですが、そのまま続けたらあなたまで制御を失います!」
「失わないよ!」
反射的に返した声が、自分でも驚くほど強くなった。
「私ならできるから! もっと速くやれば、もっと助けられる!」
言いながら、視線は次の異常を探してしまう。
西。
北。
上空。
中央。
全部見なければいけない気がした。
「フィナ!」
セレスティアは逃げる視線を止めるように、真正面へ立った。
「街を見てください」
「見てるよ!」
「違います。異常ではなく、人を見てください」
その言葉に、フィナの視線が止まる。
広場の端では、現地魔導師たちが避難区画へ防壁を張っていた。
少し離れた通りでは冒険者たちが流れてきた瓦礫を片付け、市民が通れる道を作っている。
建物の入口では、住民同士が子供や高齢者へ肩を貸し、濡れた荷物を捨ててでも人を先へ通していた。
誰も、フィナが来るまで何もしないで待ってはいなかった。
「港湾区では魔導師が船を固定しています。西側では住民と技術者が排水路を開けています。北側はあなたのお仲間が異常を止めてくれています」
セレスティアの声はまだ強かったが、責める響きはなかった。
「みんな、動いてる……」
「当然です」
セレスティアは濡れた前髪をかき上げながら、逆さの海を見上げた。
「ここは私たちの国です」
その一言に、フィナは何も返せなかった。
「助けてもらうことを拒むつもりはありません。あなたの力が必要なことも、もう分かっています」
セレスティアはもう一度フィナへ向き直った。
「でも、だからといって、全部をあなたへ渡すつもりもありません」
遠くで水の壁が持ち上がり、流れ込んできた水を現地魔導師たちが別の路地へ誘導している。
フィナが手を出す前に、一つの異常が処理された。
「あなたは何でもできます」
セレスティアの言葉に、フィナの指先が僅かに動いた。
「ですが、あなた一人ですべてを支える必要はありません」
胸の奥に溜まっていた焦りが、その言葉で一瞬だけ止まった。
何でもできる。
だから、全部やらなければいけない。
いつの間にか、その二つを同じ意味にしていた。
けれど、最初から一人ではなかった。
巨大海獣を任せると言って走っていったレオン。
空中の細かな敵を引き受けたエルナ。
避難路へ向かったリリカ。
疲れていても異常を探しに行ったネム。
四人とも、自分の役割を選んで別の場所へ向かった。
「……そっか」
フィナはゆっくり息を吐いた。
周囲で揺れていた風が静まり、雨粒も自然な軌道へ戻っていく。
全部を見る必要はない。
全部に手を伸ばす必要もない。
自分にしかできないことは確かにある。
なら、そこだけは絶対にやればいい。
「セレスティア」
「はい」
「私が行かないと無理な場所、分かる?」
問いかけられたセレスティアは、一瞬だけ驚いたあと、すぐ携帯端末へ視線を落とした。
「中央海域の巨大海獣。それと、逆さの海そのものに関わる異常です。通常術式では対応できません」
「じゃあ、そこやる」
フィナの声から、さっきまでの焦りは消えていた。
中央の巨大海獣はまだ風の中で暴れている。
その奥では、逆さの海がゆっくりと形を変え続けている。
普通の魔導師では触れない領域。
そこなら、自分の役目だ。
「他はお願いしていい?」
セレスティアは迷わず頷いた。
「任せてください」
フィナは一度だけ広場全体を見渡した。
現地魔導師も、冒険者も、市民も、それぞれが自分にできることをしている。
そして、そのどこかでは仲間たちも動いている。
「じゃあ、私にしかできないところをやる」
そう決めた瞬間、フィナの視線はようやく一つの場所へ定まった。
無数の異常をすべて追いかけるのではなく、誰にも代われない役割だけを引き受けるために、フィナは逆さの海の中心へ向き直った。




