第一章 5 『ほんの少しの火球』
属性適性検査を終えたフィナは、レオンの案内で学院奥の実技試験場へ移動した。
半円形の観覧席に囲まれた広い訓練場では、先に筆記を終えた受験生たちが順番に魔法を披露している。石床の中央には人の背丈ほどの固定標的が並び、その奥では円盤型の移動標的が一定の速さで左右へ滑っていた。
「火よ、集え――火球!」
受験生の一人が杖を振ると、拳ほどの炎が標的へ飛んだ。
火球は中央からわずかに外れて当たり、木製の表面へ黒い焦げ跡を残す。試験官が結果を記録し、周囲から小さな拍手が起きた。
「普通の初級火魔法って、あれくらいなんだね」
「普通という言葉の意味を、今のうちによく覚えておけ」
「どうして私を見ながら言うの?」
「二日前、普通の小さな火を出すつもりで魔物と岩壁をまとめて消しかけた者がいるからだ」
「消しかけたんじゃなくて、魔物は倒せたよ」
「岩壁の方を問題にしている」
フィナは遠い目で試験場の標的を見つめた。
草原で初めて火を出したときは、助けたい一心で加減まで考える余裕がなかった。今回は魔物もおらず、誰かの命が危険なわけでもない。求められているのは、初級火魔法を標的へ当てることだけだ。
「大丈夫。今日は本当に弱くするから」
「その宣言が不安を増やしている」
「えぇ!? 反省してるのに!?」
「反省と制御技術は別だ」
即座に返され、フィナは頬を膨らませた。
それでも、レオンの言葉が意地悪だけではないことは分かり始めていた。知らないことを細かく説明してくれるし、危険だと思えば先に止めてくれる。
少し細かすぎる気もするが、この世界の常識を知らないフィナには頼れる相手だった。
やがて名前を呼ばれ、フィナは試験区画の白線まで進んだ。
正面には五つの円形標的が浮かんでいる。高さも移動方向も異なり、右端は上下、中央は斜め、左側の二つは互いに交差する軌道を描いていた。
「課題は、五つの移動標的すべての中央へ、初級火魔法を命中させることです」
「一個ずつ撃ってもいいんですか?」
「制限時間内であれば構いません。ただし、外縁を大きく破損させた場合は減点となります」
「中央だけですね。壊さず、ちょっと当てるだけ」
確認するように繰り返すと、試験官がわずかに首を傾げた。
「表面へ焦げ跡を残せば十分です」
「焦げ跡……」
フィナは五つの標的を順番に見た。
一個ずつ火球を出せば、五回も加減を間違える可能性がある。それなら、一つだけ作って途中で五つに分けた方が安全かもしれない。
小さな火を、もっと小さく分けるのだから、きっと弱くなる。
「よし。それなら大丈夫そう」
「今、何を大丈夫だと判断した?」
記録席にいたレオンが、嫌な予感を察したように顔を上げた。
「一個を五個に分けるの。小さくなるから安全でしょ?」
「待て。普通の初級火魔法に分裂機能は――」
「小さい火!」
フィナの掌の前に、親指の先ほどの火球が生まれた。
詠唱も杖もなく、魔法陣さえ現れない。だが、見た目だけなら、先ほどの受験生が放った火球より遥かに小さく、熱もほとんど感じられなかった。
試験官の張り詰めていた肩が、ほんの少し下がる。
「これなら、本当に小さいですね」
「見た目だけで安心しない方がいい」
「レオン、信用なさすぎない?」
「昨日会ったばかりの相手へ、既に測定器一台分の不信材料がある」
「今回はひびも入ってないよ!」
「基準が壊れている」
フィナは口を尖らせながら、動き続ける標的へ意識を戻した。
五つ全部の真ん中。外側は残す。後ろの壁にも床にも当てない。必要なのは、中央の小さな丸だけだ。
「行って」
火球が音もなく飛び出した。
正面へ進んだ直後、その炎が空中で五つに分かれる。親指ほどだった火球は豆粒より小さくなり、それぞれが別の標的へ向けて軌道を変えた。
一つは急上昇し、上下する標的を追う。
一つは床すれすれまで下降してから跳ね上がり、斜めに動く標的の前へ回り込む。残る三つは交差する標的同士の隙間を縫い、互いに接触することなく別々の角度から中央へ吸い込まれた。
五つの火が、まったく同時に標的へ触れる。
爆発音も、燃え広がる炎もなかった。
標的の中央だけが、硬貨ほどの円形に消えていた。
切り抜かれたような穴の外側には焦げ跡さえなく、移動機構は何事もなかったように動き続けている。背後の壁にも床にも、熱や衝撃が届いた形跡は一つもなかった。
訓練場から音が消えた。
次の試験を待っていた受験生も、記録板を持つ試験官も、補助席のレオンも、そろって穴の空いた標的を見つめている。
フィナは五つを見比べ、満足そうに笑った。
「やった! 今回は何も壊してない!」
「標的の中央が消えている」
「そこは当てる場所だったよね?」
「焦がせと言われた。消せとは言われていない」
「でも、外側は無事だよ? 壁にも当たってないし」
「そういう問題だけではない」
レオンが眉間へ指を当てる。
フィナは首を傾げた。魔物を倒したときのように岩壁を抉っていないし、検査器も止まっていない。むしろ、かなり上手にできたと思っている。
「今回はちゃんと弱くできたよね?」
「威力より、実行している制御の方が異常だ!」
「えぇ!? 壊してないのに、どうして怒られるの!?」
「標的を五つ同時に追尾し、中央だけを選んで消し、余波を完全に遮断した。初級火魔法へ勝手にどれだけ機能を追加した!」
「勝手にって言われても、真ん中へ当たってって思っただけだよ!」
「それだけで成立するのがおかしいと言っている!」
レオンの声が訓練場へ響き、観覧席の受験生たちがそろってフィナから半歩離れた。
その反応に気づいたフィナは、少しだけ笑顔を弱める。怖がらせるつもりはなかった。ただ、今度こそ迷惑を掛けないようにしたかっただけだ。
レオンはその表情を一瞬だけ見て、声の調子を抑えた。
「……少なくとも、周囲へ被害を出さなかった判断は正しい」
「本当?」
「ああ。ただし、普通ではない」
「そこは絶対に付けるんだね」
「必要だからな」
短いやり取りの後、フィナの口元へもう一度笑みが戻った。
試験官たちは協議し、通常標的では強度不足と判断した。
運び込まれたのは、神話級魔物の素材を混ぜて作られた黒い試験標的だった。学院でも高位魔法の耐久試験に使うもので、表面には幾重もの耐熱術式が刻まれている。
「今度はこちらへ、先ほどと同じ初級火魔法を使用してください」
「もっと弱くした方がいいですか?」
「同じで構いません」
「本当に?」
「なぜ受験者の方が心配しているんだ」
レオンの呟きに、フィナは小声で返す。
「だって、また何か言われそうだし」
「言う。何が起きても記録する役目だからな」
「先に宣言された!」
それでも、レオンが結界を展開するのを待ってから、フィナは黒い標的へ掌を向けた。
「さっきと同じ、小さい火」
豆粒ほどの火球が生まれ、真っ直ぐ標的へ飛ぶ。
耐熱術式が光るより早く、火球は表面へ触れた。
次の瞬間、黒い標的だけが跡形もなく消えた。
支えていた金属製の固定台は残っている。床にも傷はなく、標的の背後にある壁も冷たいままだった。失われたのは、試験対象として指定された部分だけだった。
「……今度は全部なくなったね」
「なぜ他人事なんだ」
「同じ火を使ってって言われたから」
「同じなのは火球の見た目だけだ」
レオンは測定札と記録板を交互に確認した。
「無詠唱。発動前の魔力収束なし。術式陣なし。さっきは多重分裂、自動追尾、対象選択、余波遮断。今回は神話級素材の耐性だけを無視して、固定台と床を除外した」
「細かく言われると、すごいことをした気がしてくるね」
「今まで何をしたと思っていた?」
「小さい火を当てた」
「認識の差が深刻すぎる」
しかも、どれほど調べてもフィナの魔法には現代魔法の術式構造が見つからなかった。
命令式も魔力経路もない。ただフィナが「標的へ当てる」と考えた結果だけが、現実へ現れているように見える。
レオンは記録板へ書き込む手を止め、初めて見る異常を前に目を細めた。
実技試験後、学院側の判断は早かった。
身元と魔法の詳細は引き続き調査する。しかし、王都の外へ戻すより、学院内で学ばせながら安全な使用法を確認する方がよい。
筆記成績には大きな問題があったものの、それを含めて教育が必要だと結論づけられた。
——フィナ・アウセリアの特例入学が決定した。
「入学できるの!?」
「ただし、使用した魔法は学院の記録へ登録する必要がある」
レオンが説明すると、フィナの喜びに満ちた顔がわずかに曇る。
「登録って、長い名前を付けるの?」
「識別できる正式名称は必要だ」
「大きい火とか、小さい火じゃ駄目?」
「今日使ったものを『小さい火』で登録すれば、後世の人間が泣く」
「そんなに!?」
入学決定を喜ぶ暇もなく、フィナは早くも、自分の魔法へ付けられる長い名前と向き合うことになった。




