第二章 16 『世界を静かにして』
北側居住区へ入ったネムの前で、避難路になっていた通りの景色がゆっくりと崩れ始めた。
白い石造りの家屋へ、古びた灰色の施設が透けるように重なり、その輪郭が揺れるたびに窓や入口の位置まで変わっていく。少し先では、本来なら安全区画へ続くはずの道へ高い壁が現れ、消えた直後には今度は細い水路が同じ場所を横切っていた。
「また、増えた」
枕型魔導具を抱え直しながら、ネムは足元から通りの奥まで視線を滑らせた。
迷宮で感じた異常と同じだった。ただし、今は一つの構造が重なっているだけではない。建物も道も水路も、それぞれ別の形になろうとしては消え、次の可能性へ入れ替わり続けている。
「ネムさん、この道は通れますか!?」
避難誘導を続けていた現地魔導師が、足を止めた市民たちを庇う位置から問いかけてくる。
「今なら」
「今なら……?」
「長くは無理」
その意味を確かめるより先に、通りの右側で二階建ての住居が薄くなった。
壁の向こうへ別の家屋が浮かび上がり、避難列のすぐ脇で二つの建物が同じ位置を奪い合うように揺れている。住民の一人が思わず後ろへ下がりかけたところを、魔導師がすぐ肩を支えた。
「止まらず進んでください! こちらで道を確保します!」
人の列が再び動き始める一方で、ネムには別のものが聞こえていた。
耳に届く音ではない。
魔力の流れとも少し違う。
道が別の道へ変わろうとするたび、建物が違う形へ移ろうとするたび、その奥で何かが忙しく選び直されている。その落ち着かない揺れが、頭の中へ直接響いてくるようだった。
「うるさい」
迷宮では魔力そのものを静めた。
けれど今、目の前で暴れているのは魔法だけではない。
別の可能性がこの場所へ重なり、こちらの景色として定着しようとしている。その変化の途中へ触れられないかと、ネムは静寂の魔力を通りへ薄く広げていった。
「変わるの、静かにして」
淡い魔力が石畳を這うように伸びていく。
周囲の水音や足音が一瞬だけ遠のき、それと重なるように、消えかけていた家屋の輪郭もゆっくりと安定していった。灰色の施設は完全には消えなかったが、こちら側へ出てくる速度だけが目に見えて鈍くなる。
「建物が……止まった?」
現地魔導師の驚いた声に、ネムは揺れる輪郭から目を離さないまま首を僅かに横へ振った。
「戻してない。遅くしただけ」
その違いを口にしただけで、額へ汗が滲んだ。
音を消すときより重い。
魔力の流れを弱めるときよりも、ずっと深いところへ力を伸ばしている感覚がある。
「避難、今ならできる」
「分かりました! 全員、このまま右側を進んでください!」
魔導師たちがすぐ列を動かし、子供や高齢者を内側へ寄せながら通り抜けさせていく。
ネムはその流れを確認しながら、静寂を広げすぎないよう意識を絞った。
避難者が通る道。
人がまだ残っている建物。
その二つだけを優先し、遠くで重なっている別の水路や路地までは追わない。
全部へ手を伸ばした瞬間、自分が先に動けなくなることはもう分かっていた。
「この辺だけなら……まだ」
通りの揺れが少しだけ落ち着く。
だが、避難列の半分ほどが抜けたところで、前方の空間が再び大きく歪んだ。
何もなかった石畳の中央へ、古い巨大石柱が半透明のまま浮かび上がり、そのまま現在の通りへ入り込もうとしている。
「前方に異常!」
現地魔導師たちが即座に市民を止める。
「ネムさん、あれを消せますか?」
「消せない」
返事と同時に、石柱の輪郭へ意識を集中させる。
「でも、遅くする」
静寂をさらに深くすると、石柱が濃くなる速度が目に見えて落ちた。
完全に現れることも、元へ戻ることもできず、半透明の状態でその場へ留まる。
「左側に隙間があります! 一人ずつ通してください!」
魔導師たちが石柱と建物の間へ避難者を誘導し、狭い通路を順番に抜けさせていく。
その様子を支え続けるうちに、ネムの呼吸は少しずつ浅くなっていった。指先の震えは枕型魔導具を抱える腕まで広がり、膝にも力が入りにくくなる。
それでも、静寂を切れば石柱はすぐに定着する。
もう少しだけ。
そう思いかけたところで、近くにいた魔導師がネムの顔色へ気づいた。
「ネムさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない」
迷わず返したことで、逆に魔導師の方が一瞬言葉を失った。
ネムは石柱から意識を外さないまま、呼吸を整えるように一度だけ息を吸った。
「ネム、ここから動けない。魔物来たら無理」
「分かりました」
「守って」
その一言で、現地魔導師たちの配置が変わった。
二人がネムの前へ出て防壁を張り、残る者たちは避難列の左右へ移る。静寂を維持するネムを中心に置き、その外側を自分たちが守る形へ切り替えた。
「こちらは任せてください。ネムさんは道を維持してください」
「うん」
直後、横道の水溜まりから小型海魔物が二体飛び出してきた。
ネムにはそちらへ力を回す余裕がない。
けれど、前へ出ていた魔導師が水の障壁で進路を塞ぎ、別の一人が横から水流を当てて、人のいない路地へまとめて押し戻した。
「避難を続けてください!」
守ってもらっている。
その事実を確かめるように一度だけ魔導師たちへ目を向けたあと、ネムは再び通り全体へ意識を戻した。
自分が全部やる必要はない。
今の役目は戦うことではなく、道を道のまま残すことだった。
「もう少し……静かにして」
声は小さくなっていたが、魔力は途切れなかった。
足元へ現れかけていた別の水路が途中で止まり、建物の輪郭も揺れながら同じ位置を保ち始める。
そこでネムは、ようやく自分が何を抑えているのかを少しだけ掴んだ。
音ではない。
魔力そのものでもない。
別の可能性がこの場所へ入り込み、「こちらが現在だ」と決まっていくまでの働き。
その速さだけを、静寂が押さえ込んでいる。
「……これ、重い」
珍しく漏れた弱音に、近くの魔導師が心配そうに振り返った。
「あとどれくらい保てそうですか?」
残っている魔力と、通りの揺れを確かめながら、ネムは少し考えた。
「三分くらい」
「三分あれば十分です!」
魔導師がすぐ通信具を取り出す。
「北側居住区より都市術式中枢へ! 可能性異常の変化速度が低下! この区画は推定三分、構造を維持できます!」
報告が送られていく間にも、最後尾の市民たちが石柱の脇を抜けていった。
「全員通過しました!」
その言葉に肩の力が抜けかけたものの、ネムは静寂を解かなかった。
「まだ残す」
「避難は終わりましたよ?」
「レオンが見る時間、いる」
迷宮でも、レオンは変わり続ける構造を追いかけていた。
もし今だけ異常が同じ形を保てるなら、きっと役に立つ。
壁際へ背を預けながら、ネムは残った力を通りへ流し続けた。
視界の端は少し霞み、腕も重い。
それでも建物は消えず、重なった石柱も途中の形で止まり、避難路は一本の道として残っている。
数分だけでも、世界が次の可能性へ移るのを遅らせられる。
その頃、都市術式中枢では、変化するたび形を失っていた解析表示が初めて同じ状態を保っていた。
ネムが作った短い安定時間によって、追いかけることしかできなかった異常が、その場へ留まる。
レオンが《可能性重層》の構造そのものへ手をかけるための、最初の足場がようやく生まれていた。




