第二章 15 『雷を、一滴の隙間へ』
アクアレイア上空では、空中水路と逆さの海が互い違いに重なり、その間を無数の水滴が雨よりも複雑な軌道で落ち続けていた。
高架避難路の脇に設けられた保守足場へ駆け上がったエルナは、濡れた前髪を払う間も惜しみ、まず頭上と足元を見比べた。
下では避難中の市民が長い列を作り、右手には透明な水路、左手には建物同士をつなぐ避難橋が伸びている。その真上へ、逆さの海から小型海獣の群れが降り始めていた。
「……本当に、雷使いに優しくない国ね」
指先へ集めかけた雷を、エルナは途中で消した。
普段なら一撃で片付けられる相手だった。だが今は、海獣の濡れた鱗から空中の水滴へ、そこから水路や石畳へ電撃が伝わる可能性があり、その先には避難中の市民がいる。
「広げたら終わり。なら、広げなければいいだけでしょ」
エルナは最初の一体へ狙いを定めた。
魚に似た海獣が、長い尾で空中の水を蹴りながら降下してくる。真正面には避難橋があり、このままなら数秒後には人の列へ突っ込む。
それでも、すぐには撃たない。
海獣が尾を左へ振る。その反動でひれが傾き、巨体がわずかに右へ流れた。
エルナの指先が、その瞬間だけ動いた。
「そこ!」
針のように細い雷光が、水滴の間を一直線に抜けた。
狙ったのは胴体ではなく、姿勢を立て直すために開いた右ひれの付け根だった。雷が一点だけを射抜くと、海獣の身体は自分の勢いに引かれるように傾き、避難橋から外れて人気のない屋根へ落ちていく。
エルナは着地点を確認するより早く、次の二体へ視線を移していた。
「一体ずつなら、どうってことないわ」
上下に並んで降りてくる二体の間には、太い水の帯が横切っていた。
上側へそのまま撃てば、水を伝って下側へ雷が流れる。その先には、まだ市民がいる。
エルナは二体を直接狙わず、足元の金属板へごく弱い雷を一度だけ落とした。
ぱち、と短い光が弾ける。
下側の海獣が反応して顔を向けた。その一瞬で姿勢が崩れ、上下に重なっていた二体の軌道がずれる。
「今なら分かれる!」
一発目は上側の眼前。
直撃させず、雷光だけを見せて頭を逸らさせる。
身体が回ったことで、ひれの関節が水の帯から外へ出た。
そこへ二発目が入る。
極細の雷が一点だけを貫き、海獣は避難路とは反対側へ姿勢を崩した。
「あと一体!」
残った一体は、すでに市街側から外れ始めている。
無理に倒す必要はなかった。人のいる場所から遠ざければ、それで十分だ。
保守足場の下では、避難誘導をしていた現地魔導師が驚いた顔で見上げていた。
「雷が、水へ広がっていない……?」
「広げてないのよ!」
エルナは頭上から視線を外さないまま返す。
「こっちはまだ通行止めにしないで! 私が上を空けるから、そのまま避難を続けて!」
「分かりました!」
返事と同時に、下の市民列が再び動き始めた。
そこへ新たな三体が、逆さの海から飛び出してくる。
一体は左。一体は右。
中央の一体だけは、落ちてくる水滴の間を細かく縫いながら進路を変えていた。
「面倒なのがいるわね」
エルナの口元に、むしろ楽しむような笑みが浮かんだ。
左の一体が避難路へ寄る。
まず尾の根元だけを細い雷で痺れさせ、方向を外へずらす。
その雷を見た右の一体が反射的に進路を変えた。
エルナはそちらへ杖を振り直さない。
相手が逃げ込む先へ、先に細い雷光を走らせた。
海獣はその光を嫌ってさらに外へ逸れ、避難路から離れていく。
二体を外した時点で、エルナの意識は中央の一体へ移っていた。
「右……左……また右」
海獣は、水滴が密集した場所へは突っ込まない。身体を濡らすこと自体を嫌っているわけではなく、視界や動きを邪魔される場所だけを避けている。
それなら、相手が選びやすい空間を一つだけ残せばいい。
エルナは左側へ細い雷を走らせた。
直撃させるためではない。
海獣は当然、それを避けて右へ動く。
そこには水滴の切れた狭い空間しか残っていなかった。
「逃げる場所、そこしかないでしょ」
エルナの指先に雷が集まる。
今度は一本ではない。
六本の細い雷光が、ほとんど間を置かずに走った。
一発目は海獣の正面へ置き、進める方向を狭める。
二発目で尾の動きを乱す。
身体が傾いたところへ、三発目と四発目を左右のひれへ通した。
姿勢を失った海獣が回転し始め、その勢いが避難路側へ戻ろうとした瞬間、五発目が進路を塞ぐ。
最後の一本だけが直接尾の付け根を捉え、海獣を市民のいない側へ押し出した。
六本の雷は、周囲を落ちていた水滴のどれにも触れていなかった。
「……全部、隙間を通したのか?」
近くの足場へ上がっていた現地魔導師が、息を呑む。
「そうしないと危ないでしょ」
エルナは肩越しに返すと、すぐに頭上へ意識を戻した。
一体を倒すために必要以上の雷を使わない。
真正面から撃てないなら角度を変える。
角度を作れないなら、相手自身を動かす。
その程度のことは、考えてからやるようなことではなかった。
逆さの海では、まだ幾つもの影が動いている。
そのとき、遠く離れた中央海域で巨大な風が巻き上がった。
街の旗も木々もほとんど揺れていないのに、逆さの海から降りかけていた巨大海獣だけが、押し戻されるように高度を上げていく。
フィナだ。
隣の現地魔導師も、思わずそちらを見た。
「すごい……あれほどの巨体を、あんな簡単に」
「そうね」
エルナも一瞬だけ視線を向けた。
あれだけ大きな相手を、街にも海にも余計な影響を出さず止めている。相変わらず規格外だと思う。
以前なら、その光景を見るたび、自分との距離を嫌でも意識していた。
けれど今は、胸に湧く感情が少し違った。
「でも、ここであれをやったら駄目なのよ」
眼下には高架避難路があり、その上には無数の水滴が落ちている。両側には水路が走り、僅かな伝導でも人へ届く。
この場所で必要なのは、海獣ごと空を押し返す力ではない。
人と水の隙間を見つけ、その狭い場所へ雷だけを通すことだった。
「フィナにはフィナのやり方がある」
エルナは再び指先へ雷を集める。
「私には、私のがあるでしょ」
上空から五体の海獣が同時に散開した。
避難路へ最も近い一体へ、まず一筋。
直撃ではなく、進路の内側へ雷光を置く。
海獣は外へ避けた。
その動きにつられて二体目も横へ流れ、甲殻の継ぎ目が露出する。エルナはそこだけを撃ち抜き、さらに外側へ姿勢を崩させた。
三体目は高度を下げようとしていた。
その正面へ雷を一度走らせる。
海獣は反射的に上昇し、避難路から距離を取った。
残る二体が、左右から挟むように降りてくる。
「一緒に来るなら、逆に楽よ」
エルナは右側だけを狙った。
雷を見た海獣が左へ避ける。
その巨体に押されるように、左側の一体までわずかに進路を変えた。
二体が同じ方向へ並んだ。
その先には市民がいない。
エルナは二体そのものではなく、戻ろうとした場合に通る反対側の空間へ細い雷を走らせる。
進める方向を一つに限定された二体は、そのまま揃って外側へ流れていった。
「そのまま行きなさい!」
最後に尾だけを痺れさせ、完全に市民の上空から追い出す。
眼下の避難路が空いた。
「今です! 全員通してください!」
現地魔導師の呼びかけで、足止めされていた市民たちが一斉に橋を渡り始めた。
エルナは頭上だけを見るのをやめ、その最後尾まで視線へ入れる。
子供もいる。
足を庇っている者もいる。
全員が安全区画側へ入るまでは、次の海獣をこの上へ通すわけにはいかない。
指先には、細い雷を何度も制御し続けた反動で微かな痺れが残っていた。それでも指は動く。狙いもずれていない。
やがて最後の一人が橋を渡り切り、避難扉が閉じた。
高架通路の上には、海獣の姿がない。
逆さの海も、水滴も消えてはいない。
それでも、この一本の避難路だけは自分の雷で安全な道に変えた。
エルナは濡れた前髪を払い、ようやく肩の力を少し抜いた。
「大きければいいってものじゃないのよ」
誰かへ張り合うためではなく、自分の得意な魔法を確かめるように笑う。
その頭上では、次の海獣へ狙いを定めた細い雷光が、水滴と水滴の僅かな隙間で鋭く瞬いていた。




