第二章 14 『初級火魔法で、人を救う』
西側避難区画へ向かう通路では、すでに靴の半分が沈むほど水が溜まっていた。逆さの海から落ち続ける水に加え、高架水路の亀裂からも流れが入り込み、避難誘導灯の青い光まで水面の下で揺れている。
「こっちです! 走らなくて大丈夫です!」
先頭に立つ現地学生たちへ声を合わせながら、リリカは列の後方を何度も振り返った。子供や足の遅い人が置いていかれていないかを確かめつつ、自分の足元よりも避難者の動きを優先する。
前方には避難区画へ通じる大扉が見えていた。そこまで行けば一度、水の流入を区切れる。
「扉を開けます!」
現地学生の一人が先に取っ手へ手をかけたものの、力を込めても大扉はほとんど動かなかった。
「開かない……!」
周囲へ集まった学生たちが扉の隙間を調べる。外側へ回り込んでいた係留縄が流木へ絡み、水を吸って太く膨らんだまま金具へ食い込んでいた。
「これを外さないと駄目です!」
「刃物、持ってる人は?」
「今すぐ使えるものは――」
焦った声が重なる中、リリカは濡れた縄の一本へ目を止めた。
「私がやります」
掌へ灯したのは、いつもの小さな火球だった。
隣の現地学生がわずかに戸惑う。
「火属性ですか? でも、この水の中では……」
言いたいことは分かった。
アクアレイアでは水属性が主流で、今は床まで濡れている。大きな炎を出したところで、水に熱を奪われるだけかもしれない。
それでもリリカは反論せず、縄へ近づいた。
「全部燃やす必要はありません」
狙うのは一本の縄全体ではなく、金具へ強く食い込んでいる一点だけ。
「ここだけ焼きます」
火球を小さく絞り、濡れた繊維へ熱を集中させる。表面から白い蒸気が上がり、何度か水滴が弾けたあと、張り詰めていた一本が乾いた音を立てて切れた。
「今です!」
学生たちが残った縄を引き剥がす。
大扉がわずかに開いたものの、途中でまた止まった。
「今度は何!?」
接続部を覗き込んだ学生の顔が曇る。
「金具が歪んで、枠へ噛み込んでます!」
ここを力任せに壊せば、扉そのものが外れる可能性がある。そうなれば避難区画へ水が流れ込み続ける。
リリカはしゃがみ込み、歪んだ部分をじっと見た。
壊さず、少しだけずらせればいい。
「この金具、温めたら膨らみますよね?」
「え? はい。でも、噛んでる部分を熱したら余計に――」
「こっちです」
指差したのは、歪んだ金具そのものではなく、それを支える外側の薄い金属板だった。
「ここだけ膨らませれば、接触してる位置が少しずれると思います」
現地学生が一瞬目を見開いたあと、すぐ扉の形を確かめる。
「……いけるかもしれません!」
火球の熱を薄い金属板へ集める。大きく変形させるほどではなく、ほんの僅かに形が変われば十分だった。
数秒後、噛み込んでいた金具が小さく浮く。
「引いてください!」
学生たちが力を合わせると、重い音とともに大扉が開いた。
「通れます! 順番に中へ!」
人の流れが再び動き始めた。
リリカは扉脇へ立ち、子供の手を引きながら最後尾まで確認する。小さな火球一つしか使っていないのに、それで人が通れる道を作れたことが、胸の奥へ静かに残った。
だが避難区画へ入った直後、今度は内部の照明が一斉に消えた。
「きゃっ!」
「落ち着いてください!」
暗闇の中で足音が止まり、子供の泣き声が混じる。
現地学生が壁面の術式へ触れたものの、光は戻らなかった。
「照明系統が落ちています。復旧には時間が――」
「それなら、私が照らします」
リリカは三つの火球を作り、避難路の天井近くへ浮かべた。
攻撃用よりさらに弱い。
熱は周囲へ広げず、足元が見える程度の明るさだけを残す。
橙色の光が細い通路を照らすと、止まっていた人々が少しずつ歩き始めた。
「壁沿いに進んでください! 段差があります!」
現地学生たちもすぐ役割を取り戻し、先頭と中央へ分かれて避難者を支える。
その一人が、頭上の火球を見上げた。
「火魔法って、こういう使い方もできるんですね」
「私も、最近やっと分かってきたんです」
リリカは照明用の火を見ながら、小さく笑った。
「大きくなくても、役に立つことはあるから」
言葉にした直後、避難路の奥で水音が跳ねた。
「何か来ます!」
暗い横道から、小型の海魔物が三体現れる。尖ったひれを持つ魚型の魔物は、床を覆う浅い水を滑るようにして、そのまま避難者へ向かってきた。
現地学生たちが市民の前へ出る中、リリカも火球を一つ手元へ戻した。
正面から撃てば倒せるかもしれない。
けれど、この狭い通路では外した先に人がいる。
視線を横へ向けると、右側に人気のない管理通路が伸びていた。
「こっちへ誘導します!」
魔物ではなく、管理通路の入口へ火球を放つ。
床へ触れる直前で弾けた炎へ、先頭の一体が反応した。続けて少し奥へ二発目を灯すと、残る二体も光を追うように向きを変える。
「倒さないんですか?」
「今は、人から離せれば十分です!」
さらに奥へ三発目。
三体が管理通路へ入ったのを確認してから、リリカは振り返る。
「扉を閉めてください!」
学生たちが管理扉へ手をかける。
だが、また途中で引っかかった。
「また金具が!」
今度は誰より早くリリカが接続部へ目を向けた。
「同じようにします!」
噛み込んだ場所そのものではなく、周囲だけを熱する。僅かな膨張で位置をずらした瞬間、学生たちが一気に扉を引き切った。
向こう側で魔物がぶつかる音が響いたものの、扉は閉じたまま動かない。
「できた……!」
安堵の息が漏れる。
派手な魔法ではなかった。
濡れた縄を一点だけ焼き、金具を少し温め、暗い道を照らし、火の光で魔物の進路を変えただけ。
どれもフィナなら、もっと大きな魔法で一瞬に解決できるのかもしれない。
けれど、それを考えたところでリリカは自分から首を横へ振った。
「フィナ師匠なら、じゃない」
小さな呟きを拾った現地学生が不思議そうにこちらを見る。
「私は、私の火でやります」
もう、師匠と同じ大きさの火を出したいとは思わなかった。
自分の初級魔法で、今ここに必要なことを選ぶ。
それならできる。
「次の避難者が来ます!」
「はい!」
新しい列が入口へ入り始める。
今度は現地学生たちも自分たちから動き、濡れた床へ布を敷き、子供や高齢者を内側へ誘導した。リリカの火球はその足元を照らし、人の流れが止まらないよう静かに道を作っていく。
最後の一団が入ったところで、服の裾を小さく引かれた。
「お姉ちゃん」
振り向くと、幼い子供が頭上の火球を見上げている。
「これ、お姉ちゃんが出してるの?」
「うん。熱くしすぎないようにしてるから、大丈夫だよ」
目線を合わせるように腰を落とすと、子供は橙色の光をしばらく見つめてから、嬉しそうに笑った。
「小さい火、すごいね」
その一言に、リリカの目が丸くなる。
少し前なら「もっと大きな火を出せたら」と考えていたかもしれない。
けれど今は、その言葉が何より嬉しかった。
「……うん!」
掌の上へもう一つ小さな火を灯しながら、リリカは満面の笑みを浮かべた。
水の国でも、自分の初級火魔法はちゃんと誰かを助けられる。その確かな手応えを胸へ抱えたまま、リリカは次の避難者を迎えるため、再び通路の入口へ向かった。




