第二章 13 『空を泳ぐ海獣』
アクアレイア上空に浮かんだ逆さの海が、大きく波打った。
都市中央広場へ駆け込んだフィナは、頭上を覆う青い水塊から目を離せなかった。海の中では魚群と魔導船がゆっくり流され、そのさらに奥で、巨大な黒い影が輪郭を濃くしている。
「来る!」
レオンの声が飛んだ直後、海面の下側が大きく膨らんだ。
次の瞬間、巨大海獣の頭部が水を突き破る。
青黒い鱗に覆われた身体は大型魔導船よりも長く、左右へ広がったひれだけで建物数棟分の幅があった。上空の海から半身を出した海獣は、そこが本来の海中であるかのように身体をくねらせながら、都市へ向かって降下を始める。
「でかすぎない!?」
フィナは思わず一歩下がった。
海上広場の周囲では避難中の市民が悲鳴を上げ、誘導灯に従って建物の間へ走っていく。
同時に、港湾区画と高架水路の上からアクアレイア側の魔導師たちが魔法陣を展開した。
「迎撃術式、展開!」
水の槍が複数形成される。
だが、発射直前。
「待ってください!」
セレスティアが携帯端末を確認しながら制止した。
「上空海域全体の流量が連動しています! あの海獣周辺へ大規模な水圧変動を起こすと、別区画の水塊まで崩れる可能性があります!」
「攻撃できないってこと?」
エルナは雷を指先へ集めたまま、巨大海獣と上空の海を交互に見る。
「広域攻撃は危険です」
セレスティアの声は切迫していた。
「上空の水そのものへ干渉すれば、どこまで影響が広がるか分かりません」
「雷も同じだな」
レオンは周囲の水滴を見上げ、すぐエルナへ視線を向けた。
「水が全部つながってる可能性がある。広げるな」
「分かってるわよ!」
エルナは雷を一度消し、悔しそうに歯を噛んだ。
その間にも巨大海獣は降下を続けている。
下には避難中の市民がいる。
「じゃあ、水じゃなくてあれだけ止める!」
フィナは中央広場へ踏み込み、両手を上空へ向けた。
「強い風!」
風が生まれた。
だが広場の旗は揺れない。
市民の髪も、降り続ける水滴も動かない。
風は巨大海獣の身体だけを包み、その巨体を空中で強引に固定した。
海獣が尾を振る。
ひれが暴れる。
それでも身体は一メートルも落ちない。
「止まった!」
リリカが目を見開く。
「海獣だけね……!」
エルナはすぐ周囲を確認した。
「水には触ってない!」
「うん!」
フィナは頭上を見たまま応じる。
「魚も船もそのまま!」
その一言を聞き、レオンは一瞬だけ表情を緩めた。
「なら維持しろ! 倒す必要はない!」
「分かった!」
巨大海獣だけを固定したことで、現地魔導師たちは避難誘導へ回れる。
だが問題は、それだけではなかった。
都市西側から爆発音が響いた。
「何!?」
フィナがそちらへ顔を向ける。
高架水路の一部が半透明に揺らぎ、本来存在しない別の水路と重なっていた。二本の流れが同じ位置へ現れ、接触した場所から大量の水が市街へ噴き出している。
「西区画、構造異常!」
セレスティアの端末から警告音が連続する。
「港湾区でも船体浮上! 北側では空中水路が逆流しています!」
「一気に来たな……!」
レオンは地図を広げた。
警告表示が一つではない。
中央広場。
西区画。
港湾区。
北側居住区。
迷宮入口周辺。
次々に赤い点が増えていく。
「フィナ、あっちも!」
リリカが西側を指差した。
避難路へ水が流れ込み、市民たちの列が止まり始めている。
「行く!」
フィナは反射的にそちらへ身体を向けた。
だが巨大海獣が再び暴れ、風の固定がわずかに揺らぐ。
「待て!」
レオンが腕を伸ばして止める。
「お前がここを離れたら海獣が落ちる!」
「でも向こうも危ない!」
「分かってる!」
「じゃあどうするの!?」
フィナの声が焦りで大きくなる。
見える範囲だけでも、助けが必要な場所がいくつもある。
全部行きたい。
全部止めたい。
けれど、身体は一つしかない。
その迷いを断ち切ったのは、エルナだった。
「分かれればいいでしょ」
エルナは上空の水塊へ視線を走らせながら、髪を耳へかけた。
「フィナが全部行く必要ないわ」
「でも……」
「私たち何のための班なのよ」
エルナの声には迷いがなかった。
レオンもすぐ地図を広げ直す。
「役割を分ける」
彼は中央広場を指差した。
「フィナはここ。中央海域を抑えろ。巨大海獣と、逆さの海から落下する大物だけに集中」
「レオンは?」
「都市術式中枢へ行く」
レオンは地図中央の管理区画へ指を移した。
「海を戻すにしても、都市側の水流術式が壊れてたら被害が増える。セレスティア、場所を案内できるか?」
「できます」
セレスティアは即答し、端末へ経路を表示した。
「中央管理塔まで最短で七分です。ただし高架通路が一部停止しています」
「徒歩で行く」
レオンは迷わず地図を畳む。
「ネム」
呼ばれたネムは、逆さの海ではなく都市全体を見渡していた。
銀紫色の髪が雨のような水滴で濡れ始めている。
「変なの、増えてる」
「場所は分かるか?」
「だいたい」
ネムは西、北、そして海中迷宮の方向へ順番に指を向けた。
「魔力が重なる前、静かになる」
「それを追ってくれ」
レオンはネムの消耗を確認するように目を細めた。
「ただし無理に全部止めるな。異常地点を見つけて伝えるだけでいい」
「分かった」
ネムは枕型魔導具を抱え直し、小さく息を吐く。
次にレオンの視線がリリカへ移った。
「リリカは避難誘導」
「はい!」
リリカはすぐ背筋を伸ばした。
「西側の避難路が水で塞がれてる。大型魔物へは行くな。小型だけ対応して、市民を安全な道へ誘導しろ」
「任せてください!」
緊張で指先は少し震えていた。
それでもリリカは火球を出さなかった。
先に避難路を確認し、自分が何をするべきかを確かめている。
「エルナは?」
フィナが問いかける。
エルナは上空へ視線を向けた。
逆さの海の外縁では、小型の海魔物が何体も水から飛び出し、空中水路や建物の屋根へ落ち始めている。
「私は上」
「空中海域?」
「そう。広い雷は使えないけど、一体ずつなら落とせる」
エルナは指先へ細い雷光を再び集めた。
「船や人が落ちてきても、位置を見ながら援護できる。フィナが大物を見るなら、細かいのは私が拾う」
「でも水の中で雷は――」
「だから広げないって言ってるでしょ」
エルナはフィナへ一度だけ笑った。
「あなたの隣で何回精密攻撃やってきたと思ってるのよ」
その言葉に、フィナは返事を止めた。
学院。
迷宮。
冒険者依頼。
これまで何度も五人で動いてきた。
分かっていたはずなのに、異国の都市全体が危険にさらされた瞬間、また全部自分で何とかしようとしていた。
「フィナ」
ネムが近づき、フィナの服の袖を軽く引いた。
「全部見なくていい」
「……うん」
「ネムたち、いる」
短い一言が胸へ落ちる。
フィナは巨大海獣を固定する風を維持したまま、四人の顔を順番に見た。
レオンは既に経路を確認している。
エルナは空へ出る足場を探している。
リリカは避難中の市民へ向き直っている。
ネムも、どこで可能性の重なりが起きるかを探し始めていた。
「じゃあ……お願い」
フィナは少しだけ力を抜いて笑った。
「そっち、任せる」
「最初からそのつもりだ」
レオンは短く返し、セレスティアと都市中枢側へ走り出した。
「私の方が先に片付けても文句言わないでよ!」
エルナはそう言い残し、階段を駆け上がって高架水路側へ向かう。
「フィナ師匠、避難が終わったら戻ります!」
リリカも市民の列へ走った。
「ネムも行く」
最後にネムが反対方向へ小走りで離れていく。
四人の背中が、それぞれ別の方向へ遠ざかっていく。
フィナの胸が一瞬だけざわついた。
いつも近くにいた四人が、今は誰も隣にいない。
けれど、不安のまま呼び止めることはしなかった。
「……大丈夫」
フィナは小さく呟き、頭上を見上げた。
巨大海獣が再び身体を捻る。
そのさらに向こうでは、逆さの海から新たな影が動き始めている。
守るべき中央海域は、目の前にある。
フィナは四人が向かった方向をもう一度だけ振り返り、それから視線を上空へ戻した。
別々の場所へ向かった仲間たちを信じ、今度は自分にしかできない役割へ集中するため、フィナは空を泳ぐ巨大海獣へ両手を向けた。




