第二章 12 『海が、空へ落ちた』
エルクが両腕を広げた瞬間、《蒼穹海淵迷宮》の最深部から、これまでとは比較にならない魔力が噴き上がった。
足元の石床が低く唸り、壁に埋め込まれた古代術式が一斉に光を放つ。青でも白でもない、深い海の底を思わせる色が階段の奥から走り、フィナたちのいる通路を一息に通過していった。
「何、これ……!」
フィナは反射的に腕で顔を庇った。
風はない。
それなのに身体の内側を巨大な波が通り抜けたような感覚があり、胸の奥に残っていた「呼ばれている」感覚が一気に強まる。
「原初魔力導路……!」
レオンは壁際へ解析札を叩きつけるように展開した。
しかし札へ流れ込んだ情報量が多すぎたのか、三枚のうち二枚が激しく明滅し、そのまま光を失う。
「解析が追いつかない! エルク、お前何をした!」
階段の向こうで、エルクは楽しそうに笑っていた。
「ちょっと開きやすくしただけだよ」
「その『ちょっと』で迷宮全体が揺れてるんだけど!?」
フィナが声を張る。
「君もよく言うでしょ? ちょっとだけ、って」
「一緒にしないで!」
「かなり似てる」
ネムの短い追撃が飛び、フィナは一瞬だけ言葉を失った。
「今は味方してよ!?」
だが次の揺れは、そのやり取りさえ飲み込んだ。
天井から細かな石片が落ちる。
セレスティアは即座に残っていた技術者たちを壁際へ寄せ、水の障壁を頭上へ展開した。
「この振動、迷宮内だけではありません!」
彼女が携帯式の都市監視器へ目を落とす。
表示された複数の水路反応が、一斉に乱れていた。
「首都側の水流値まで変動しています!」
「ここから都市全体につながってるってことか?」
レオンは解析札を残したままセレスティアの端末へ視線を移した。
「可能性があります。ですが、こんな規模の逆流は――」
その言葉の途中で、端末の警告音が重なった。
一つ。
二つ。
十以上。
都市各所を示す表示が赤へ変わっていく。
「上に戻る!」
フィナが即座に振り返った。
「エルクは!?」
エルナは階段側へ雷を構えたまま問い返す。
「追うより街が先!」
フィナの答えに迷いはなかった。
エルクを止めたい。
だが、今この瞬間にも地上で何かが起きているなら、そちらを放置できない。
「レオン、道!」
「今作る!」
レオンは残った解析札を本来の迷宮構造へ集中させた。
重なった可能性の通路を無理に消すのではなく、青い線だけを追う。
「右! この先の分岐を二つ抜ければ昇降路へ戻れる! ただし構造が変わる前に急げ!」
「ネム、重なり抑えられる?」
フィナが振り返ると、ネムは額の汗を袖で拭いながら、両手を壁へ向けた。
「少しだけ」
「十分!」
ネムの静寂が広がり、揺らいでいた別構造の輪郭が一時的に鈍る。
エルナは退路側へ身体を向け、リリカは技術者たちの後方へ回った。
「セレスティア、先導お願い!」
「分かりました! 全員、私についてきてください!」
六人と技術者たちは、一斉に上層へ走り始めた。
背後にエルクを残したまま。
フィナが最後に振り返ったとき、彼は追いかけてこなかった。
ただ暗い階段の奥で、何かを待つように笑っていた。
昇降路へ近づくほど、異常ははっきりしていった。
壁の水圧計が正常値を外れ、透明外壁の向こうを流れる海水そのものが上へ引かれている。
「水が……上がってる?」
リリカは走りながら外を見て、声を震わせた。
普通なら横へ泳ぐ魚たちが、必死にひれを動かしながら上方へ流されている。
小さな海洋魔物まで、海底から引き剥がされるように上昇していた。
「エルナ!」
「見えてる!」
エルナは走りながらも、透明壁へ視線を固定した。
「海流じゃない! 水全部が上へ動いてる!」
「そんなことある!?」
「今あるのよ!」
フィナの問いへ返したエルナの声にも、普段の勢いとは違う焦りが混ざっていた。
昇降機が地上へ向けて動き出す。
透明な円筒の外を、海底から海面へ向けて大量の水が流れていく。
上昇するのは水だけではなかった。
魚。
海藻。
小型魔物。
沈んでいた木片や古い残骸まで、重力を忘れたように上空へ吸い上げられていく。
「船まで!」
セレスティアが遠方を指差した。
海面近くへ到達した瞬間、一隻の魔導船が横向きに傾き、そのまま船体ごと空へ引き上げられていた。
「乗ってる人いるよね!?」
フィナの顔色が変わる。
「いるはずです!」
「先に地上へ!」
昇降機の扉が開くより早く、フィナは出口側へ身体を向けた。
地上へ出た瞬間。
六人は一斉に足を止めた。
空が、海になっていた。
「……え」
フィナの口から小さな声が漏れる。
アクアレイアの都市上空。
そこへ、巨大な海そのものが浮かんでいた。
青い水の塊などという規模ではない。
水平線まで続いていたはずの海が丸ごと持ち上がり、都市の遥か上空へ逆さに張りついたような形で広がっている。
その中を魚の群れが泳いでいた。
魔導船が傾いたまま漂い、巨大な海洋魔物の影まで遠くを横切っている。
海面だったはずの境界が頭上にあり、その下側から大量の水滴が地上へ降り注いでいた。
「……海、持ち上がってる」
フィナが呆然と呟いた。
レオン。
エルナ。
リリカ。
ネム。
セレスティア。
全員がゆっくりフィナを見る。
「私じゃないよ!?」
フィナは反射的に両手を振った。
「今朝も似た発言はしていた」
レオンが真顔で返す。
「言っただけだよ!」
「願望実現」
ネムが頭上の海とフィナを交互に見る。
「してない!」
「昨日も海の底を見たいって言ってたわよね」
エルナまで疑うような目を向ける。
「だから私じゃないって! 今みんなエルク見たでしょ!?」
「分かってるわよ!」
エルナはようやく視線を空へ戻した。
「分かってるけど、状況とあなたの発言の相性が良すぎるのよ!」
「こんな一致いらないよ!」
フィナの抗議を打ち消すように、都市全域へ警報音が鳴り響いた。
海上広場では市民たちが空を見上げ、立ち尽くしている。
市場の天幕へ大粒の水滴が叩きつけられ、空中水路の一部では流れが逆転していた。
さらに港湾区画では、浮き上がりかけた小型船を複数の技術者が係留術式で必死に押さえている。
「避難誘導へ切り替えます!」
セレスティアはすぐ表情を引き締めた。
「上空の水量が分かりません! もし一斉に落下したら市街全体が――」
「落とさない」
フィナの声が変わった。
先ほどまでの困惑が消える。
上空の海を見上げながら、街全体の位置を確認する。
人。
建物。
水路。
船。
そして、その上に浮かぶ途方もない量の海水。
「フィナ、全部支えようとするな!」
レオンがすぐ隣へ出た。
「まず状況を分ける! 海自体が今すぐ落ちないなら、市民の避難を優先する!」
「でも船が!」
「分かってる! エルナ、上空の移動物を見ろ! 落下しそうなものだけ止める!」
「了解!」
エルナは空へ視線を走らせる。
「リリカは地上! 避難路から外れた人を誘導して!」
「はい!」
リリカはすぐ海上広場側へ走る。
「ネム、異常が強い方向分かるか?」
「上と……下」
ネムは眉を寄せ、迷宮入口と逆さの海を順番に見た。
「つながってる」
「なら元は導路だ」
レオンは情報を整理しながら、都市中央へ視線を向ける。
「セレスティア、都市警報を最大にできるか?」
「できます!」
セレスティアは携帯端末へ両手を走らせた。
次の瞬間、アクアレイア全域に高い警報音が響き渡る。
『全市民へ通達。現在、首都上空に大規模水流異常が発生しています。屋外の市民は指定避難区画へ移動してください。空中水路、港湾施設、浮遊設備へ近づかないでください』
繰り返される避難放送とともに、市街各所の誘導灯が青から赤へ切り替わる。
フィナはその光景を見ながら、一度だけ強く息を吸った。
「私、どこ行けばいい?」
「中央広場!」
レオンは即座に答えた。
「上空と地上を両方見られる位置へ行け! 落下物と水流だけ止めろ! 逆さの海そのものにはまだ触るな!」
「分かった!」
フィナは駆け出した。
その頭上で、巨大な逆さの海がゆっくり波打つ。
水滴が雨のように降り注ぎ、都市の白い建物を濡らしていく。
そして。
海のさらに奥。
魔導船より遥かに大きな黒い影が、ゆっくり向きを変えた。
長い尾。
巨大なひれ。
都市の一区画を覆えそうな胴体。
それが上空の海面近くへ近づくにつれ、市民たちの悲鳴が一斉に広がった。
アクアレイア全域へ避難警報が鳴り響く中、空へ持ち上げられた海の底から、巨大海獣の影が都市を見下ろしていた。




