第二章 11 『十二原環、エルク・ノーティア』
暗い階段の奥から、一定の間隔で拍手が響いていた。
ぱち、ぱち、と乾いた音が近づくたび、フィナは水流を止めたまま視線を細める。背後ではセレスティアが現地学生たちを壁際へ集め、技術者たちと人数を確認していた。
「全員、階段から距離を取ってください。前には出ないで」
セレスティアの声に従い、学生たちが後退する。
レオンはその動きを横目で確認しながら、階段前へ解析札を三枚浮かべた。エルナはフィナの右側へ立って雷を指先へ集め、リリカは学生たちとの間に位置を取り直す。
「ネム、まだ重なり抑えられる?」
フィナが振り返ると、ネムは額に浮いた汗を袖で拭おうともせず、暗い階段を見つめていた。
「少しなら」
「無理しないでね」
「フィナも」
「私は大丈夫」
「その返事、信用低い」
「今そこ!?」
緊張した空気の中でフィナが思わず声を上げた、その直後だった。
「仲いいね」
知らない声が落ちてきた。
階段の途中へ、一人の青年が姿を現していた。
年齢は若く見える。淡い笑みを浮かべ、両手を身体の横へ自然に下ろしている姿には、武器を構える様子も攻撃の意思も感じられない。
ただ、その背後では本来存在しない階段が暗闇の奥まで続いていた。
「君がフィナだよね?」
青年はまるで待ち合わせ相手を見つけたように嬉しそうな顔をした。
フィナの眉が寄る。
「……私のこと知ってるの?」
「うん。ずっと会ってみたかった」
青年は数段だけ下りると、その場で止まった。
エルナが即座に一歩前へ出る。
「そこで止まりなさい」
「止まってるよ?」
「そういう意味じゃないわよ」
エルナの指先で細い雷が弾けるのを見ても、青年の笑みは変わらなかった。
「敵なの?」
フィナが真っ直ぐ問いかける。
「敵って言われたら、たぶんそうなるのかな」
曖昧な返事だった。
レオンは青年本人ではなく、その周囲の魔力へ解析札を向けている。
「所属を言え」
「そこからなんだ」
青年は少し楽しそうに首を傾けた。
「アーク・ノクス。十二原環、第九環」
その名を聞いた瞬間、フィナたちの空気が変わる。
リリカは学生たちを守る位置から火球を一つ作り、セレスティアも即座に水の障壁を展開した。
青年はそんな反応すら面白そうに眺めていた。
「エルク・ノーティア。よろしく」
「よろしくする状況じゃないでしょ!」
フィナが思わず突っ込む。
「そう?」
「そうだよ!」
「でも、初対面なら挨拶するでしょ?」
「敵組織の人が普通の交流みたいに言わないで!」
フィナが両手を広げて抗議する横で、レオンは声を低くした。
「第九環……お前がこの異常を起こしてるのか?」
「異常?」
エルクは周囲を見回した。
崩壊した通路。
完成していた施設。
水没していた区画。
それらがまだ薄く現実へ重なったまま残っている。
「僕には、どれもちゃんとあったかもしれないものに見えるけど」
「何を言ってるの?」
エルナが眉を寄せる。
「この通路は崩れてない。あの施設だって存在してない。それが今の現実でしょ」
「今はね」
エルクは明るく答えた。
「でも、崩れてたかもしれない。完成してたかもしれない。もっと前に全部水没してたかもしれない」
その言葉と同時に、フィナの左側で景色が揺れた。
「っ!」
壁が消えた。
代わりに、巨大な裂け目が現れる。
通路そのものが崩れ落ち、遥か下まで石材が散乱している景色だった。
「動くな!」
レオンの声が飛ぶ。
フィナは反射的に踏み出しかけた足を止めた。
裂け目はそこにある。
だが、フィナの足元には確かに床の感触が残っている。
「今のは……」
「崩れてたかもしれないここ」
エルクが指を軽く動かした。
次の瞬間、裂け目が消える。
今度は反対側に、白く完成された巨大施設が現れた。
現在の迷宮より遥かに整った壁。天井には無数の照明。中央には見覚えのない巨大な魔導装置が動いている。
「こっちは、完成してたかもしれないここ」
エルクが笑う。
さらに手を返す。
完成施設の床が水へ沈んだ。
天井近くまで海水で満たされ、巨大な魚の影が通路を横切る。
「こっちは、ずっと前に沈んでたかもしれないここ」
「……可能性を重ねてる?」
レオンの声から、初めて明確な驚きが滲んだ。
エルクは嬉しそうに彼へ顔を向ける。
「近いね」
「空間を変えてるんじゃない」
「うん」
「過去を書き換えてるわけでもない」
「それも違う」
レオンの表情がさらに険しくなる。
「起こり得た別の結果を、今へ重ねてるのか」
エルクは返事の代わりに拍手を一度だけ鳴らした。
「やっぱり面白いね、君たち」
フィナはエルクから目を離さなかった。
「どうしてそんなことするの?」
「見たいから」
「何を?」
「いっぱいある世界」
エルクはあまりにも自然に答えた。
「この道を右に行った世界。左に行った世界。街が壊れた世界。壊れなかった世界。誰かが生きてる世界。死んでる世界」
その言葉だけは、フィナの胸に引っかかった。
エルクは気づかない様子で続ける。
「フィナなら、どの世界を選ぶ?」
「……え?」
「君なら何でもできるんでしょ?」
楽しげな笑みが、まっすぐフィナへ向く。
「だったら、一番いい世界を選べるんじゃない?」
フィナはすぐには答えられなかった。
何でもできる。
そう言われることには、まだ慣れていない。
けれど、その問いに妙な違和感だけはあった。
「選ぶって……みんな同じじゃないよ」
「だから面白いんだよ」
エルクは階段をもう一段下りた。
エルナの雷が強く弾ける。
「それ以上来ないで」
「怖いなあ」
「笑いながら言わないで」
エルナが狙いを外さない一方で、セレスティアは学生たちをさらに後方へ移動させていた。
「レオンさん、退路は確保できますか?」
「今の通路構造が固定されてる間なら可能だ。ネムが重なりを抑えてる間に学生を上層へ」
「分かりました」
セレスティアは迷わず技術者へ振り返った。
「見学参加者を優先して退避。二列で移動してください。私はこちらに残ります」
「セレスティアも行って」
フィナがすぐ声を向ける。
「ここはアクアレイアの施設です。あなたたちだけに任せられません」
返ってきた声は揺れなかった。
エルクはそのやり取りを眺め、少しだけ首を傾ける。
「別にみんなを困らせたいわけじゃないんだけどな」
「もう十分困ってるよ!」
フィナが即座に返す。
「迷宮変になってるし、水増えてるし、魔物出てきたし!」
「でも面白かったでしょ?」
「面白いで済ませていいことじゃないよ!」
フィナの声が強くなる。
エルクはそれでも怒らなかった。
「僕が見たいのは、もっと下にあるものなんだ」
彼は足元の階段へ視線を落とした。
「原初魔力導路」
その言葉に、レオンの記録する手が止まる。
「原初……?」
「この迷宮のもっと下にあるよ。すごく古くて、すごく大きい魔力の道」
エルクは暗い最深部を指差した。
「アクアレイアはずっと、そこから漏れてる力を使ってきたみたいだね」
セレスティアの顔が強張る。
「そんなもの、管理記録には――」
「ないよ。知らなかったから」
エルクは悪びれず答えた。
「だから確認しに来た。ちゃんと残ってるか。開けたらどうなるか」
「開ける?」
フィナの声が低くなる。
「うん」
「それ、絶対駄目なやつじゃない?」
「どうして?」
「分からないものを勝手に開けたら危ないでしょ!」
「でも開けなかった世界と、開けた世界。両方あった方が面白いよ?」
「そういう問題じゃないよ!」
フィナが前へ出た。
その横へエルナが並び、レオンも解析札を戦闘用に組み直す。
「話は終わりだ」
レオンは周囲の壁、天井、学生たちが退避する後方通路を一度確認した。
「最深部には行かせない」
「そうです」
セレスティアも水の障壁を前方へ展開する。
「この迷宮はアクアレイアの管理施設です。許可なくこれ以上進ませるわけにはいきません」
リリカは避難列の最後尾を確認してから、フィナたちの後方へ位置を取った。
「後ろは私が見ます!」
ネムは重なった構造を抑えながら、浅く息を吐いた。
「長くは無理」
「十分」
フィナはネムへ短く笑いかけると、エルクへ向き直った。
「止めるよ」
「うん」
エルクは嬉しそうだった。
「やってみて」
次の瞬間、エルナが先に動いた。
細く絞った雷光が、階段上のエルクへ一直線に走る。
だが届く直前、彼の姿が揺れた。
そこにいたはずのエルクが消える。
「右!」
ネムの声。
フィナが振り向く。
右側の壁へ、存在しなかった通路が重なり、その中央にエルクが立っていた。
「こっちにいたかもしれない僕」
「そんなのあり!?」
フィナが風を放とうとした瞬間、レオンが叫ぶ。
「構造ごと吹き飛ばすな! 本人だけ狙え!」
「分かってる!」
風が通路を荒らさず、エルクの身体だけを捕らえに走る。
しかし今度は足元へ水没した区画が重なった。
大量の水が視界を遮り、その奥でエルクの輪郭が笑う。
「やっぱり君、面白いね」
「こっちは全然面白くないよ!」
フィナが水だけを左右へ退かせる。
その間にエルナが左、レオンが正面へ回り込み、セレスティアは後方への水流を遮断する。
エルクは五人の動きを見回し、それまで以上に楽しそうに笑った。
「じゃあ、もう少し大きいの見ようか」
彼が両腕を広げる。
迷宮の奥深くで、今までとは比較にならない魔力の揺れが起きた。
「エルク!」
フィナが叫ぶ。
エルクは子供のような好奇心を浮かべたまま、天井の遥か向こうを見上げた。
「じゃあ、この国が海じゃなくて空の下にあったらどうなるかな?」
その問いと同時に、迷宮全体を覆う魔力が、これまでとは別の規模で軋み始めた。




