第二章 10 『昨日なかった道が、今日はある』
水位の上がった通路に、二つの構造が重なっている。
その事実が分かってからも、《蒼穹海淵迷宮》の異常は止まらなかった。
レオンが床へ展開した解析図では、本来の迷宮を示す青い線の上へ、別の白い線が幾重にも入り込んでいる。壁、扉、通路、部屋。どれも現実の構造と完全には一致していない。
「また変わる!」
エルナが鋭く声を上げた。
次の瞬間、右手側の壁が半透明に揺らぎ、その向こうへ別の通路が重なった。
さっきまで何もなかった場所に、崩れ落ちた石柱と折れた床が現れる。天井の一部は完全に抜け、暗い空洞が上へ続いていた。
「崩壊した……?」
フィナが息を呑む。
「今の迷宮が崩れたわけじゃない」
レオンは解析札を一枚飛ばし、現れた通路へ近づきすぎない位置で反応を見る。
「魔力反応が二重になってる。ここにあるのに、ここにはない」
「何それ」
「俺が聞きたい」
返答の途中、さらに左側の壁が揺れた。
今度は逆だった。
古びた迷宮の石壁へ、白く滑らかな人工壁が重なる。床には壊れていない照明術式が整然と並び、奥には巨大な制御盤まで見えている。
「こっちは……完成してる」
セレスティアの声が低くなった。
彼女は現地学生たちを背後へ下がらせながら、半透明の施設を見つめる。
「この区画には、こんな設備はありません。設計記録にも存在しないはずです」
「でも作りかけでもないね」
フィナは重なった施設を見ながら眉を寄せた。
「最初からちゃんと完成してる感じ」
「触らないでください」
「まだ触ってないよ!」
セレスティアにまで先回りされ、フィナは慌てて両手を上げた。
その直後、足元の水が急に冷たくなる。
「下!」
ネムの短い声が飛んだ。
通路の床が一瞬だけ透け、その下から別の景色が重なった。
水没した区画だった。
同じ場所でありながら、そこだけ完全に海水へ沈んでいる。壊れた扉の向こうを魚の影が横切り、天井近くには古びた器具が浮かんでいた。
重なった海水が現実側へ滲み出す。
「来る!」
セレスティアが学生たちを壁際へ誘導する。
次の瞬間、水没区画から押し出された大量の水が現実の通路へ噴き出した。
「フィナ!」
「分かってる!」
フィナは両手を前へ向けた。
水そのものを全部止めれば早い。
だが今は、現実の通路と別の構造が重なっている。
どちらが本来の水で、どちらが重なった側なのか、見た目だけでは分からない。
「人に当たる水だけ、止まって!」
フィナがそう思った瞬間、押し寄せていた水流の一部だけが不自然なほど正確に止まった。
学生たちへ向かっていた水。
技術者の足をさらおうとしていた流れ。
リリカとエルナの背後から押し寄せていた水。
それだけが空中で形を保ち、壁際や床を流れる水はそのまま進んでいく。
「……相変わらず無茶苦茶ね」
エルナは雷を構えたまま、周囲を一瞬だけ見回した。
「でも助かる!」
水流が止まったことで、現地学生たちは転倒せずに済んだ。
セレスティアはその様子を確認し、すぐ次の指示へ移る。
「学生はこのまま壁沿いに! 前後を詰めすぎないでください! 技術者は人数確認!」
「十七、全員います!」
後方から返事が飛ぶ。
セレスティアが頷くより早く、別の異常が起きた。
崩壊した通路の影から、小型海洋魔物が三体飛び出してくる。
青い甲殻を持つ魚型の魔物で、長いひれを刃のように振りながら学生側へ向かってきた。
「リリカ!」
「はい!」
エルナが右側へ踏み込み、リリカは反対側へ位置を取る。
エルナは水へ雷が広がらないよう、魔力を極端に細く絞った。
「一体目、私が止める!」
甲殻の隙間へ細い雷光が突き刺さる。
魔物の身体が痙攣し、その場で動きを止めた。
残る二体のうち一体が、床すれすれを滑るようにリリカへ迫る。
リリカは後ろの学生との距離を確認し、真正面から火球を撃たなかった。
「こっちです!」
小さな火球を魔物の進路横へ放つ。
熱と光に反応した魔物がわずかに顔を向けた。
その瞬間、二発目を床へ落とす。
火球は水面へ触れる直前で消え、蒸気だけを一気に立ち上げた。
視界を遮られた魔物が進路をずらす。
「今!」
エルナの二本目の雷が甲殻の隙間へ突き刺さった。
「できた……!」
リリカが胸を撫で下ろす。
「まだ一体いる!」
エルナの声に、リリカはすぐ顔を上げた。
最後の一体は壁側を這い、学生たちの背後へ回り込もうとしていた。
だが、その動きが途中で急に鈍る。
「足、静かにした」
ネムが片手を向けていた。
小型魔物のひれだけが、何かに押さえられたように動きを失っている。
「リリカ」
「はい!」
今度は狙いを迷わなかった。
小さな火球を甲殻の継ぎ目へ当て、魔物を仰向けに転がす。
「倒さなくていい! 動けなくすれば十分!」
レオンの指示を受け、リリカは追撃せず後方へ戻った。
セレスティアはその一連の動きを見て、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
指示が出る前から、フィナは守る対象だけを選んで水を止めた。
エルナは水中で雷を広げず、リリカは倒すことより進路変更を優先し、ネムは逃げ道を塞ぐ敵だけを静めた。
そしてレオンは、その全てを見ながら解析を続けている。
「……速い」
思わず漏れた声に、フィナが振り返った。
「何か言った?」
「いえ。続けてください」
セレスティアはすぐ視線を前へ戻した。
一方、レオンは床へ片膝をつき、複数の解析札を並べていた。
「これ、空間魔法じゃない」
「そうなの?」
フィナが水流を止めたまま問い返す。
「ああ。空間魔法なら位置情報がずれる。転移でも重層化でも、座標の歪みが出るはずだ」
レオンは青い線と白い線を重ねて表示する。
「でも、こいつはどっちの構造も同じ座標を使ってる」
「同じ場所に二つあるってこと?」
「正確には、二つとも『ここにある』扱いになってる」
エルナが眉を寄せる。
「そんなの成立するの?」
「普通はしない」
レオンの返事は早かった。
「だから空間をいじってるんじゃない。もっと別の何かだ」
その瞬間、迷宮全体がまた揺れた。
今度は壁だけではない。
崩壊した通路。
完成している施設。
水没した区画。
三つが同時に現実の上へ重なった。
「多い……」
ネムの顔から眠気が消える。
彼女は重なった構造へ両手を向けた。
「少し、静かにする」
「できるの?」
フィナが心配そうに見る。
「全部は無理」
ネムは短く息を吐いた。
「重なってるところだけ」
静寂の魔力が広がる。
音を消すのとは違う。
重なった魔力の輪郭そのものが、ほんの少しだけ薄くなった。
崩壊通路の揺らぎが止まり、水没区画から流れ込む水が弱まる。
「ネム、無理するな!」
レオンが解析図から顔を上げる。
「長くは無理」
ネムの額に薄く汗が浮かぶ。
「でも、今なら見える」
「何が?」
フィナが周囲を見回す。
重なりが静まったことで、本来の迷宮構造と、それ以外の構造の境目がはっきりし始めていた。
「レオン」
「分かってる」
レオンは解析札を一気に走らせた。
「青が本来の構造。白が重なってる側だ。しかも白は一種類じゃない」
彼の声が低くなる。
「崩壊した構造、完成してる構造、水没してる構造……全部違う」
「同じ迷宮なのに?」
「同じ迷宮じゃないのかもしれない」
その言葉に、フィナは胸の奥へ小さな寒気を覚えた。
昨日なかった道が、今日はある。
壊れていない場所が壊れていて、完成していない施設が完成していて、沈んでいない区画が沈んでいる。
まるで、別の形になっていた迷宮が同時に現れているようだった。
「前!」
セレスティアの声で全員が顔を上げた。
本来なら壁しかないはずの通路奥。
そこが音もなく開いていく。
白灰色の壁へ、古代施設の石段が重なった。
下へ。
さらに深く。
見えないほど暗い場所へ続いている。
「こんな階段……」
セレスティアの顔が強張る。
「ありません」
「でも、方向は」
レオンが簡易地図を開き、階段の傾斜と位置を確かめた。
「最深部だ」
フィナの胸の奥に、昨日から続いていた感覚が強く響いた。
呼ばれている。
今度は、ほとんど確信に近かった。
そのとき。
暗い階段の奥から、音が響いた。
ぱち。
ぱち。
ゆっくりとした拍手だった。
誰も動かない。
学生たちは息を潜め、エルナはすぐ雷を構え、リリカも後方を守る位置へ戻る。ネムは重なりを抑えたまま階段奥を見つめ、レオンは解析札を一枚だけ前へ浮かべた。
フィナも水流を止めたまま、暗闇の先へ視線を向ける。
昨日まで存在しなかった階段の向こうから、楽しそうな拍手だけが、静かな迷宮内へゆっくり近づいてきていた。




