第二章 9 『見学だけの予定だったよね!?』
《蒼穹海淵迷宮》上層の見学は、そのまま何事もなく終わるはずだった。
少なくとも、フィナはそう思っていた。
立入禁止区画の手前で古代術式を確認したあと、一行はセレスティアの案内に従い、来た道を戻り始めている。現地学生たちも興奮した様子で見学内容について話し合い、技術者たちは後方で設備の記録を取っていた。
「結局、あの壁の向こうって何があるんだろうね」
フィナは歩きながら何度も振り返り、遠ざかっていく隔壁を見た。
「分からないから立入禁止なんだろ」
隣を歩くレオンは解析札を整理しながらも、表情から考え事が抜けていない。
「学院地下と似た規格がある以上、無関係とは思えない。ただ、今は情報が少なすぎる」
「じゃあ勝手に調べたら駄目ってことね」
エルナがフィナへ念を押すように横目を向けた。
「なんで私を見るの?」
「壁の向こうが気になる顔してるからよ」
「今日ずっと顔で行動予測されてない!?」
「当たってる」
枕型魔導具を抱えたネムが、眠そうな声で短く追撃する。
「ネムまで!」
フィナが頬を膨らませる一方で、リリカは後ろを歩きながら記録帳へ何かを書き込んでいた。
「《未知を前にしても規則を守る師匠の忍耐》……」
「まだ何も我慢してないからね!?」
フィナが振り返った、その直後だった。
足元が大きく揺れた。
「えっ?」
地面の奥から突き上げられるような振動が走り、通路の照明が一斉に明滅する。
壁へ埋め込まれた現代式の術式線が青から赤へ変わり、遠くから重い水音が響いてきた。
「全員、止まって!」
セレスティアの声がそれまでの案内役のものから、一瞬で実務担当者のものへ変わった。
現地学生たちが立ち止まり、技術者が周囲の壁面へ走る。
フィナも反射的に手を広げ、すぐ近くにいたリリカとネムの前へ半歩出た。
「何が起きたの?」
「まだ分かりません!」
セレスティアは壁面の制御術式へ手を当て、流量表示を確認する。
「上層水路、水位上昇。排水系統が反応していません」
その言葉とほぼ同時に、通路の奥から水が流れ込んできた。
最初は床を濡らす程度だった。
しかし数秒で足首まで増え、冷たい海水が見学路全体へ広がっていく。
「水、増えるの早いよ!」
フィナが足元を見下ろす。
「ネム!」
レオンが鋭く呼ぶと、ネムはすぐ眠そうな表情を消した。
「流れ、左から強い。後ろはまだ遅い」
ネムは水面へ指先を近づけ、わずかな魔力の揺れを探るように目を細める。
「戻るなら今」
「全員、昇降機側へ移動!」
セレスティアが現地学生たちへ声を張る。
「走らないでください! 前の人を追い越さない! 技術者は最後尾をお願いします!」
学生たちは不安げに顔を見合わせながらも、指示に従って動き始めた。
フィナたちも左右へ分かれる。
「リリカ、後ろの学生を見て!」
「はい!」
リリカはすぐ列の後方へ下がり、足を取られかけた学生へ手を差し出す。
「ゆっくりで大丈夫です! 前を見てください!」
エルナは列の横へ移り、壁側から流れ込む水や落下物へ目を配った。
「レオン、退路は?」
「今確認してる!」
レオンは走りながら解析札を床へ滑らせた。
淡い光が通路の術式を追っていく。
しかし数歩先で、彼の足が止まった。
「待て!」
全員の動きが止まる。
昇降機へ続いていたはずの通路。
その途中に、見覚えのない壁が立っていた。
「……こんなのあった?」
フィナが目を丸くする。
「ありません」
セレスティアの顔から血の気が引く。
「この区画は一本道です。壁が増える構造ではありません」
「増える構造って何!?」
フィナの声が上がる。
目の前には白灰色の壁があり、その中央に古びた扉のようなものまで埋め込まれている。
しかも現代式の照明ではない。
扉の縁には、最深部で見たものと似た古い魔力線が淡く光っていた。
「下がれ!」
レオンが学生たちを制止し、自分だけ数歩前へ出る。
解析札を壁へ向けると、術式光が表面を走った。
「……おかしい」
「何が?」
エルナが学生たちを背に庇いながら問いかける。
「この壁、後から出てきた形跡がない」
「でもさっきなかったんでしょ?」
「だからおかしいんだ」
レオンは視線を鋭くした。
「術式上は、最初からここに存在していたことになってる」
その瞬間、迷宮全体がもう一度大きく震えた。
壁の向こうから鈍い破砕音が響く。
「また来る!」
エルナが叫び、次の瞬間、通路脇の壁が内側から砕けた。
大量の水と一緒に、巨大な影が飛び出してくる。
「うそ……!」
リリカの息が詰まる。
現れたのは、通路いっぱいを塞ぐほどの海洋魔物だった。
青黒い甲殻に覆われた長い胴体。左右へ伸びた大きなひれが壁へ擦れ、鋭い牙の並ぶ口から海水が滴っている。
学生たちから悲鳴が上がった。
「全員、後ろへ!」
セレスティアは即座に水の壁を展開し、魔物と学生の間へ遮蔽物を作る。
エルナもその横へ踏み込み、片手へ雷を集めた。
「リリカ、学生から離れすぎないで!」
「分かりました!」
リリカは火球を作りながらも、前へ出ない。今の自分が巨大魔物を正面から倒す役ではないことを理解し、後方の守りへ徹していた。
ネムはフィナの横から魔物へ視線を向ける。
「右ひれ、動き速い。左、遅い」
「分かった!」
フィナは一歩前へ出た。
この大きさなら、すぐ倒せる。
火でも風でも水でもいい。
「フィナ、待て!」
レオンの声が飛ぶ。
「え?」
「ここで大きい魔法を撃つな!」
フィナは両手を止めた。
「でも、あれ倒さないと!」
「迷宮内だ!」
レオンは壁と天井を指差す。
「この区画は古代施設と自然迷宮が混ざってる! どこが核や支持構造につながってるか分からない! 攻撃の余波で崩れたら、学生ごと閉じ込められる!」
「じゃあ小さくする!」
「お前の小さいは信用できない!」
「ひどい!」
それでもフィナはすぐ狙いを変えた。
倒す必要はない。
動けなくすればいい。
「魔物だけ止める!」
フィナが手を向けた瞬間、風が魔物の周囲だけを包んだ。
壁も床も、学生たちの衣服も揺れない。
巨大な海洋魔物の身体だけが宙で固定され、ひれの動きまで止まる。
「今!」
エルナは魔物の動きが止まったのを確認し、雷を一点へ絞った。
広げない。
水へ流さない。
狙ったのは甲殻の隙間にある神経節だけだった。
「そこ!」
細い雷光が一線だけ走る。
魔物の身体が強く痙攣し、抵抗が弱まった。
「ネム、抑えられる?」
フィナの横でネムは一歩前へ出ると、魔物の頭部へ小さく手を向けた。
「少しだけ」
静寂の魔力が広がり、暴れていた魔物の動きがさらに鈍る。
「これなら避難できる」
レオンはすぐ学生側へ向き直った。
「倒す必要はない! 先に退路を作る!」
「ですが前は塞がっています!」
セレスティアが新たに出現した古代壁を見る。
「なら別経路を探す!」
レオンは解析札を三枚取り出し、左右と床へ飛ばした。
「フィナ、絶対に壁を壊すなよ」
「分かってるよ!」
フィナは固定した魔物を見ながら返した。
その直後、塞がれた通路の壁へ視線が滑る。
壁。
分厚い。
でもフィナなら、たぶん一瞬で穴を――
「やめろ」
「まだ何もしてないよ!?」
フィナが勢いよくレオンへ振り返る。
「考えた顔をした」
「顔で禁止されるの!?」
ネムが魔物を抑えたまま、ぼそりと付け足す。
「前科」
「未遂だから!」
「迷宮修復までした奴が言う台詞じゃない!」
レオンの突っ込みに、フィナは口を閉じた。
エルナも魔物から目を離さないまま、呆れた声を重ねる。
「むしろ壊す前提で修復できるから余計怖いのよ!」
「今回は何も壊してないでしょ!」
「まだね!」
緊張した状況にもかかわらず、現地学生の何人かが一瞬だけ困惑した顔になった。
セレスティアはその空気へ構わず、すぐ指示を続ける。
「学生は壁際へ寄ってください! 技術者二名は私と水位確認! 残りは後方を見て!」
「リリカ、列の真ん中を頼む!」
レオンの指示を受け、リリカはすぐ学生たちの中央へ移動した。
「足元の水を見てください! 転びそうな人がいたら声を出してください!」
自分の火球は消さず、照明代わりになる程度の小ささで手元へ残している。
その間にレオンの解析札が通路全体を走り終えた。
「……見つけた」
「出口?」
フィナが期待して振り返る。
「違う」
レオンの顔がさらに険しくなる。
彼は床へ投影された術式図を示した。
本来の迷宮構造を示す青い線。
その上へ、別の白い線が重なっている。
「この壁だけじゃない」
「どういうこと?」
エルナが眉を寄せる。
「通路全体に、別の構造が重なってる」
レオンは二つの図を並べるように操作した。
「俺たちが歩いてきた本来の迷宮の術式。その上に、存在しないはずの別の通路、別の壁、別の区画が後から重なってる」
「後から作られたんじゃなくて?」
セレスティアの問いに、レオンは首を横へ振った。
「違う。どっちも術式上は『元からここにあった』ことになってる」
フィナは固定した魔物を見ながら、背中に冷たいものを感じた。
さっきまでなかった壁。
突然現れた古代通路。
存在していなかったはずなのに、最初から存在していたことになっている構造。
迷宮の奥深くから、また微かな魔力の揺れが届く。
前日に感じた、呼ばれているような感覚。
それが昨日よりも、はっきり近づいていた。
水位の上がる通路の中で、二つの迷宮構造が同じ場所へ重なり始めていた。




