第二章 8 『海の底に、古すぎる魔法がある』
翌朝、フィナたちが案内されたのは、アクアレイア首都の南側にある海中施設だった。
白い円形建造物が海面から半分だけ姿を見せ、その中央には地下へ向かう巨大な昇降路が口を開けている。周囲にはアクアレイア側の学生や技術者たちも集まり、見学用の装備を確認していた。
「ここから海の底まで行くの?」
入口から下を覗き込んだフィナは、底の見えない青い光へ目を輝かせた。
「正確には、海底よりさらに下です」
セレスティアは手元の参加者名簿を確認しながら答えた。
「《蒼穹海淵迷宮》は、海底地層の内部まで広がっています。今日見学するのは上層の管理区域までです」
「迷宮なのに管理区域があるんだ」
「自然迷宮へ後から調査施設を増設していますから」
セレスティアが説明する横で、レオンは既に入口脇の術式へ顔を近づけていた。
「この昇降機、都市側の水流制御とは規格が違うな」
「そこから見るの?」
エルナは呆れた顔を向けたが、レオンは気にも留めず術式札へ目を走らせる。
「迷宮内部で通常の都市規格を使えない理由があるなら重要だ」
「まだ入口よ?」
「入口だから見るんだ」
「旅行先で建物の玄関から研究始める人、初めて見たわ」
その二人の横では、リリカが記録帳を抱えながら昇降路を見下ろしていた。
「海底迷宮……お師匠様の修行場所として非常にふさわしい響きです」
「見学だからね!?」
フィナが即座に振り返る。
「今日は壊したり、倒したり、掘ったりしないよ!」
「最後の一つだけ妙に具体的ね」
エルナが目を細めた。
「だって迷宮って聞くと、レオンが土魔法使うなって言うから」
「覚えているなら問題ない」
レオンは術式から視線を離さないまま返した。
その足元ではネムが枕型魔導具を抱え、昇降路の奥へ眠そうな瞳を向けている。
「静か」
「まだ中に入ってないよ?」
フィナが顔を寄せると、ネムは小さく首を横へ振った。
「下が、静か」
いつもの眠気混じりの声だったが、その一言だけでレオンが顔を上げた。
「魔力の話か?」
「うん」
ネムは昇降路の縁へ視線を落とした。
「流れてる。でも、途中から音がない」
「魔力に音はないでしょ?」
フィナが首を傾げる。
「ネムにはある」
「あ、そういうやつなんだ」
「そういうやつで済ませるな」
レオンはすぐ記録用紙へ一行書き加えた。
やがて全員が大型昇降機へ乗り込み、海底へ向けて降下を始めた。
透明な外壁の向こうでは、海水の色が少しずつ濃くなっていく。魚の群れが横を通り過ぎ、遠くでは大きな影がゆっくり泳いでいた。
「すごい……!」
フィナは外壁へ手をつき、暗くなっていく海を見つめた。
「昨日の水路も綺麗だったけど、こっちは本当に海の中なんだね」
「この深度になると外圧も相当なものよね」
エルナは透明壁を指先で軽く叩き、少しだけ眉を上げた。
「これ、本当に大丈夫なんでしょうね?」
「多重水圧結界があります。通常の損傷で破損することはありません」
セレスティアが即答したあと、ほんの少し間を置いてフィナへ視線を向けた。
「ただし、内側から強い魔法を使用しないでください」
「私見たよね!?」
「念のためです」
「今、完全に私だけ見てたよ!」
フィナが抗議する横で、ネムは透明壁越しに泳ぐ魚を見つめた。
「魚が困る」
「しないよ! 前回それでやめたから!」
その返事に、レオンとエルナが同時にフィナへ顔を向けた。
「前回?」
「やめたから大丈夫!」
「何をしようとしたのか今ここで説明しろ」
「海を少し持ち上げようとしただけ!」
「その話を海底で思い出させるな!」
レオンの声が昇降機内へ響き、周囲の現地学生たちが一斉にフィナを見る。
フィナは笑顔のまま、そっと視線を外へ逃がした。
「……今日は見学に集中しよう」
「今決めるな!」
そんな騒ぎのあと、昇降機は海底施設へ到着した。
扉の向こうに広がっていたのは、フィナが第一章で経験した迷宮とはまるで違う空間だった。
自然洞窟らしい岩肌の間へ、巨大な白灰色の柱や壁が入り込んでいる。床には古い石材で作られた直線的な通路が続き、その一部を後世の金属製足場や照明設備が覆っていた。
「迷宮っていうより、遺跡みたい」
フィナは通路の天井を見上げた。
「その認識で近いです」
セレスティアは先頭を歩きながら、壁面の古い区画を示した。
「元々ここには自然迷宮がありました。ただ、調査が進むにつれて内部から人工構造物が発見されたんです」
「誰が作ったかは?」
「不明です」
セレスティアの返答に、レオンの足が止まった。
彼は壁面へ埋め込まれた黒ずんだ金属板へ近づき、埃を払うことなく表面の線だけを目で追う。
「これ……」
「何かあった?」
フィナが横から覗き込むと、レオンは表情を変えずに片手を上げた。
「触るな」
「まだ触ってないよ!」
「触りそうな距離だ」
「顔どころか距離でも禁止されるようになった!」
フィナが一歩下がる間に、レオンは術式札を取り出した。
現代式の解析術式が淡い光を放ち、古い金属板の表面をなぞる。
だが、術式同士が噛み合わない。
「読めない」
レオンの声から、いつもの余裕が少しだけ消えた。
「解析できないんですか?」
リリカが驚いたように彼の手元を見る。
「全部じゃない。ただ、基礎構造が現代式と違う。外周の接続方法も……かなり古い」
レオンは別の術式を重ね、今度は金属板ではなく壁内部の魔力経路を調べた。
青い解析光の先で、古代術式の一部だけがぼんやり浮かび上がる。
「やっぱり人工だ。それも、後から迷宮へ組み込んだんじゃない。迷宮側がこの施設を飲み込んだような構造になってる」
「そこまで分かるんだ……」
フィナは感心しながら壁を見た。
その瞬間。
胸の奥に、かすかな違和感が走った。
「……ん?」
誰かに呼ばれたような気がした。
声ではない。
音でもない。
けれど、遠い場所から「こっち」と引っ張られたような感覚だけが残る。
「フィナ?」
エルナがすぐに表情の変化へ気づいた。
「どうしたの?」
「分かんない」
フィナは通路の奥へ視線を向けた。
「今、何か……呼ばれた気がした」
「呼ばれた?」
レオンの顔が壁からフィナへ移る。
「誰にだ」
「それが分からないの。声じゃなくて……なんて言えばいいんだろ」
フィナは胸元へ手を当てた。
学院地下で黒い紋章や古代施設に近づいたときとは、少し違う。
でも完全に知らない感覚でもなかった。
「奥の方から、何かある感じ」
その言葉を聞いたネムが、眠そうだった目を少しだけ開いた。
「同じ方向」
「ネムも?」
「静かなところ」
ネムは通路奥へ指を向けた。
セレスティアの表情がわずかに硬くなる。
「この先には下層へ続く区画があります。ただし、今日の見学範囲ではありません」
「何かあるんですか?」
エルナが尋ねると、セレスティアは少し迷ってから答えた。
「過去に何度か、原因不明の水流異常が発生しています」
彼女は壁の古い施設へ視線を向けた。
「都市側の水路が正常でも、この迷宮周辺だけ水圧や流れが変化することがあります。大きな被害はありませんが、原因は特定できていません」
「発生地点は?」
レオンがすぐ問い返す。
「下層です。特に最深部付近」
その一言で、フィナたちの視線が奥へ集まった。
通路の先には、分厚い隔壁がある。
表面には現代式の立入禁止表示と、複数の封鎖術式が重ねられていた。
「最深部へは入れません」
セレスティアははっきりと告げた。
「調査許可を持つ技術者でも、特別な理由がない限り立入禁止です。皆さんもここから先へ近づかないでください」
「分かった」
フィナは素直に頷いた。
それでも視線だけは、隔壁から離れなかった。
壁の向こう。
ずっと遠く。
そこに大きな何かがある。
フィナには、それが魔力なのだと感覚的に分かった。
「……強い」
「何が?」
リリカが隣から見上げる。
「魔力。壁のずっと向こうにある」
フィナの言葉で、レオンが隔壁へ近づいた。
封鎖術式そのものには触れず、少し離れた壁面へ解析札をかざす。
「待て」
浮かび上がった線を見た瞬間、レオンの眉が寄った。
「これ、見たことがある」
「どこで?」
エルナが声を落とす。
「学院地下だ」
レオンは解析光の中に現れた古い接続線を指先で追った。
「完全に同じじゃない。けど、魔力経路の接続規格が似てる。前に見た古代施設の術式と、根っこの部分が同系統だ」
フィナの胸の奥に残っていた違和感が、少しだけ重くなった。
学院地下と、海を越えた別の国の海底。
遠く離れた二つの場所に、似た古い魔法が残っている。
明るい見学だったはずの空気が、そこで初めて静かに変わった。
その頃。
見学区域から遥か下。
立入禁止区画よりさらに深い、誰もいない最深部。
照明も失われた古代施設の中央で、一人の青年が暗闇の中へ立っていた。
幼さを残した顔には場違いなほど無邪気な笑みが浮かび、足元では古びた術式線が淡く明滅している。
遠くから伝わってきた何かを感じ取ったように、青年はゆっくり顔を上げた。
「——やっと来た」
静まり返った古代施設の奥で、その楽しげな声だけが小さく響いた。




