第二章 7 『海の市場で普通に買い物したいだけ』
都市水流制御施設の見学を終えた午後、フィナたちには夕方までの自由時間が与えられた。
向かったのは、到着初日からフィナが気にしていた水上市場だった。海上へ張り出した広い通りの両側には色鮮やかな天幕が並び、その向こうでは透明な水路が何本も交差している。水面から吹く潮風へ、焼いた魚や香辛料の匂いが混ざって流れてきた。
「自由時間だよ!」
市場の入口へ着いた瞬間、フィナは両手を広げた。昨日まで見学先では一応抑えていたらしい声が、一気に明るくなる。
「だからって勝手に走らないでよ」
エルナは早くも前へ出ようとするフィナの肩を掴み、そのまま自分の横へ戻した。
「国外で迷子になったら洒落にならないんだから」
「王都では一回しか迷子になってないよ?」
「一回あれば十分よ!」
エルナの声に、隣を歩いていたセレスティアが少しだけフィナへ視線を向けた。
「……王都で迷子になったことが?」
「学院行く途中にちょっとだけ」
「初日に」
レオンが正確な情報を追加すると、フィナは勢いよく彼へ振り返った。
「そこまで言わなくていいでしょ!」
「事実だ」
「国外案内役への情報共有として必要なの!?」
「再発防止には必要だ」
「市場で国家安全保障みたいに扱わないで!」
フィナが抗議している間にも、リリカはその会話を熱心に聞いていた。
「つまり師匠は、失敗を隠さず次へ活かすことの大切さを――」
「違うよ!? 今、私の失敗が勝手に教材化されてるだけだから!」
その横では、ネムがフィナの袖を掴んで歩いている。眠そうな顔のまま市場の人混みへ視線を向け、自分だけは迷子にならない方法を既に確保していた。
「ネム、それ私が迷ったら一緒に迷うよ?」
「その時は寝る」
「解決する気ない!」
五人の騒がしさを先頭で聞きながら、セレスティアは一度振り返った。
「市場内は水路が多く、同じような通りもあります。離れないでください」
「はい!」
フィナが誰より元気よく返事をしたため、エルナがさらに肩を掴む力を強めた。
「返事だけは本当にいいのよね……」
市場の中央へ進むにつれて、並ぶ品物も一気に増えていった。
大きな魚が氷の上へ丸ごと並べられた店。その隣には透明な殻を持つ貝や、青白く光る海藻が水槽へ収められている。さらに先では、海洋魔物の鱗や牙を加工した魔導素材が整然と吊るされていた。
「これ全部魔物なの?」
フィナは青緑色の大きな鱗へ顔を近づけた。
「こちらは海洋魔物から採取された素材です。水属性術式との相性がよく、防水加工や魔導船の外装にも使われます」
セレスティアが説明すると、レオンがすぐに鱗の表面へ視線を寄せる。
「天然の魔力膜が残ってるな。加工後も水流抵抗を減らせるのか?」
「種類によります。高品質なものなら術式を追加せずとも一定の効果があります」
「素材自体が術式補助になるのか……」
レオンの足が完全に止まった。
エルナは数歩進んだあと、それに気づいて振り返る。
「レオン、買い物よ?」
「見ているだけだ」
「昨日から全部それで止まってるじゃない!」
「せっかく他国へ来たんだ。現地素材を見るのは有意義だろ」
「じゃあ一店舗につき五分まで!」
「どういう規則だ」
「あなたに任せたら日が暮れるからよ!」
エルナが強引にレオンを先へ押し出す横で、フィナの注意は既に別の店へ移っていた。
「いい匂いする!」
屋台では小さな魚介を串へ刺し、表面へ薄い衣を付けて焼いていた。その隣の鍋からは、白い湯気と一緒に濃い香りが立ち上っている。
「フィナ、さっき昼食食べたでしょ」
「自由時間のお腹は別だよ」
「そんな分類聞いたことないわよ!」
「旅先補正」
ネムが眠そうな声で補足した。
「ネムまで!?」
「でも、少し分かります……!」
リリカが真剣な顔で頷き、エルナは味方が減っていく現実に額を押さえた。
結局、六人は屋台の横に並んだ小さな席へ座ることになった。
フィナの前には、焼いた白身魚へ香草と柑橘を添えた料理と、海藻を練り込んだ薄いパンが置かれている。
「おいしい!」
一口食べた瞬間、フィナの顔がぱっと明るくなった。
「魚ふわふわ! これ、ソースもおいしい!」
「水分を残して表面だけ高温で焼いてるな」
向かいに座るレオンは、自分の皿を見ながら分析を始めていた。
「加熱前に塩分を利用して内部の水分移動を調整してるのかもしれない」
「食べなさいよ」
エルナが呆れた顔でレオンを見る。
「食べている」
「昨日も聞いたわ、その返事!」
「料理法も魔法技術と無関係じゃない。アクアレイアでは水分制御が生活文化にまで――」
「料理を論文にするのやめなさい!」
レオンが反論しようとしたところで、ネムが小さな一切れを口へ入れた。
「おいしい」
「ほら、ネムを見習って普通に食べなさい!」
「感想が一語しかないだろ」
「あなたは多すぎるのよ!」
エルナとレオンがまた言い争う一方、リリカはフィナの食べ方を見つめていた。
「フィナ師匠、そんなにおいしいんですか?」
「うん! リリカも食べる?」
「はい!」
フィナから分けてもらった一口を食べたリリカは、少し驚いたあと大きく頷いた。
「本当です! これは……旅先では未知のものへ恐れず挑戦するべきという――」
「食事に教訓つけなくていいよ!」
フィナの突っ込みが飛び、セレスティアもとうとう小さく笑った。
食事を終え、さらに市場の奥へ進んだときだった。
「……あ」
フィナの足が止まった。
小さな水槽の中に、手のひら二つ分ほどの海魔物がいた。
丸い身体は淡い水色で、短いひれが四枚。頭の上には小さな角のような突起があり、泳ぐたびに頬の横から細かな泡を吐いている。
フィナと海魔物の目が合った。
海魔物が水槽の内側へ近づく。
フィナも近づいた。
「……可愛い」
その声を聞いた瞬間、レオンが顔を上げた。
「フィナ」
「まだ何も言ってないよ!?」
「顔で分かる」
「また!?」
フィナは抗議したものの、すぐ水槽へ戻り、指先をガラスへ当てた。
小型海魔物がその指を追うように泳ぐ。
「連れて帰りたい」
「駄目」
エルナが一秒も迷わず答えた。
「まだ相談してない!」
「今したでしょ!」
「ちゃんとお世話するよ?」
「学院に海水の水槽置くつもり!?」
エルナが両手を腰へ当てる横で、レオンはもう別の方向へ動いていた。水槽脇に表示された飼育情報を読み込み、真剣な顔で条件を確認している。
「水温管理が必要。水質変化に弱い。成体になると今の三倍程度……餌は小型甲殻類か専用飼料」
「レオン、飼える?」
フィナが期待に満ちた目を向ける。
「まだ確認しているだけだ」
「確認する時点で駄目でしょ!」
エルナが驚いてレオンへ振り返る。
「止める側じゃなかったの!?」
「飼育可能かどうかを判断するには条件確認が先だ」
「そこから検討しなくていいのよ!」
さらにリリカまで水槽の前へしゃがみ込んだ。
「弟弟子ですね……!」
「違うよ!?」
「フィナ師匠から教えを受けるなら、私の弟弟子に――」
「魔物に初級火魔法教えないでね!?」
「まず礼儀からです!」
「何の門下なの!?」
騒ぐ二人の横から、ネムが水槽へ顔を近づけた。
小型海魔物がひれを動かし、ぽよんと水面近くへ浮かぶ。
「柔らかそう」
「でしょ!」
フィナが嬉しそうに振り返る。
「枕にいい」
「用途が違う!」
ネムは真剣な目で海魔物の丸い身体を観察している。
「濡れるぞ」
レオンが冷静に指摘した。
「乾かす」
「生きてるからね!?」
フィナが今度はネムを止める側へ回った。
「とにかく駄目よ!」
唯一、常識を守ろうとしているエルナが全員の前へ立った。
「旅行先で生き物を見つけたからって、その場の勢いで飼うものじゃないでしょ! 環境も餌も必要なんだから!」
「エルナ正しい……」
フィナは名残惜しそうに水槽を見る。
「そうよ。だから見るだけに――」
小型海魔物が、エルナの方へ泳いできた。
水槽の前で止まり、小さなひれを二度ぱたぱた動かす。
エルナの声が止まった。
海魔物が泡を一つ吐いた。
「…………」
「エルナ?」
フィナが横から顔を覗き込む。
「……絶対飼わないからね」
「うん」
「でも、名前付けるなら……青いし、ルルとか――」
沈黙。
エルナの表情が固まった。
ネムがゆっくり顔を上げる。
「名前、考えた」
「考えてない!」
「今言ったよね!?」
フィナの顔が一気に明るくなる。
「違うわよ! 仮定! 仮定の話よ!」
「ルル、可愛いです!」
リリカまで勢いよく賛成する。
「だから名前じゃない!」
「もう名前になった」
ネムの追撃に、エルナの顔が赤くなっていく。
「ならない! 絶対飼わない! 連れて帰らない! ルルでもない!」
そこまで否定してから、エルナははっと口を閉じた。
全員が見ていた。
「……何よ」
「三回目」
ネムの一言で、エルナはとうとう両手で顔を覆った。
結局、小型海魔物は連れて帰らないことになった。
市場を離れる頃には、空が茜色へ変わり始めていた。
海上広場から見渡すアクアレイアは、昼とはまるで違う姿を見せている。空中水路の内側では青白い魔鉱石が光り始め、その光が泳ぐ魚の影を夕空へ映していた。
「綺麗……」
フィナは手すりへ両腕を置き、遠くまで続く海を眺めた。
隣ではリリカが今日買った小さな魔導雑貨を大事そうに持ち、ネムはフィナの肩へ身体を預けている。レオンも今だけは記録を止め、エルナは夕日に照らされた街並みを静かに見つめていた。
「明日は《蒼穹海淵迷宮》ですね」
セレスティアの声に、フィナは振り返った。
「海の底の迷宮……」
昼間の市場で見たものとは違う期待が、胸の奥で膨らんでいく。
その時点ではまだ、五人にとって《蒼穹海淵迷宮》は、初めて訪れる外国で体験する次の珍しい見学先にすぎなかった。
青白い光を灯し始めた水路の下で、五人は明日も今日と同じように騒がしく、楽しい一日が続くものだと疑っていなかった。




