第二章 6 『百年の術式と、三秒のフィナ』
翌日の見学先は、アクアレイア首都中央部にある都市水流制御施設だった。
白い外壁に囲まれた巨大な円形施設の内部では、透明な水路が何層にも重なっている。頭上を流れるもの、床下を走るもの、壁の向こうへ消えていくものまであり、その一本一本へ青白い術式線が絡みついていた。
「全部、街の水路につながってるの?」
フィナは吹き抜けの中央から上を見上げ、何層先まで続く水流を目で追った。
「はい。生活用水、交通用水路、昇降機、港湾設備、発電施設まで、首都の主要水流はここで管理されています」
案内を担当するセレスティアの声には、昨日の実習時とは違う明確な自信があった。
中央制御台へ近づくにつれ、壁面を覆う術式の密度も増していく。複雑な円環や数式のような記号が幾重にも組み合わさり、その一部は床から天井まで届いていた。
「これ、一個の魔法?」
フィナが信じられないものを見るように尋ねると、セレスティアは巨大術式の中央へ視線を向けた。
「元は一つです。ただし百年以上、改良と追加を重ねています」
「百年!?」
フィナの声が施設内へ響いた。
その瞬間、隣にいたレオンの反応が変わった。
「百年分の改修履歴が残っているのか?」
「当然です。変更理由、失敗例、事故記録、旧術式との差分も保存されています」
「全部?」
「全部です」
レオンの深青の瞳が、明らかに輝いた。
嫌な予感を覚えたエルナが横から覗き込むと、彼は既に記録用紙を取り出し、壁面術式の構造を追い始めている。
「あなた、旅行先でもそれなの?」
「旅行じゃない。国外実習だ」
「そういう意味じゃないのよ!」
エルナが呆れて肩を落とす横で、ネムは壁際の長椅子へ腰を下ろし、枕型魔導具を抱えたままレオンを眺めていた。
「趣味」
「研究だ」
レオンは即座に訂正したものの、視線は術式から一度も離れていない。
「趣味」
「だから研究だ」
「楽しそう」
「研究だからな」
「趣味」
「結論を固定するな!」
ようやくレオンが振り返ると、ネムは既に目を閉じていた。
その横でリリカは猛烈な勢いで記録帳へ書き込んでいる。
「百年……! 一つの魔法を百年かけて磨き続けるなんて、すごいです!」
「そこは私もすごいと思う」
フィナは今度こそ真面目な顔で巨大術式を見上げた。
「私だったら途中で絶対分からなくなる」
「途中どころか最初から分かってないでしょ」
エルナの指摘に、フィナは反論しようとして口を開いた。
しかし壁一面の術式をもう一度見て、静かに閉じた。
「……うん」
「素直ね!?」
セレスティアはそんな五人を少しだけ困った目で見たあと、中央制御台へ手を置いた。
「この術式の重要な点は、誰か一人の才能に依存していないことです」
彼女が操作すると、施設中央の立体投影へ都市全体の水路網が浮かび上がった。
何百本もの青い線が街中へ伸び、それぞれに流量、圧力、水位を示す数字が表示されている。
「百年前の術式を、そのまま使っているわけではありません。事故があれば改良する。人口が増えれば調整する。新しい施設ができれば接続する。そうして、誰が担当しても同じように都市を支えられる形へ変えてきました」
セレスティアは手元の術式へ視線を落とした。
「一人の天才がいなくなった瞬間、街が止まるようでは困りますから」
フィナは何も言わず、立体投影された水路網を見つめた。
昨日、「技術とは呼べない」と言われた意味が、ほんの少しだけ分かった気がした。
そのときだった。
制御台の一角で、警告音が鳴った。
青かった一部の術式線が黄色へ変わり、都市西側を示す水路の数字が急激に上昇していく。
「流量異常?」
レオンが即座に記録を止め、表示へ近づいた。
「第三高架水路です」
セレスティアの表情から柔らかさが消えた。
周囲にいた技術者たちもすぐに制御台へ集まり、それぞれ担当部分の術式を操作し始める。
「流入量が規定値を十二パーセント超過。下流側の調整弁は?」
「反応しています。ただ、第二分岐の圧力が追いついていません」
「第四水路へ迂回を。発電区画への供給は一時低下させて構いません」
セレスティアは次々と指示を出しながら、自身も術式へ魔力を流した。
立体投影の中で、一本の水路が赤く染まっていく。
「危ないの?」
フィナは騒がしくなった制御台から少し離れた位置で、邪魔にならないよう様子を見ていた。
「直ちに都市へ被害が出る状態ではない」
レオンは数値を追いながら答えた。
「ただ、このまま流量が増えれば自動制御だけじゃ抑えきれなくなる。別水路へ流す必要があるな」
「別水路……」
フィナは投影図をじっと見た。
赤くなった一本の水路。
そのすぐ横には、青いまま余裕のある別の水路が走っている。
技術者たちは術式を通じて流量を少しずつ調整していたが、複数の分岐を経由するため時間がかかっているらしい。
「こっちへ流したら早いんじゃない?」
フィナは何気なく、赤い水路の隣を指差した。
「はい。そのために今、第四分岐を――」
セレスティアが説明を続けようとした、その瞬間だった。
フィナの指先がほんの少し動く。
彼女の中では、本当にそれだけだった。
多すぎるなら、余っている方へ移せばいい。
次の瞬間、施設全体を通していた水音が変わった。
「え?」
セレスティアの手が止まる。
立体投影の赤い線から、余分な水だけが隣の水路へ移っていた。
分岐術式を通った形跡はない。
圧力調整弁も動いていない。
それでも増えすぎていた水量だけが、まるで最初からそちらへ流れる予定だったかのように移動している。
数秒後。
警告表示が消えた。
施設内に静けさが戻った。
「……直った?」
フィナだけが、周囲の反応を不思議そうに見回した。
技術者たちは誰も動かなかった。
中央制御台の表示は完全に正常値へ戻っている。
レオンだけが驚くより先に記録器具を取り出し、異常な勢いで数値を書き始めた。
「三秒もかかってない……分岐術式は作動してない。水路間の接続もないのに、移動前後で総水量は一致してる……」
「レオン先輩、今のも記録できるんですか!?」
リリカが期待を込めて横から覗き込む。
「結果だけならな!」
「また結果だけなんだ……」
フィナが少し申し訳なさそうに笑う一方で、セレスティアは動かなかった。
百年以上かけて作られた術式。
何世代もの技術者が事故を記録し、修正を加え、安全に水を流す方法を積み重ねてきた。
それを目の前の少女は、三秒もかけずに飛び越えた。
「セレスティア?」
フィナの声で、彼女はようやく顔を上げた。
「……どうして」
「え?」
「どうして、そんなことができるんですか」
声は怒っていなかった。
それでも昨日より硬い。
「接続術式も、圧力制御も使っていません。流れを変えれば、普通は別の場所へ負荷がかかるはずです。それなのに何も起きていない」
「うーん……」
フィナは投影図を見てから、自分の手へ視線を落とした。
「多いところから、少ないところに水を動かしただけだよ?」
「それができないから、百年かけてこの術式を作ってきたんです」
施設内の空気が少しだけ重くなった。
エルナが何か言おうとフィナへ顔を向けたが、フィナ自身はセレスティアの表情を見つめていた。
そこでようやく気づいた。
セレスティアは自慢していたのだ。
この国を支えている魔法を。
百年かけて作られた術式を。
自分たちが受け継ぎ、今も守っているものを。
「……あ」
フィナは少しだけ眉を下げた。
「ごめん。勝手にやっちゃった」
「いえ。異常を解消していただいたこと自体は助かりました」
セレスティアはそう返したが、視線は巨大術式から離れなかった。
「ですが、あなたなら……この施設そのものが必要ないのかもしれませんね」
フィナは一瞬、意味を理解できなかった。
それから巨大な術式と、施設で働く技術者たちを見回した。
「え? なんで?」
あまりにも素直な疑問だった。
セレスティアがフィナへ顔を向ける。
「あなた一人なら、術式を使わず水を動かせるからです」
「でも私にしかできないなら、みんなは困るよね」
フィナは不思議そうに首を傾げた。
セレスティアの目が僅かに見開かれる。
「私がずっとここにいるわけじゃないし、寝てるときもあるし、ご飯食べてるときもあるし」
「師匠なら食事中でもできます!」
リリカが勢いよく割り込んだ。
「そこは今どうでもいいよ!」
フィナはすぐにリリカへ突っ込み、それから再びセレスティアへ向き直った。
「それに、私がやったことって、私しかやり方分からないんでしょ?」
「……そうです」
「じゃあ、セレスティアたちの方法なら、みんな使えるんでしょ?」
フィナは巨大術式を見上げた。
「百年かけて直して、誰でもちゃんと水を流せるようにしたんだよね?」
「はい」
「それなら、そっちの方がすごいと思うけど」
セレスティアは何も返さなかった。
フィナは気まずくなったのか、頬を軽く掻いた。
「私が今やったのって、困ってたからちょっと動かしただけだし」
隣でエルナが眉を上げる。
「国の水路を三秒で直して『ちょっと』って言うのやめなさいよ」
「今回は壊してないでしょ!」
「そこを基準にするな!」
レオンまで記録用紙から顔を上げた。
その横でネムが枕を抱き直し、正常値へ戻った水路表示を眺める。
「フィナ、応急処置」
「そう! それ!」
自分の言いたかった言葉を見つけてもらい、フィナは嬉しそうにネムを指差した。
「セレスティアたちは、ずっと使えるようにする人」
「……ネム、今のすごく分かりやすい」
「眠いから短い」
「理由が台無し!」
緊張していた空気が少しだけ緩む。
セレスティアはその中で、改めてフィナを見た。
昨日までは、理解できない魔法を使う危険な人物だと思っていた。
今も理解できないこと自体は変わらない。
けれど、目の前の少女は自分の力だけを価値あるものだとは考えていなかった。
できることと、残せるもの。
一人でできることと、誰もが使えるもの。
その違いを、難しい理論ではなく当たり前のように分けて考えている。
セレスティアの視線が、巨大水流術式からフィナへ静かに戻る。
そこに浮かんでいたのは、昨日までの警戒だけではなかった。
理解不能な危険人物を見る目ではなく、自分とはまったく違う場所から魔法を見ている一人の魔法使いを、初めて真正面から見ようとする眼差しへ変わり始めていた。




