第二章 5 『お水に名前って必要なの?』
アクアレイアへ到着した翌朝。フィナたち五人は、国際魔導技術交流会の事前説明を受けるため、海洋研究塔の一室へ集まっていた。
大きな窓の向こうには、昨日見た空中水路が何本も都市上空を走っている。透明な水の中を魚の群れが泳ぎ、そのさらに奥では巨大な魔導船がゆっくり港を離れていた。
「説明中に外ばかり見ないでください」
正面に立つセレスティアから静かに注意され、フィナは窓へ向けていた顔を慌てて戻した。
「ご、ごめん。魚がすごく近く通ったから」
「昨日も見ましたよね?」
「昨日とは違う魚だったよ?」
理由になっているつもりのフィナを見て、セレスティアの眉間へ小さなしわが寄る。
隣のエルナは机へ肘をつかないよう姿勢を正しつつ、小声でフィナへ囁いた。
「初日から案内役を困らせないの」
「でも青かったんだよ。昨日の丸いのと違って細長くて――」
「魚の報告を続けない!」
エルナの声が少し大きくなり、今度は彼女までセレスティアから見られることになった。
向かいではレオンが既に資料を開き、説明開始前から各頁へ細かな印を書き込んでいる。その横でリリカは新しい記録帳を用意し、ネムは机へ枕型魔導具を置いて、いつでも寝られる体勢を完成させていた。
「では改めます」
セレスティアは一度呼吸を整え、壁面に投影された術式図へ手を向けた。
「今回の交流会では、両国の学生による基礎魔法制御技術の比較、都市魔導技術の見学、共同実習を予定しています。アクアレイアでは特に、水属性魔法の再現性と安全性を重視します」
投影図には、一つの水球を生成するだけとは思えないほど複雑な術式が描かれていた。
円環状の術式の外側には細かな記号が何重にも並び、その一つ一つに数値が割り振られている。
「これ、全部お水を出すため?」
フィナが思わず身を乗り出す。
「正確には、指定条件を満たした水を生成するための術式です」
セレスティアは指先で術式の一部を示した。
「生成量。純度。温度。圧力。発生位置。流速。飲用を前提とする場合は不純物除去、細菌性魔力反応の排除、保存時間も設定します」
「お水一杯に?」
「お水一杯だからこそです」
即答されたフィナが目をぱちぱちさせる。
「毎回そんなに考えるの、大変じゃない?」
「毎回考えなくて済むよう、術式として規格化するんです」
セレスティアの声には、昨日までとは違う明確な誇りがあった。
「誰が使っても、同じ条件なら同じ結果になる。失敗した場合も原因を追跡できる。魔法は、個人の感覚だけに依存してはいけません」
「なるほど……」
フィナは分かったような、半分ほど置いていかれたような顔になる。
その横でレオンは、完全に別の意味で目を輝かせていた。
「生成量と圧力制御を同じ基礎術式に統合しているのか。しかも純度指定が後付けじゃない。最初から生成条件に含めている……」
「分かるの?」
フィナが恐る恐る覗き込むと、レオンの記録用紙は既に半分以上埋まっていた。
「面白い。セレフィア式は生成と調整を分ける場合が多いが、これは最初から最終状態を定義してる」
「細かい人が増えた……」
エルナが遠い目で呟いた。
「増えていない。俺は元からいる」
「そういう意味じゃないのよ!」
そのやり取りを聞きながら、リリカは猛烈な勢いで記録帳へ書き込んでいた。
「水一杯にもこれほどの理論が……! フィナ師匠の教えを理解するためにも、私も学ばなくては!」
「私そこまで考えて水出してないよ?」
フィナが正直に告白した瞬間、リリカのペンが止まった。
「考えずして最適解へ……!」
「そういう方向へ行かないで!」
机の端では、ネムが術式図を半分閉じた瞳で眺めていた。
「水なのに、文字多い」
「術式です」
セレスティアが律儀に訂正する。
「飲む前に眠くなる」
「読むためのものではありません」
「なら、寝る」
「そういう結論でもありません!」
少しずつ説明会の主導権を失い始めたセレスティアが、とうとう声を大きくした。
その後、場所を隣接する実習室へ移した。
中央には魔法制御用の台が並び、その上には透明な容器と複数の測定魔導具が設置されている。周囲には交流会へ参加するアクアレイア側の学生たちも集まり、フィナたちへ興味深そうな視線を向けていた。
最初に実演した現地学生は、杖の先へ淡い青色の術式を展開した。
短い詠唱のあと、空中へ拳大の水球が生まれる。
水球は一滴もこぼれることなく透明容器へ落ち、測定魔導具が順番に光った。
「生成量、二百五十。温度十五。純度規定内。圧力変動なし」
セレスティアが結果を確認し、学生へ小さく頷く。
「これがアクアレイア式の基礎生成です。初級魔法ですが、実用では精度を最優先します」
「綺麗だね」
フィナが素直に感心すると、実演した学生は少し照れたように笑った。
「フィナ師匠ならもっとすごいお水を……!」
すぐ隣でリリカが期待を膨らませたため、フィナは慌てて手を振った。
「普通のでいいからね!? 今日は普通のお水にするから!」
「その宣言が既に不安なのよ」
エルナが腕を組み、測定台の周囲を確認する。
「壊さないでよ。昨日、他国では大規模魔法禁止って念押しされたばかりなんだから」
「水一杯で何を壊すの!?」
「あなたの場合は分からないから言ってるの!」
レオンも測定器を確認しながら、フィナへ視線だけ向けた。
「生成量は容器一杯分。それ以上は出すな。温度も指定範囲内。圧力を加える必要はない」
「分かった。普通のお水ね」
「その『普通』が一番信用できない」
「もう!」
フィナが頬を膨らませたところで、セレスティアが測定台の前へ促した。
「では、フィナさんもお願いします。使用する魔導具はこちらから選べます」
「いらないよ」
フィナは軽く首を振った。
「杖は?」
「持ってるけど、なくても大丈夫」
「詠唱補助は?」
「しないよ?」
セレスティアの手が止まった。
「……無詠唱ですか?」
「うん」
「術式展開はどこに?」
「術式?」
フィナが首を傾げる。
セレスティアの視線がゆっくりレオンへ移った。
「本当にない」
レオンは既に記録器具を構えていた。
「少なくとも、俺たちが確認できる形では」
「それでどうやって発動を?」
「俺もそれを記録している」
「記録できていないということですか?」
「結果だけは大量にある」
会話が進むほどセレスティアの表情が硬くなっていく。
「では……お願いします」
「うん」
フィナは透明容器へ手を向けた。
難しいことは考えない。
飲めるくらいの量で、冷たすぎず、普通においしい水。
「——お水」
ただそれだけだった。
術式は現れない。
魔法陣も、詠唱も、杖の光もない。
次の瞬間には、透明容器の中へ水が満たされていた。
水面はぴたりと指定線で止まり、一滴も外へこぼれていない。
実習室が静まり返った。
「……終わり?」
フィナが周囲を見回す。
セレスティアは答えず、すぐ測定魔導具へ向かった。
「生成量……指定値と完全一致」
別の測定器へ手を移す。
「純度……基準値上限。異物反応なし」
さらに温度計測術式が光る。
「温度十五度……誤差、測定限界以下」
アクアレイア側の学生たちから、小さなどよめきが起こった。
フィナは容器の水を覗き込み、少し安心したように笑った。
「よかった。ちゃんと普通のお水だった」
「普通ではありません」
セレスティアの声は即座に返ってきた。
隣ではレオンのペンが紙を削りそうな勢いで動いている。
「発動前の魔力収束なし。術式展開なし。生成位置の揺らぎもない。指定したわけでもないのに量と温度が測定値へ一致……」
「レオン、楽しそうだね」
「今話しかけるな」
「ひどい!」
フィナが口を尖らせている間にも、セレスティアは水と測定結果を何度も見比べていた。
「正式名称は?」
「お水」
「術式名です」
「……冷たいお水?」
「温度の話ではありません!」
セレスティアの声が実習室へ響いた。
フィナはびくりと肩を揺らし、隣のエルナへ助けを求めるような視線を向ける。
「だから昨日から言ってるでしょ。ここでは名前も分類も重要なのよ」
「でも、お水はお水だよ?」
「そういうところが問題なの!」
「待て」
その横で、レオンが急に顔を上げた。
嫌な予感を覚えたエルナが即座に彼へ向き直る。
「何よ」
「名称がないなら、記録上は仮称が必要だ」
「やめなさい」
「まだ何も言っていない」
「その顔は絶対考えてる顔なのよ!」
レオンは既に余白へ何かを書き始めていた。
「水属性、無術式生成、完全純化、定量固定……漢字表記なら――」
「今ここで命名会を始めない!」
エルナが記録用紙を押さえ、レオンが取り返そうとする。
「正式記録には必要だ!」
「ただの水一杯で大技みたいな名前付けたら余計ややこしくなるでしょ!」
「師匠の新たな魔法名……!」
リリカだけが両手を胸の前で握り、期待に満ちた目を向けていた。
「リリカも期待しないで!」
フィナは両側で始まった争いに挟まれ、困り切った顔で水の入った容器を抱えた。
その横ではネムが水面を見つめている。
「飲める?」
「飲めると思うよ」
「じゃあ名前、いらない」
「ネムだけ分かってくれた!」
「記録上は要る!」
「だから今は増やさないでって言ってるのよ!」
騒がしくなる五人を前に、セレスティアだけは笑わなかった。
彼女は測定結果をもう一度確認したあと、ゆっくりフィナへ視線を戻した。
「フィナさん」
声の調子が変わったことで、レオンとエルナの言い争いも止まる。
セレスティアは容器の中の水を示した。
「この結果が優れていることは認めます。むしろ、私たちの基準では異常なほど完璧です」
「じゃあ成功?」
フィナが少し明るい顔をする。
「魔法としては、そうかもしれません」
セレスティアは言葉を選ぶように一度息を整えた。
「ですが、誰にも再現できない。術式も分からない。失敗条件も分からない。なぜ成功したのかすら説明できない」
先ほどまでの困惑ではない。
水流管理へ関わる者としての、真剣な警戒がその瞳に宿っていた。
「もしあなたが間違えたとき、周囲の誰も止め方を知らないということです」
フィナの笑顔が少しだけ薄くなる。
セレスティアは視線を逸らさなかった。
「あなたの魔法は、技術とは呼べません」
透明な容器の中では、何の濁りもない完璧な水だけが、静かに光を反射していた。




