第二章 3 『海上列車と、持ち上げてはいけない海』
学院を出発してから数時間後。フィナたち五人を乗せた海上魔導列車は、セレフィア王国南東の沿岸駅を離れ、青く広がる海の上へ滑り出していた。
車体の左右には大きな窓が並び、その向こうには遮るもののない水平線が続いている。海面へ落ちた朝の光が無数の粒となって揺れ、列車が進むたび、白い波が線路の両側へ長く伸びていった。
「うわあああ……!」
窓へ張りつくように身を乗り出したフィナは、琥珀色の瞳をこれ以上ないほど輝かせていた。淡い桃茶色の髪が頬へかかるのも気にせず、右を見て、左を見て、また正面へ戻る。
「海! ずっと海だよ!」
「海上列車なんだから、途中で急に森になったら困るでしょ」
向かいの席に座るエルナはそう返しながらも、窓へ向けた顔には隠しきれない笑みが浮かんでいた。初めて見る景色を楽しみにしていたのは、どうやらフィナだけではないらしい。
「でも、こんなに大きいんだね。向こうが全然見えない」
フィナは窓ガラスへ額がつきそうな距離まで顔を近づけた。日本にいた頃の記憶にも海はあるが、この世界で目にするものはやはり別物に感じられる。
遠くには巨大な海鳥が翼を広げ、その下を魔導船らしい影がゆっくり進んでいた。波間では時折、青銀色の魚が飛び跳ね、陽光を反射してすぐ海中へ消えていく。
「線路もすごいよね。海にずっと浮いてるの?」
フィナが足元を覗こうと姿勢を変えた瞬間、待っていましたと言わんばかりにレオンが窓側へ身を寄せた。
「正確には浮いているだけじゃない。海底へ固定された支持術式と、水面側の浮力制御術式を併用している。波高が変化した場合も――」
「始まった」
エルナの肩が露骨に落ちる。
レオンはその反応を気にすることなく、窓の下を流れていく青白い線へ指を向けた。
「あれが線路安定用の魔力導路だ。一定区間ごとに水圧と波の方向を読み取って、軌道の高さを微調整している。さらに車体側にも――」
「レオン、ちょっと待って」
フィナは最初こそ真剣に聞いていたものの、既に目が海へ戻っていた。
「今、すごく綺麗な魚いた」
「俺の説明の途中だぞ」
「魚は待ってくれないよ?」
「説明も今しかしていない」
「説明は後でもできるでしょ!」
景色を楽しみたいエルナがとうとう身を乗り出した。レオンと窓の間へ片手を差し入れ、強引に視界を海へ戻そうとする。
「せっかく外国へ行くんだから、もう少し普通に景色を見なさいよ!」
「構造を理解することも景色を楽しむ方法の一つだ」
「それはあなたの趣味でしょ!」
「研究だ」
「前もそれ言ってたわよ!」
向かい合う二人の間で、リリカだけは忙しかった。
膝の上には語録帳とは別の旅行用記録帳が開かれ、そこにはレオンの説明がかなり細かく書き込まれている。線路の構造、浮力制御、魔力導路。さらに余白にはフィナの「魚は待ってくれない」という発言まで大きく囲まれていた。
「リリカ、それも書くの?」
フィナが記録帳を覗き込むと、リリカは満足そうに胸を張った。
「はい! 師匠の教えも、レオン先輩の解説も、初めて見る海の感動も、全部残しておきます!」
「今の教えじゃないよ?」
「《大切なものは、その瞬間に見なければ失われる》……深いです!」
「魚の話だからね!?」
フィナの必死な訂正にも、リリカのペンは止まらない。
その横ではネムが、列車へ乗って十分もしないうちにフィナの肩へ頭を預けて眠っていた。枕型魔導具はしっかり抱えているのに、それを使わずフィナの肩を選んでいる。
「ネム、せっかくの海なのに」
フィナが少しだけ顔を傾けても、銀紫色の髪が肩口で揺れただけだった。
「見た」
閉じた瞼のまま、ネムが短く返す。
「もう?」
「青かった」
「感想が早い!」
「あと、水」
「情報が増えてないよ!」
ネムはそれ以上会話を続ける気もないらしく、フィナの肩へもう少しだけ深く寄りかかった。
そんなやり取りをしているうちに、通路の奥から食事を乗せた移動販売台が近づいてきた。
焼いた魚の香ばしい匂いと、甘い焼き菓子の香りが車内へ広がる。
フィナの顔が即座にそちらへ向いた。
「ご飯!」
「海より反応早くない?」
エルナが呆れた声を出すより先に、フィナは座席前の小さな机へ身を寄せていた。
しばらくして五人の前には、海魚を挟んだパン、薄く焼いた海藻の菓子、柑橘系の飲み物が並んだ。
「おいしい!」
一口食べたフィナの表情が一気に明るくなる。白身魚は柔らかく、塩気のある薄いソースとよく合っていた。
「これ、アクアレイアの料理なのかな?」
「まだ国境手前だから、沿岸地方の料理だろう」
レオンはそう答えながら、自分の飲み物を光へ透かしていた。
「この水、微量だが魔力処理されてるな。保存用か?」
「食べながら分析しないでよ」
エルナは自分のパンを持ったまま、信じられないものを見るような顔でレオンを見る。
「料理くらい普通に食べられないの?」
「食べている」
「見れば分かるわよ! そういう意味じゃない!」
「水分制御、気になる」
目を開けないままネムが呟くと、レオンがわずかに得意そうな顔をした。
「分かるか」
「レオンが気にすると思った」
「そっちか」
珍しく言葉を失ったレオンを見て、エルナが吹き出しかけた。
一方、リリカは食事の感想まで記録帳へ書き始めている。フィナはその横から覗き込み、《師匠、海魚パンを三口で半分食べる》という記録を見つけて目を丸くした。
「そこまで残さなくていいよ!?」
「旅の記録です!」
「後で読んだとき何の役に立つの!?」
「師匠が海の近くでは食欲旺盛だったという貴重な資料に!」
「普段も食べるよ!」
食事が終わる頃には、列車はさらに沖へ進んでいた。
陸地はもうほとんど見えず、窓の外には海と空だけが広がっている。
フィナは飲み物を両手で持ちながら、再び窓へ視線を向けた。
深い青の下には、何があるのだろう。
魚だけではなく、巨大な魔物や、沈んだ船や、もしかすると迷宮へ続く何かまであるかもしれない。
「海の底って、ここからどれくらい深いのかな」
フィナの何気ない一言に、レオンはすぐ答えようとした。
「場所による。沿岸部なら――」
「ねえ」
フィナは海を眺めたまま、少し考えるように首を傾げた。
「水魔法でちょっと持ち上げたら海の底見えるかな?」
「やめろ!」
「やめなさい!」
レオンとエルナの声が完全に重なった。
あまりの勢いに、フィナがびくりと肩を揺らす。眠っていたネムの頭まで一緒に少し浮いた。
「まだ何もしてないよ!?」
「今すぐ考えるのもやめろ!」
レオンは反射的に机へ手をつき、フィナと窓の間へ身体を入れそうな勢いだった。
「海は訓練場でも迷宮でもない! 範囲も水量も比較にならない!」
「ちょっとだけだよ?」
「あなたの『ちょっと』を海で試すなって言ってるのよ!」
エルナも窓側へ身を寄せ、フィナの両肩へ手を置く。
「そもそも海を持ち上げるって発想が普通出てこないの!」
「でも底、見てみたくない?」
「見たいかどうかと、やっていいかは別問題でしょ!」
二人から同時に止められるフィナの横で、リリカだけが目を輝かせていた。
「水そのものを持ち上げ、普段見えないものを見る……!」
「リリカ?」
「これも修行ですか、フィナ師匠!」
「違うよ!?」
「自然という巨大な相手へ挑むことで、己の限界を――」
「挑まないから!」
フィナの抗議を聞きながら、ネムがようやく片目だけを開けた。
窓の外の海を少し眺め、フィナへ視線を移す。
「魚が困る」
その一言で、フィナの表情が変わった。
「……あ」
海面近くを飛び跳ねる魚を見て、少し想像する。
突然、自分たちが住んでいる水ごと空へ持ち上げられたら。
「それは駄目だね!」
フィナはあっさり頷いた。
レオンとエルナが同時に動きを止める。
「……そこなのか?」
レオンの眉がゆっくり寄る。
「私たちがあれだけ説明したのに!?」
エルナも肩を掴んだまま声を上げる。
「だって魚が困るでしょ?」
「海洋環境全体が困る!」
「その中に魚も入ってるじゃん!」
「規模の話をしてるのよ!」
また始まった二人の説明を前に、フィナは困ったように笑うしかなかった。
リリカはその横で、《魔法を使う前に、そこに暮らす命を考える》と真剣に記録している。
ネムだけは目的を果たしたらしく、再びフィナの肩へ頭を戻した。
そんな騒がしさが続いたまま、さらに時間が過ぎる。
やがて列車の前方がざわめき始めた。
窓際の乗客たちが次々と顔を上げ、水平線の向こうを見ている。
「フィナ、前」
眠っていると思っていたネムが先に気づいた。
「え?」
フィナは窓へ顔を向けた。
最初は、海と空の境目に細い塔のようなものが見えただけだった。
しかし列車が進むにつれて、その左右へ無数の影が広がっていく。
巨大な白い建造物。
海上へ突き出した塔。
空中を横切る透明な水の道。
高く浮かぶ灯台のようなもの。
そして、それらすべてを包み込むように海の上へ広がる、巨大な都市。
「……すご」
フィナの口から、ようやくそれだけが漏れた。
いつもなら即座に説明を始めるレオンも、今だけは資料へ手を伸ばさなかった。
エルナは窓へ手を添えたまま言葉を失い、リリカのペンも紙の上で止まっている。ネムさえ完全に目を開け、遠ざかる眠気を気にすることなく景色を見つめていた。
水平線の向こうから姿を現したアクアレイア海洋魔導国は、五人が想像していた「水の国」という言葉を、遥かに越えた光景だった。
海と空の境界そのものへ都市が築かれているようなその姿を前に、騒がしかった五人はしばらく誰一人として声を出せなかった。




