第二章 2 『荷物って、山を動かすより難しい』
国外特別実習への出発を翌日に控えた午後、フィナたちの班室は、普段とは別の意味で足の踏み場がなくなりかけていた。
机の上には衣類、保存食、地図、筆記具、魔導具、非常用品が山のように積まれ、椅子の脇には五人分の鞄が並んでいる。壁の集合写真だけが、いつもと変わらない騒がしい五人を静かに見下ろしていた。
「じゃあ、最終確認するぞ。明日の出発前に慌てても知らないからな」
レオンは一覧表を片手に、机の端へ積まれた荷物を順番に確認していた。普段から几帳面な彼らしく、持参品は用途ごとに分けられ、小さな札まで付けられている。
「まずフィナ。荷物を全部出せ」
「全部?」
足元に置いていた大きな旅行鞄へ視線を落とし、フィナは少しだけ首を傾げた。
「もう入ってるよ?」
「だから中身を確認するんだ」
「ちゃんと準備したのに」
不満そうに唇を尖らせながらも、フィナは鞄を机の空いた部分へ持ち上げた。留め具を外し、蓋を大きく開く。
最初に現れたのは、菓子だった。
「……フィナ」
レオンの声が一段低くなる。
「移動中にお腹空くかもしれないでしょ?」
フィナは胸を張り、菓子袋を一つ取り出した。その下からも別の焼き菓子が出てきて、さらにその下には干した果物、瓶詰めの飴、学院近くの店で買った小さなパンまで詰め込まれている。
隣から覗き込んでいたエルナの眉が、品物が出てくるたびに少しずつ上がっていった。
「何泊するつもりなのよ」
「十日くらい?」
「遭難する人の食料量なのよ!」
「でも外国の食べ物が合わなかったら困るし」
「そのために保存食があるの!」
エルナは呆れた顔で菓子の山を机の左側へ移していく。その途中で、妙にふくらんだ布袋を見つけ、嫌な予感を浮かべながら中を覗いた。
「これは?」
「予備の杖」
「何本?」
「四本」
「なんで!?」
机の上へ並べられたのは、装飾の違う可愛らしい杖だった。星型の飾りが付いたもの、青い石の付いたもの、持ち手に小さなリボンが巻かれたものまである。
フィナは四本を見比べ、どれを選ぶか本気で悩んでいる顔をした。
「外国だから、服に合わせた方がいいかなって」
「あなた杖いらないでしょ!」
「使わなくても持ってたら可愛いよ?」
「荷造りでお洒落を優先するなって言ってるの!」
勢いよく突っ込んだエルナだったが、次の瞬間、青い石の杖へ視線が止まった。
「……でもこれ、アクアレイアには合いそうね」
「エルナ?」
フィナがにやりと笑う。
「違うわよ! 国の雰囲気に合うかどうかを客観的に評価しただけ!」
エルナは顔をそらしながら髪先を触り、そのまま青い杖を残す側へそっと置いた。
向かい側ではリリカが、その一連の流れを真剣に見守っていた。
「なるほど……実用性だけでなく、訪問先への敬意を装いで示す……!」
「リリカ、それ教えじゃないからね?」
「《装備もまた礼節の一部》……」
「書かないで! 今エルナが可愛いって思っただけだから!」
「ちょっとフィナ!」
エルナが赤くなって抗議する横で、レオンは額へ指を当てた。
「話を戻すぞ。着替えは?」
その質問でフィナの動きが止まった。
「……あるよ?」
「何組だ」
「一組」
「十日だぞ」
「洗えばいいかなって」
今度はエルナが何も言わずにフィナの鞄から菓子袋を三つ取り出し、その空いた場所へ予備の衣類を押し込む仕草をした。
「これを減らして着替えを入れる」
「私のおやつ!」
「外国で洗濯だけして帰るつもり!?」
「全部持っていきたい!」
「じゃあ鞄を大きくしなさいよ!」
「重くなるじゃん!」
「菓子を減らしなさい!」
二人の攻防を見ながら、ネムは机の端で枕型魔導具へ頬を乗せていた。
「お菓子、現地で買えばいい」
短い一言に、フィナの手が止まる。
「……それだ!」
「最初からそうしなさいよ!」
エルナの声が班室へ響き、フィナはようやく大量の菓子を諦めた。
続いてレオン自身の荷物確認へ移ったところで、今度は全員の視線が止まった。
床に並んでいる鞄は三つ。
その横には筒状の地図入れ、術式資料を収めた箱、記録用魔導具の専用ケースまで置かれている。
「レオン」
フィナは自分の荷物から顔を上げ、目の前の量を二度見した。
「何だ」
「多くない?」
「必要なものだけだ」
レオンは当然という顔で、一つ目の鞄を開いた。
「非常用薬品、簡易結界札、予備魔力石、携帯食料、方位器、緊急通信具。二つ目がアクアレイアの地図、水属性術式資料、現地法規、迷宮関連の基礎文献。三つ目が測定器、記録器具、予備部品だ」
「私より多いじゃん!」
「用途が全部違う」
「荷物って量で測るんじゃないの!?」
「必要性で測る」
理屈で押し切ろうとするレオンへ、エルナが冷たい視線を向けた。
「あなた、さっきフィナに荷物を減らせって言ってたわよね?」
「不要品を減らせと言っただけだ」
「その本、本当に全部必要?」
「必要だ」
「三冊で済まない?」
「済まない」
「五冊なら?」
「済まない」
「何冊持っていくのよ!」
「十二冊だ」
班室に沈黙が落ちた。
フィナはゆっくりと自分のお菓子の山を見てから、レオンの資料箱へ視線を戻した。
「……私、そんなに悪くなかったかも」
「そこで安心するな」
すぐに返された言葉へ口を尖らせたフィナの隣で、ネムが半分閉じた瞳をレオンへ向けた。
「趣味」
「資料だ」
「趣味の資料」
「研究に必要だ」
「趣味の研究」
「分類を増やすな」
レオンの反論が少しずつ弱くなっていく様子を見て、エルナが勝ち誇ったように腕を組んだ。
「人の荷物へ口を出す前に、自分の鞄を見直した方がいいんじゃない?」
「お前は服を何着持っていくつもりだ」
「必要な分だけよ!」
即答したエルナの足元には、きれいに畳まれた衣類用の鞄が二つ置かれている。
レオンの視線がそこへ落ちる。
エルナの視線も、ゆっくり同じ場所へ落ちた。
「……これは正装も含まれてるの」
「二鞄分?」
「交流会があるんだから当然でしょ!」
「俺の資料十二冊と何が違う」
「全然違うわよ!」
「必要性を主張している点では同じだ」
「一緒にしないで!」
今度は二人が荷物の正当性を巡って言い争い始め、最初に荷物を減らすよう注意されていたフィナの存在が完全に放置された。
フィナは誰にも見られていないことを確認し、そっと菓子袋を一つ鞄へ戻した。
「師匠」
すぐ隣から声が飛んできた。
振り向くと、リリカが真剣な表情で見ている。
「内緒ね?」
「もちろんです!」
力強く頷いたリリカの背後には、本人の身長に対して明らかに大きすぎる鞄が置かれていた。
「……リリカ、それ何?」
「私の荷物です!」
リリカは嬉しそうに鞄を開いた。
中から出てきたのは衣類だけではなかった。予備の紙、予備のペン、魔法訓練用具、非常食、手当用品、フィナ用の菓子、フィナ用の飲み物、フィナ用の予備布、さらに語録帳が複数冊。
「私用が多くない!?」
「国外でフィナ師匠に何が起きても支援できるよう準備しました!」
「私、自分の荷物あるよ!?」
「弟子として当然です!」
「じゃあその語録帳五冊は?」
「現地で新たな教えが大量に生まれる可能性を考慮しました!」
「一番いらないところに備えすぎ!」
リリカが「足りなくなったら困ります」と本気で心配する一方、ネムの荷物確認は一瞬で終わった。
小さな鞄に着替えが数組。歯磨きなど最低限の日用品。それから、いつもの枕型魔導具。
「終わり」
ネムは自分の鞄を閉じると、そのまま枕へ頭を戻した。
「少なっ!」
フィナが思わず身を乗り出す。
「必要なの、ある」
「お菓子は?」
「フィナの食べる」
「私の荷物を共有前提にしないで!?」
「弟子も持ってる」
「逃げ道が二つある!」
荷物確認だけで一時間近くが過ぎた頃、学院から渡された国外実習用の注意事項をレオンが机へ広げた。
五人は荷物の山をどうにか左右へ寄せ、中央の紙へ顔を近づける。
「国外ではセレフィア王国の常識がそのまま通用するとは限らない。現地の法規と学院側の指示を優先すること。それから――」
レオンが項目を読み上げながら、特に大きく記された一文で止まった。
そこには、フィナだけを対象にしているとしか思えないほど具体的な注意書きがあった。
「《他国領内において、許可なく都市規模・地形規模・災害規模に影響を及ぼす魔法を使用しないこと》」
四人の視線が一斉にフィナへ集まった。
「なんでみんな私を見るの!?」
「実質お前宛てだからだ」
レオンは迷いなく断定した。
「私、ちゃんと加減するよ!」
「その言葉を何度聞いたと思ってるのよ」
エルナが腕を組み、念を押すようにフィナへ顔を近づける。
「今回は外国なの。訓練場を壊すのとは訳が違うんだからね?」
「訓練場も壊してないよ! ちょっとおかしくしただけで!」
「反論が弱い!」
「分かった! 勝手に大きい魔法使わない!」
フィナは背筋を伸ばし、両手を膝へ置いて力強く頷いた。その真剣な表情に、レオンもエルナも一応は納得したように息を吐く。
そこでフィナの視線が、まだ片付いていない荷物の山へ移った。
「でも、これ全部持っていくの大変だよね」
「今さら気づいたのか」
「じゃあさ」
フィナの表情がぱっと明るくなる。
「空間魔法で荷物を小さくして、別の空間にまとめて入れたら楽じゃない?」
数秒前までの真剣な空気が、完全に消えた。
レオンの目が細くなる。
「国外へ未登録の亜空間を持ち込むな」
「荷物入れるだけだよ!?」
フィナは思わず机へ両手をついた。
「その『だけ』が信用されてないのよ!」
エルナも即座に身を乗り出し、レオンとは反対側からフィナを挟む。
「ただ荷物が入るだけだよ!? 危ないこと何もないよ!」
「お前の『ただ入れる』が、どこまでの空間容量になるか説明できるか?」
「鞄五個分くらい?」
「『くらい』を付けるな!」
「細かい!」
「国外で空間事故を起こすよりましだ!」
レオンとフィナの声がぶつかる中、ネムは枕へ顎を乗せたまま、積み上がった荷物とフィナを順番に見比べた。
「荷物より危険物」
「私!?」
フィナが自分を指差して固まる。
エルナは吹き出しかけた口元を手で隠し、リリカは「師匠自身が最大の重要携行物……?」とまた別方向へ解釈を始めていた。
「違います、フィナ師匠! 危険という意味ではなく、国が管理するほど価値が――」
「リリカ、助けようとして悪化してる!」
結局、亜空間案は満場一致で却下された。
翌朝。
まだ学院の廊下にも人影が少ない時間、五人は荷物を手に班室へ集まっていた。前日の騒ぎを経て量はどうにか現実的な範囲へ収まり、レオンの資料も十二冊から九冊まで減っている。
フィナは最後に部屋を振り返った。
机。椅子。何度も魔法の説明を受けた場所。言い争って、笑って、相談してきた場所。そして壁には、相変わらず五人の誰も撮影器を見ていない集合写真が飾られている。
「行ってきます!」
フィナは写真へ向かって明るく声をかけ、旅行鞄を持ち直した。
扉の外ではレオンが人数を確認し、エルナがフィナの鞄から菓子がはみ出していないか最後まで疑い、リリカは語録帳を抱え、ネムは既に移動中に眠る準備を整えている。
そうして五人は班室の扉を閉じ、初めて見る海と、まだ知らない外国へ向かって学院を出発した。




