第一章 3 『身分証と迷子の王都』
王都セレフィアの城壁は、近づくほど現実感を失っていった。
白い石を積み上げた壁は草原から見たときより遥かに高く、その上では青い光を帯びた結界が薄い膜のように揺れている。巨大な正門の前には馬車と旅人の列が幾重にも続き、門脇の塔では魔導灯が昼間にもかかわらず淡く輝いていた。
「すごい……本当に魔法の国なんだ」
荷台から身を乗り出したフィナは、琥珀色の瞳を忙しく動かした。
日本では見たことのない景色ばかりだった。壁面を自動で清掃する小さな魔導具が石の継ぎ目を滑り、門前の水場では水の球が宙に浮いている。馬車の車輪には薄い風がまとわりつき、重い荷を積んでいても軽やかに進んでいた。
「落ちるなよ。王都へ入る前に怪我人を増やしたくない」
「大丈夫です! 今は魔法も使ってませんから!」
「その言い方だと、使えば危ないと自覚しているんだな」
「そこは昨日、ちゃんと学びました!」
胸を張るフィナに、年長の商人は複雑そうな顔をした。
列が進み、馬車が正門前の検査区画へ入る。槍を持った門兵が荷台を確認し、商人から通行証と荷物の一覧を受け取った。
「同乗者も身分証を」
門兵の視線がフィナへ向いた。
「身分証……ですか?」
「王都への入場には、国民証、冒険者証、学院証、商会証のいずれかが必要だ」
フィナは鞄の中を探した。
入っているのは少量の硬貨と、フィナ・アウセリアという名前が書かれた薄い札だけだ。だが、札には公的な刻印も魔力署名もなく、門兵は受け取るとすぐに首を横へ振った。
「これは身分証ではない。名前を書いただけの札だ」
「えぇ!? 名前が書いてあっても駄目なんですか!?」
「誰でも書けるものを身分証にはできない」
「た、確かに……!」
あまりにも正しい指摘に、フィナは札を受け取ったまま言葉を失った。
雪城澪華だった頃の身分を証明する物は、当然ながらこの世界では役に立たない。そもそも手元には何も残っていなかった。フィナ・アウセリアという名前も、自分の中には馴染むのに、誰が与えたのか分からない。
「身元不明者は、確認が取れるまで門外の待機所だ」
「待ってくれ。この娘は俺たちの命を助けた。街道で魔物に襲われたところを救われたんだ」
商人が一歩前へ出て、昨日からの経緯を説明した。
フィナを草原で見つけたこと。本人にも出身や家族が分からないこと。詠唱なしで火魔法を使い、魔物を倒したこと。そして水、風、土まで発動したこと。
門兵の表情は、話が進むほど険しくなった。
「四属性を無詠唱で?」
「俺たち全員が見ている。街道の岩壁を調べれば、火魔法の痕跡も残っているはずだ」
「岩壁まで巻き込んだ件は、できれば小さな声でお願いします……」
フィナが申し訳なさそうに縮こまると、門兵はしばらく商人たちの顔を見比べた。
「証言だけで正式入場は許可できない。簡易魔力検査を行う。危険人物でないと確認できれば、学院または魔導協会へ向かう条件で一時入場を認める」
「検査なら大丈夫です! 触るだけですよね?」
「たぶんな」
「なんで目を逸らすんですか!?」
商人が遠くを見たまま答えず、フィナの不安だけが増した。
門兵は詰所から、両手で抱えられるほどの透明な球体を運んできた。台座には火、水、風、土、光、闇を示す六つの刻印が並び、中央には針のような魔力計が取り付けられている。
「球へ手を置け。適性属性があれば対応する刻印が光る。力を込める必要はない」
「分かりました。絶対に込めません」
念を押すように自分へ言い聞かせ、フィナは右手を球体へ乗せた。
最初に赤い火の刻印が輝いた。
「火属性。まず一つ――」
門兵が記録板へ書き込む前に、青い水の刻印が光る。続いて風、土、光、闇の順に輝き、六色の光が球体の中で混ざり合った。
「え、全部?」
フィナが目を見開いた直後、台座の余白へ細い光の筋が次々と浮かび上がった。
青白い雷光が走り、球体の表面へ霜が広がる。足元から小さな草が芽を出し、金属音のような余韻が詰所に響いた。計測針は目盛りの端を越えて回転し、止まる場所を失ったように何周も回り続ける。
「手を離せ!」
「はいっ!」
フィナは慌てて右手を引いた。
光はすぐには消えなかった。球体の内部で色が激しく入れ替わり、台座が細かく震える。
「えぇ!? まだ動いてるんですけど!? 私、もう触ってませんよ!?」
最後に甲高い音が鳴り、透明な球体の中央へ細いひびが走った。
門前の空気が静まり返る。
フィナは球体と自分の手を見比べ、そっと両手を背中へ隠した。
「……これ、私が弁償するんですか?」
「そこを最初に心配するのか」
「だって、また壊しちゃったみたいなので!」
門兵は額を押さえたまま深く息を吐いた。危険人物というより、検査器の想定範囲そのものから外れていると判断したらしい。
商人たちの証言と、破損寸前の検査結果が記録され、フィナには当日限りの一時入場札が渡された。行き先は王立セレフィア魔法学院。寄り道をせず、受付で事情を説明することが条件だった。
商隊とは門を抜けた先で別れることになった。
「本当にありがとうございました。王都まで連れてきてもらえなかったら、私、まだ草原を歩いてたと思います」
「学院へ着くまでが王都入りだ。途中で魔法を試すなよ」
「分かってます! 見るだけにします!」
「触るのも控えろ」
「そこまで!?」
商人たちは苦笑しながら市場方面へ馬車を進めていった。
一人になったフィナは、初めて王都の大通りへ足を踏み出した。
石畳の両側には白壁の建物が並び、窓辺を小さな光球が飛び交っている。荷車は馬に引かれているものだけでなく、床下へ風を噴き出して滑るように進むものもあった。
通りの上空には、細長い魔導板へ乗った配達人が行き交っている。店先では水魔法が果物を洗い、火の魔導具が串焼きを一定の温度で焼き、箒型の道具が誰も持っていないのに地面を掃いていた。
「すごい! あれも魔法? こっちのも動いてる! あっ、空を飛んでる!」
フィナは立ち止まっては目を輝かせ、次に気になる物を見つけて歩き出した。
学院へ寄り道せず向かう約束は覚えている。ただし、本人としては大通りを進みながら見ているだけのつもりだった。
道の先に見える高い尖塔を学院だと思い込み、疑いもせずそちらへ向かっていた。
やがて店が減り、周囲に倉庫や工房が増えていく。
「学院って、思ったより静かな場所にあるんだね」
違和感を抱きながらも進んでいると、角から出てきた人影とぶつかりそうになった。
「——わっ!」
「危ない」
相手は足を止め、フィナの肩へ触れる直前で手を引いた。
同年代ほどの少年だった。灰色がかった黒髪を短く整え、深い青の瞳でこちらを見ている。学院の制服らしき服をきっちり着込み、腰には札や筆記具、見慣れない測定器を下げていた。
「ご、ごめんなさい! よそ見してて!」
「見れば分かる。怪我は?」
「大丈夫です。あなたも平気?」
「ああ」
短く答えた少年の視線が、フィナの顔から周囲へ移った。
何かを探すように目を細め、腰の測定器へ手を添える。針は触れていないのに小刻みに震え、複数の方向を同時に示そうとしていた。
「……何だ、この魔力」
「え?」
「いや、こっちの話だ。それより、どこへ行くつもりだった?」
「王立セレフィア魔法学院です! あの塔ですよね?」
フィナが自信たっぷりに指さした先には、大きな煙突を持つ魔導具工房が建っていた。
少年は工房とフィナを交互に見たあと、淡々と反対方向を示した。
「学院は逆だ」
「えええぇ!? 門からずっと堂々と反対に歩いてたの!?」
「そのようだな」
少年は懐中時計を確認し、わずかに眉を寄せた。
「入学受付なら、間もなく閉まる。ここから走っても余裕はない」
「そ、そんなぁ! せっかく王都まで来たのに!」
「大通りへ戻って、中央噴水を右。青い導光標を追えば着く」
「ありがとう! えっと……」
「礼は着いてからにしろ。急げ」
フィナは慌てて頭を下げ、教えられた方向へ駆け出した。
背後で少年がまだ自分を見ていることには気づかなかった。彼の腰の測定器は、フィナが離れてもなお不規則に震え続けていた。
大通りへ戻ったフィナは、人の間を縫うように走った。
中央噴水を右へ曲がると、石畳へ青い光の線が埋め込まれている。導光標を追った先には、門前から見えていた幾つもの尖塔が夕空へ高く伸びていた。
「お願い、まだ閉まらないで!」
息を切らしながら長い坂を駆け上がる。
王立セレフィア魔法学院の正門では、係員が受付終了を告げる鐘へ手を伸ばしていた。フィナは閉じ始めた門の隙間へ滑り込み、一時入場札を両手で掲げる。
鐘が鳴る寸前、フィナ・アウセリアはどうにか学院の入学受付へ辿り着いた。




