第一章 29 『一番弟子と副師匠と副副師匠』
学院の訓練場では、三本の支柱に取り付けられた円形標的が、不規則な速度で左右へ動いていた。
中央の標的は地面すれすれを滑り、左右の二枚は高さを変えながら交差する。リリカは十歩ほど離れた白線の内側に立ち、杖の先へ小さな火球を浮かべていた。
「今度こそ、当てます!」
火球が杖先を離れた。
大きさも速度も安定している。だが、中央の標的が右へ切り返した瞬間、火球は直前まで標的があった空間を通り抜け、奥の防護壁へ吸収された。
「ああっ、またです!」
リリカは悔しそうに杖を握り直した。
火球を最後まで維持することは、もう失敗しない。止まった標的なら正確に当てられる。それでも、相手が動けば到達までのわずかな時間に位置がずれてしまう。
白線の横で見守っていたフィナは、自分まで火球を送り出すように両手を胸の前で握った。
「火球に、最後まで行けって思えば届くよ。途中で迷わないように、あそこまで行くんだよって、ちゃんと伝える感じかな」
リリカの表情がぱっと明るくなる。
「はい、フィナ師匠! 火球を信じ、目的地へ送り出すのですね!」
「そこまでお別れみたいにしなくてもいいよ!?」
記録板へ目を落としていたレオンは、フィナの説明では再現性がないと判断したらしく、リリカの火球と標的の間へ視線を走らせた。
「感覚だけで説明するな。魔力供給と術式維持を分けて考えろ。今は発射後も威力を保とうとして、軌道修正へ回す魔力が不足している。核を維持する供給線と、方向を変える操作線を意識して分離しろ」
「なるほど……核を守りながら、進む道だけを変えるのですね」
「そうだ。まず基礎構造を安定させれば――」
腕を組んで聞いていたエルナが、動き続ける標的へ顎を向けてレオンの説明を遮った。
「それだけじゃ実戦では当たらないわよ。相手が今いる場所を狙うから遅れるの。視線と重心を見て、次に避ける場所まで先に撃つのよ。追いかけるんじゃなくて、逃げ道へ置いておくの」
フィナは動く円盤をじっと眺めたあと、素朴な疑問を口にした。
「でも、標的に重心はないよ?」
「今は魔物を想定してるの!」
「標的の気持ちを考えるのかと思ったよ」
エルナは思わず額へ手を当てた。
「フィナまで火球と標的に心を持たせないで!」
三人の説明を順番に聞いていたリリカは、やがて新たな悟りへ到達したように瞳を輝かせ、語録帳を胸へ抱き締める。
「分かりました!」
大きく息を吸い込み、確信に満ちた顔で杖を握り直した。
「火球の心を信じ、術式の人生を支え、敵の未来を先に焼くのですね!」
エルナの眉が跳ね上がった。
「何一つ分かってないじゃない!」
レオンも即座に記録板から顔を上げる。
「火球に心も人生も存在しない」
フィナまで両手を振って訂正へ加わった。
「そんな教えしてないよ!?」
三方向から否定され、リリカは杖を構えたまま目を瞬かせた。
「ですが、フィナ師匠は火球へ最後まで行けと伝え、レオンさんは術式が生き続けるための支えを説き、エルナ先輩はまだ訪れていない未来を撃てと――」
レオンは誤解された部分を訂正するように、指先で術式維持を示す線を空中へなぞった。
「術式は生きていない。一定条件で現象を維持する構造だ」
エルナも、自分だけ物騒な教えへ変換されたことへ声を強める。
「未来を撃てなんて言ってないわよ! 相手の行動を予測しろって言ってるの!」
最後に残されたフィナは、自分の胸へ指を向けた。
「私は火球を応援しただけだよ!」
「フィナ師匠のお言葉だけ、そのままでは?」
「私だけ説明が一番ふわっとしてるみたいに言わないで!」
フィナは不満そうに頬を膨らませた。
その間にも三枚の標的は左右へ動き続けている。リリカは白線の内側で杖を構えたままだったが、誰からも次の火球を撃つよう指示されなかった。
レオンはリリカの足元へしゃがみ込み、指先で地面へ簡易術式図を描き始める。
「だから、先に基礎を固めるべきだ。軌道予測以前に、魔力供給を分離できなければ修正そのものが成立しない」
エルナは止まった図より動く標的を見るべきだとばかりに、進路へ指先を向けた。
「実戦では、基礎が完璧になるまで敵が待ってくれるわけじゃないでしょ」
細い雷が走り、中央の標的が移動する先へ先回りして円の中心を正確に撃ち抜く。標的が小さく揺れ、訓練場へ澄んだ音が響いた。
「今の判断を繰り返せば、自然と基礎も身につくのよ」
レオンは命中した標的より、再現可能かどうかを重視したまま地面の術式図を指した。
「成功例だけを見せても、再現できなければ指導にならない」
「なら、数式を見せれば火球が当たるようになるの?」
「少なくとも『未来を焼け』よりは正確だ」
「私はそんな言い方してないわよ!」
二人はリリカを挟んだまま、一歩ずつ前へ出た。
レオンは基礎理論、エルナは実戦感覚。どちらの指導が今のリリカに必要かという議論は、本人へ意見を聞くことなく速度を増していく。
杖を構えたまま取り残されたリリカは、二人の間へ遠慮がちに声を差し込んだ。
「あの、私、撃っても――」
しかしレオンは術式図へ意識を向けたままだった。
「まず供給線を二分する練習からだ」
エルナもすぐに標的を指し示す。
「動く相手を見なさい。止まった術式図を見ても意味ないでしょ」
「あの……」
「理論を軽視するから感覚に頼ることになる」
「感覚を軽視するから説明が長くなるのよ!」
リリカの小さな声は、二人の言い争いにきれいに埋もれた。
訓練場の隅では、ネムが長椅子へ横になっている。枕型魔導具を頭の下へ敷き、ローブの袖で顔の半分を隠していた。
眠そうな目だけをリリカへ向け、状況を一言でまとめる。
「リリカ、忘れられてる」
それでもリリカは嬉しそうに二人を見た。
「はい! お二人が私のために、指導法を真剣に争ってくださっています!」
フィナは思わず両手を広げた。
「忘れられてる方を喜ばないで!」
リリカは感動した顔で語録帳を開き、レオンとエルナの言葉を左右の頁へ分けて書き始める。訓練は止まったままなのに、記録だけは順調に増えていた。
このままではいつまでも終わらないと思ったフィナは、二人の間へ笑顔で割って入った。
「どっちの説明も分かりやすいよ」
レオンとエルナの口が同時に止まる。
先ほどまで互いを否定していた二人は、それぞれわずかに胸を張った。
「そうか」
「まあ、当然でしょ」
フィナは二人が落ち着いたことへ安心したように頷き、そのまま素直な感想を続けた。
「私はよく分からなかったけど」
レオンとエルナの笑顔が、その形のまま固まった。
風が訓練場を通り抜け、地面に描かれた術式図の砂を少しだけ削る。動く標的の軋む音だけが、やけに大きく響いた。
数秒の沈黙のあと、レオンが眉間を押さえる。
「どこが分かりやすかったんだ」
「二人がすごく自信ありそうだったところ?」
エルナが両手を広げて詰め寄った。
「内容を評価しなさいよ!」
その会話さえ新たな教えとして受け取ったリリカは、再び語録帳へ筆を走らせる。
「理解できない境地にこそ、真理がある……! フィナ師匠は、理解することへ執着する私たちへ、分からないまま受け入れる勇気を――」
フィナは勢いよくリリカへ振り返った。
「違うよ! 本当に分からなかっただけだよ!」
「その正直さまで教えにするのやめなさい!」
エルナがリリカへ訂正を入れた横で、レオンは自分たちの説明そのものへ意識を戻した。
「まず本人へ理解させることに失敗している時点で、どちらの説明にも改善の余地があるな」
エルナの視線が鋭くレオンへ向く。
「どうして急に公平な立場へ戻るのよ! あんたの説明も伝わってないじゃない!」
そのまま話題は、なぜか指導者としての立場へずれていった。
「そもそも、リリカへ魔法を教える役は私でしょ。副師匠なんだから」
レオンは記録板を閉じ、呆れた目を向ける。
「自分で否定していた称号を自然に使うな」
「否定してるわよ! リリカが勝手に呼んでるだけ!」
新しい役職を思いついたリリカは、嬉しそうにレオンへ向き直った。
「でしたら、レオンさんは副副師匠ですね!」
「断る」
レオンは即答した。
「では、第二副師匠でしょうか?」
「階級を変えても断る」
「補助師匠?」
「俺は理論指導をしているだけだ」
そこでフィナは、不思議そうに首を傾げた。
「それを師匠って言うんじゃないの?」
レオンは言葉を止めた。
その横で、エルナがわずかに眉を寄せる。
「ちょっと待ちなさい。どうしてレオンが私と同格なのよ」
「お前は副師匠ではないと言っただろ」
「そうだけど、あんたまで副師匠になるのは違うでしょ!」
「どこが違う」
エルナは自分の指導実績を数えるように指を折る。
「私は実戦も理論も教えてるもの!」
「理論の誤りは俺が修正している」
「誤ってないわよ!」
否定していたはずの称号を巡り、二人はどちらが上位の指導者かを真剣に争い始めた。
その横でリリカまで序列整理へ加わる。
「エルナ先輩が第一副師匠で、レオンさんが第二副師匠では?」
「順番に根拠がない」
「私が先なのは当然でしょ」
「今、副師匠ではないという主張を捨てたな」
「捨ててない! あんたより上だと言ってるだけ!」
「称号を受け入れないまま序列だけ要求するな」
三人を眺めていたフィナは、ようやく根本的な問題を思い出した。
「あのね。私、リリカを正式に弟子として認めた覚えが――」
だが、リリカは迷いなくフィナへ尊敬の眼差しを向ける。
「フィナ師匠が形式に縛られない方なのは存じています!」
「そういう意味じゃないよ!?」
レオンはエルナとの議論を続けたまま、片手だけフィナへ向けた。
「今は指導者の序列を決めている。少し待て」
フィナの口が半分開いた。
「私が一番上にいる前提なのに、私の話を後回しにするの!?」
誰も答えなかった。
フィナはしばらく三人を見回し、やがて標的の支柱へそっと額を預けた。世界最強級の魔法使いが、自分の弟子関係について発言する場所だけを失っていた。
長椅子からその様子を見ていたネムが、眠そうな声を落とす。
「フィナ、かわいそう」
フィナは救いを見つけたように顔を上げた。
「ネムだけだよ、気づいてくれたの……」
「でも、止めるの面倒」
「助けてはくれないんだね!?」
リリカがようやく火球を放ったのは、それから十分後だった。
三人の助言をすべて意識した結果、火球は標的の右側を先回りし、途中で軌道を修正し、なぜか最後には元の位置へ戻ってきた。リリカは慌てて身をかがめ、レオンが前へ出して展開した防壁で受け止める。
自分の頭上を通り過ぎた火球を振り返り、リリカは驚きより先に新しい意味を見いだした。
「今のは、火球が自分の心へ帰ってきたのですね!」
防壁を維持したまま、レオンが原因を訂正する。
「違う。操作線が循環しただけだ」
エルナは飛んでいった軌道を指でなぞり、呆れた顔になる。
「敵の未来じゃなくて、自分の過去を焼こうとしてたわよ!」
フィナもリリカの無事を確認しながら、慌てて自分への責任転嫁だけは防ごうとする。
「リリカ、大丈夫!? あと、私の教えのせいにしないでね!?」
しかしリリカは満面の笑みを浮かべた。
「はい! 三人の教えが一つになった結果です!」
フィナは両手を頭へ持っていった。
「もっと悪いよ!」
レオンは防壁を解除し、エルナは額を押さえ、フィナは自分まで責任者へ数えられたことに肩を落とした。
長椅子では、騒ぎで目を覚ましたネムが半身を起こしている。四人を順番に眺めた後、眠そうな目のまま結論だけを落とした。
「教える人、全員向いてない」
フィナが振り返った。
続いてレオン、エルナ、リリカの視線が、順番にネムへ集まる。
全員から注目されたネムへ、フィナが最後の希望のように尋ねる。
「じゃあネムが教える?」
「眠いから無理」
ネムは再び枕へ顔を埋め、指導する責任だけを何の迷いもなく四人へ返した。
動く標的が変わらぬ速さで訓練場を往復する中、結局誰が師匠なのかも、誰の教えが正しいのかも決まらず、リリカの語録帳にだけ四人分の新しい教えが増えていた。




