第一章 27 『無熱燐花はお菓子を焼けるのか』
正式な特別実習班の結成祝いとして、五人は学院の調理室を借りて菓子を作ることになった。
長机の上には小麦粉、卵、砂糖、乳脂、果実の蜜が並び、壁際の魔導炉では青い火が静かに揺れている。フィナは材料より先に、自分の指先へ咲かせた炎の花を嬉しそうに眺めていた。
「この花火、熱くないけど、頑張れば焼けるかな」
調理器具を確認していたレオンと、前掛けの紐を結んでいたエルナが同時に振り返った。
「熱がなければ焼けない」
「そこを頑張らせないで!」
二人の声が重なった。
フィナは指先の無熱燐花〈フロルミナ〉と二人を見比べ、少しだけ頬を膨らませる。
「聞いてみただけだよ」
エルナは前掛けの紐を結び終えると、フィナの指先で揺れる炎の花へ警戒するような目を向けた。
「質問の時点で危険なのよ。あんたの『頑張る』は、魔法の性質そのものを変えかねないでしょ」
レオンは調理器具から視線を外し、いつものように理屈から問題を整理しようと口を開く。
「正確には、加熱とは対象へ熱エネルギーを移動させ、内部の水分や脂肪、蛋白質へ変化を起こす工程だ。熱を持たない炎では、その前提が――」
途中まで聞いたエルナが、何かに気づいたように眉を寄せた。
「待ちなさい。フィナの魔法へ普通の物理法則を前提にする方が危険じゃない?」
レオンの口が止まった。
調理室へ短い沈黙が落ちる。エルナは自分の指摘が完全に正しかったことに気づき、勝ち誇るより先に、少しだけ不安そうにフィナの指先を見た。
「……それは、そうだな」
まさかレオンがあっさり認めるとは思わなかったフィナは、目を丸くして二人を見比べた。
「今、レオンが負けた?」
レオンはすぐに平静を取り戻し、勝敗の話へ持っていかれないよう記録用紙へ視線を戻す。
「議論に勝敗を持ち込むな」
そこへ、話を別方向へ受け取ったリリカが語録帳を胸元へ抱え、感動したように身を乗り出した。
「無いものさえ努力で補う。これがお師匠様の料理なのですね!」
リリカは既に語録帳を開いていた。
「違うよ!? 私は熱がないなら、少しくらい応援したら出るかなって思っただけだよ!」
フィナが慌てて訂正しても、リリカの羽根ペンは止まらない。
「炎へ心を寄せ、その可能性を信じる……!」
「応援の話を壮大にしないで!?」
フィナが語録帳を閉じようと手を伸ばした隙に、ネムは長机の端から砂糖をひとつまみ取って口へ運んだ。
視界の端でその動きを捉えたフィナは、リリカからネムへ勢いよく顔を向ける。
「ネム、それ味見する段階じゃないよ」
ネムは口の中の砂糖を確かめるように一度だけ舌を動かし、何事もなかったような顔をしている。
「砂糖の確認」
「甘いに決まってるよ!」
フィナの抗議を受けても、ネムは確認作業を終えた研究者のように淡々としていた。
「確認できた。甘い」
「堂々と結果を報告しないで!」
フィナが砂糖壺を遠ざけると、ネムは何も言わず、今度は果実の蜜へ視線を移した。
フィナは壺と蜜の間へ両腕を広げ、九歳の少女から食材を守るという、予想していなかった役目を引き受けることになった。
「菓子くらい、普通に作れば簡単でしょ」
エルナは髪先を払って前へ出た。先ほどまでフィナの魔法を警戒していた表情は消え、今度は自分の番だと言わんばかりに胸を張る。
「材料を量って混ぜて焼くだけよ。学院主席を甘く見ないで」
その自信へ、レオンは材料の分量表を確認しながら淡々と現実を差し込んだ。
「料理と成績に直接の関係はない」
「分量を計算するでしょ!」
「その理屈なら、測量士は全員一流料理人になる」
即座に返された例えへ、エルナは眉を吊り上げて卵をつかんだ。
「細かいわね! 私ができるって言ってるんだから見てなさい!」
エルナは卵を手に取り、器の縁へ軽く打ちつけた。
殻が予想以上に大きく割れ、黄身と白身と細かな殻が、仲よく器の中へ落ちた。
エルナの笑顔が止まった。
フィナは見ていないふりをしようとして、そっと顔を横へ向けた。レオンは無言で記録用紙を閉じ、リリカは「おお……」と感嘆の息を漏らす。ネムは果実の蜜へ伸ばしていた手を止め、器を見た。
四方向から集まる視線を感じたエルナは、器の中を確認しながら言い訳を探すように一瞬だけ間を置いた。
「今のは、その……」
エルナは四人の視線を確認した後、身体で器を隠した。
「少し殻が入っただけよ。こんなの、すぐ取れるんだから」
指先へ細い雷が灯る。
エルナは誰も見ていないことを確かめるように、ゆっくり背後を振り返った。
フィナ、レオン、リリカ、ネムが、身長順でも役割順でもなく、無言で一直線に並んでいた。
エルナの笑顔が、さらに固まった。
それでも引き返せなくなったエルナは、指先の雷を器へ向けながら、いかにも予定どおりだったという顔を作った。
「雷光演算の調理応用よ」
フィナは器とエルナの指先を見比べ、どう見ても大げさな行為へ首を傾げる。
「卵の殻を取るだけだよね?」
「違うわ。殻の位置、厚さ、白身との接触面を瞬時に算出して、雷で殻だけを弾く高度な――」
長い説明の途中で、ネムが器を覗き込んだまま最短の解決策を置いた。
「指で取った方が早い」
「ネム、今は黙ってなさい!」
エルナの秘技だと信じたリリカは、もう語録帳へ新しい頁を作っている。
「副師匠の秘伝、雷殻分離術……!」
「記録しなくていい!」
フィナは焦るエルナと書き続けるリリカの間へ手を出し、せめて被害を広げないよう止めに入る。
「私の失敗だけじゃなくて、エルナの失敗まで教えにしないであげて!」
「失敗じゃないわよ!」
エルナが雷を走らせると、殻だけは確かに器から跳ね上がった。
同時に黄身も跳ね、隣に立っていたフィナの頬へ、黄色い筋を一本だけ残した。
調理室へ、今日二度目の長い沈黙が落ちた。
フィナは頬についた黄身を指ですくい、何が起きたのか確かめるように一度指先を見てから、ゆっくりエルナへ顔を向けた。
「私、何もしてなかったよね?」
先ほどまでの強気が完全に消えたエルナは、黄身のついたフィナの頬から目を逸らせず、肩を少し縮めた。
「……ごめん」
「すごく素直に謝られると、怒れないよ!」
フィナが布で頬を拭いている間に、レオンは材料を正しい分量へ戻した。混ぜ方、乳脂を加える順番、生地の温度を説明し始める。
最初は菓子作りの注意だったはずが、三分後には魔導炉の燃焼効率、熱伝達板の材質、炉内の対流構造へ話が広がっていた。
「つまり、炉内温度を均一に保つには、熱源だけでなく空気の流れを――」
生地を混ぜる手を止めたフィナは、いつの間にか菓子そのものが説明から消えていることへ気づき、困ったようにレオンを見た。
「レオン、菓子の話はどこへ行ったの?」
レオンは説明用に描いた炉の断面図を示し、自分の話が完全に菓子作りの延長線上にあると信じて疑わない。
「菓子を焼くための説明だ」
「炉を作るところから始めてない?」
「理解には構造が必要だ」
黒板へさらに線を足そうとするレオンへ、フィナは両手を合わせるようにして訴えた。
「今日中に食べられる説明にしてよ!」
フィナが困った顔で訴える横で、ネムは混ぜ終えた生地へ指を入れた。
それに気づいたフィナは、今度こそ見逃さないとばかりに器を抱え込む。
「ネム!」
ネムは生地のついた指先を口へ運びながら、当然の工程であるかのように答えた。
「味見」
「まだ焼いてないよ!」
「焼く前の味を確認」
あまりに迷いのない説明へ、フィナは器を抱えたまま一瞬だけ言葉に詰まる。
「それ、必要なの?」
「比較に必要」
あまりに淡々と言われ、フィナは一瞬だけ納得しかけた。しかしネムの指が二度目、三度目と器へ向かったため、慌てて器をさらに遠ざける。
「比較、一回でいいよね!?」
「精度が足りない」
「味見に精度を求めないで!」
ようやく生地を型へ流し込むと、フィナは待ちかねたように無熱燐花を咲かせた。
淡い炎の花が型の周囲を取り囲み、花弁が幾重にも重なる。調理室全体が幻想的な光へ包まれ、焼く前の生地とは思えないほど神聖な光景になった。
その美しさに目を奪われたリリカは、両手を胸元で組んで型を見つめる。
「見た目はすごいです!」
一方、レオンは見た目には一切惑わされず、型の縁へ指先を触れて温度を確かめた。
「見た目しか変わっていない」
レオンが型へ触れ、即座に結論を出した。
生地は冷たいままだった。
フィナは焼ける気配のない生地を覗き込み、炎の花へ励ますような視線を向ける。
「もう少し花火に頑張ってもらうね」
嫌な予感しかしないエルナが、即座にフィナへ身を乗り出した。
「頑張らせるなと言ったでしょ!」
今度は炎の花が天井近くまで舞い上がり、光の輪となって調理室を巡った。花弁が降り注ぎ、型の上へ美しい紋様まで描かれる。
それでも生地は一度も温まらなかった。
レオンは幻想的な光景と冷たい生地という両極端な結果を見比べ、評価できる部分だけを冷静に拾った。
「飾りつけだけなら、王宮の祝宴でも通用するな」
フィナは冷たい型を両手で示しながら、評価する場所が違うと訴える。
「焼けてないから食べられないよ!」
その失敗すら教訓へ変換したリリカは、炎の消えた空間を見上げて感極まったように息を吸った。
「外見を完成させ、内面の未熟さを示す……お師匠様から私たちへの教えですね!」
「お菓子に人生を背負わせないで!?」
フィナが炎の花を消すと、急に調理室が寂しくなった。
結局、菓子は普通の魔導炉で焼くことになった。エルナは先ほどの失敗を取り返そうと、雷で泡立て、雷で型を並べ、雷で炉の扉を閉めようとした。
泡立て器は速すぎて生地を壁へ飛ばし、型は正確に並びすぎて隙間がなくなり、炉の扉は勢いよく閉まってエルナの前掛けの端を挟んだ。
三度目の失敗まで一気に起きた光景へ、フィナはとうとう両手で頭を抱えた。
「普通にやろうよ!?」
前掛けを炉へ挟まれたままのエルナは、格好がつかない状況でも強気だけは崩さず、扉を引っ張りながら反論する。
「今度は成功するところだったの!」
その場から動けなくなったエルナを、ネムは椅子へ座ったままじっと見上げた。
「前掛け、捕まってる」
「見れば分かるわよ!」
リリカはエルナの拘束状態にまで意味を見いだし、語録帳を開き直した。
「副師匠は、菓子作りすら己を拘束する修行へ――」
「リリカ、お願いだから今は助けてあげて!」
フィナが炉を開けて前掛けを外している間にも、ネムは焼き上がった菓子を一つだけ取り、半分に割っていた。
フィナは前掛けを解放した直後にその姿へ気づき、今度はネムの方へ慌てて手を伸ばす。
「熱いから待ってね!」
しかしネムは菓子を包む熱だけを静めたらしく、湯気の消えた半分を平然と持ち上げていた。
「静めた」
「能力を味見へ使わないでよ!」
ネムは冷めた菓子を一口食べ、その便利さを証明するように小さく咀嚼する。
「便利」
「便利だけど!」
ようやく全員で卓上を整えた時、予定していた数より菓子が明らかに少なかった。
レオンが型の数を数え、エルナが皿を確かめ、リリカが机の下まで覗き込む。フィナも空になった生地の器を持ち上げた。
四人の視線が、ゆっくり同じ方向へ動いた。
ネムは空の器を両腕で抱え、最後の一口を食べ終えたところだった。
フィナは器の空っぽ具合とネムの満足そうな顔を見比べ、信じたくない答えを確認するように問いかける。
「ネム、味見してた」
皿に残った数を数え終えたエルナは、さすがに味見では説明できない減り方へ声を上げた。
「味見で半分消えるわけないでしょ!」
ネムは空の器を抱き締めたまま、これまでの行動を一言で正確にまとめた。
「いっぱい味見」
過去に世界を震わせた名称を菓子の消失理由へ流用され、フィナは止めるべきか感心するべきか分からない顔で固まった。
結成祝いの皿には予定の半分だけが残り、その隣では、誰より働かなかったネムだけが誰より満足そうに器を抱えていた。




