第一章 26 『フィナの普通を決める会議』
翌朝、特別実習班の班室を訪れたフィナは、扉を開けた姿勢のまま静かに後ずさった。
部屋の中央には、天井へ届きそうな大型黒板が二枚。長机には温度計、風圧計、天秤、魔力量測定器、強度試験用の鉄板、記録用紙の束が、これから国家規模の災害対策会議でも始まるかのように並んでいる。
その中央で記録用紙を整理していたレオンは、扉の向こうへ消えかけているフィナを見逃さなかった。
「フィナ。逃げるな」
フィナは扉の縁へ両手をかけたまま、半分だけ顔を覗かせる。
「まだ入ってもいないのに、どうして逃げたって分かったの?」
「後ろへ三歩移動している」
レオンの視線が、フィナの足元から廊下へ伸びる三歩分の距離を正確になぞった。
「これは心の準備だよ」
すると、フィナの背後から床すれすれの位置で、眠たげな声が割り込んだ。
「足も準備してた」
扉の陰へ半分隠れたフィナの背後から、ネムが事実を追加した。
しかもネムは歩いてきたわけではない。フィナの外套の裾を両手でつかみ、床を滑るように引きずられていた。
自分の背後を振り返ったフィナは、そこで初めて移動手段にされていたことへ気づき、大きく両手を広げた。
「ネム、私を乗り物にしないでよ!」
ネムは外套をつかんだまま、悪びれる様子もなく事実だけを返す。
「歩いてない。運ばれてる」
「もっと駄目だよ!?」
そのやり取りを黒板前から見ていたエルナが、腰へ片手を当てて声を張った。
「二人とも早く入りなさい!」
フィナが渋々班室へ入ると、レオンは逃走防止とでも言いたげに扉を閉めた。その音を聞いたフィナの肩が小さく跳ねる。
全員が揃ったことを確認したレオンは、黒板へ向き直り、今日のために用意した大量の資料へ手を添えた。
「今日の議題は、今後の実習における安全基準の策定だ」
レオンが示した黒板の上部には、《フィナ・アウセリアの感覚的魔法表現に関する定量化および事前危険評価会議》と書かれている。
題名を最後まで目で追ったフィナは、一拍遅れて両腕を広げた。
「長いよ!」
「題名の時点で問題の複雑さが伝わるだろ」
「私の名前が最初にあるせいで、犯罪者の取り調べみたいになってるよ!」
黒板の反対側で測定器を確認していたエルナは、さらりと訂正を差し込んだ。
「犯罪者じゃないわ。災害要因よ」
「エルナの方がひどい!?」
エルナは抗議を受けても表情を変えず、強度試験用の鉄板を机の端へ寄せる。
「安心しなさい。今日は魔法を使わせないから」
「何に安心すればいいの!?」
フィナが助けを求めるように周囲を見ると、リリカだけが目を輝かせていた。
語録帳を胸元へ抱えたリリカは、壮大な歴史の瞬間へ立ち会っているかのように背筋を伸ばす。
「ついにフィナ師匠の感覚が、世界の基準として定められるのですね!」
「逆だよ!? 私を世界へ合わせる会議だよ!」
だがリリカは、フィナの訂正まで新たな教えとして受け取ったらしく、ますます瞳を輝かせた。
「自らを世界へ合わせることで、世界の方から師匠へ近づかせる……」
「近づいてこなくていいよ!? 普通に話を聞いて!」
リリカは感動に震えながら語録帳を開いた。
その間にネムはフィナの椅子へ座り、机の引き出しから毛布を取り出して膝へ掛けていた。いつ用意したのか、小さな菓子袋まで抱えている。
自分の席が完全に占領されていることへ気づいたフィナは、椅子の背へ両手を置いてネムを覗き込む。
「ネム、そこ私の席だよね?」
「今日は測定対象。座らない」
「立ったまま一時間!?」
フィナが驚きで変なポーズを取っていると、レオンは分厚い予定表を一枚めくり、淡々と現実を上乗せした。
「場合によっては二時間だ」
「増えた!」
レオンが淡々と記録用紙をめくったため、フィナは椅子の背をつかんだまま笑顔で固まった。
エルナはその肩を押し、黒板前の印が付いた位置へ立たせる。床には白い線で小さな円まで描かれていた。
円の中央へフィナを収めたエルナは、そこから一歩でも出そうなら即座に戻すつもりらしく、腕を組んで正面へ立つ。
「ここから出ないでね」
「私、魔法を使わないんだよね?」
「急に使う可能性があるでしょ」
「私を何だと思ってるの!?」
四人の視線が同時にフィナへ集まった。
フィナはしばらく待ったが、誰も答えなかった。視線だけが妙に正直だった。
「言葉にしない方が傷つくよ……」
肩を落としたフィナの前で、レオンは最初の用紙を構えた。先ほどまでの騒ぎを切り替えるように記録具も起動し、最初の確認項目へ視線を落とす。
「確認する。お前の言う『小さい火』は、どの程度だ」
フィナは難しいことを聞かれたつもりもなく、指先を合わせながら素直に答えた。
「いっぱい火より少なければ、小さい火だよ」
部屋から音が消えた。
レオンの筆が止まり、エルナの眉がゆっくり上がる。リリカは何かを悟った顔で息を呑み、菓子をかじっていたネムさえ咀嚼を止めた。
四人から一斉に向けられた反応へ不安を覚えたフィナは、指先同士を合わせたまま身体を少し縮める。
「……違った?」
レオンとエルナはゆっくり顔を見合わせ、ほぼ同時にフィナへ向き直った。
「比較対象がおかしい!」
「基準として成立していないでしょ!」
左右から声を浴びたフィナは、両耳を押さえるように肩をすくめた。
「二人とも声が大きいよ!」
レオンは黒板へ書かれた《小さい火》の項目を指し、記録上の問題点を一気に突きつける。
「『いっぱい火』は標的を分けて自動追尾し、指定対象だけを消滅させる星火万葬〈イグナレクシア〉だぞ! それより一つ少なければ小規模になると思うな!」
「でも、いっぱいよりは少ないよ?」
「数の問題じゃない!」
ここまで聞いていたエルナは、質問そのものにも問題があると気づき、今度はレオンへ顔を向けた。
「じゃあ最初から、何個か聞けばよかったじゃない!」
「質問の仕方が悪いのよ。フィナに『どの程度』なんて曖昧に聞いたら、自分の基準で答えるに決まってるでしょ」
「その壊れた基準を調べるための質問だ」
真顔で返された言葉へ、フィナが円の中央から勢いよく身を乗り出した。
「本人の前で壊れたって言わないで!?」
フィナの椅子へすっかり収まったネムは、毛布の中から顔だけを出して淡々と追撃する。
「事実だから仕方ない」
「ネムまで参加しなくていいよ!」
ネムは菓子を食べ終えると、フィナの椅子へさらに深く座った。
一方、リリカは猛烈な勢いで語録帳へ書き込んでいる。羽根ペンが紙を走る音だけで、明らかに一行や二行では済んでいなかった。
「最大を知る者だけが最小を定義できる……! お師匠様にとって星火万葬さえ、より大きな可能性から見れば小さな一歩――」
「そんな壮大な話じゃないよ!?」
「謙虚さまで記録します!」
「そこも記録しないで!」
フィナが語録帳を閉じようと近づくと、床の円から片足が出た。
すぐさまレオンの筆先がフィナの足元へ向き、記録用紙へ新しい項目を書き込む構えを見せる。
「フィナ。測定位置へ戻れ」
「私、今はリリカを止めようとしただけだよ!?」
「無断移動一回」
レオンが記録用紙へ線を引いた。
「何で記録したの!?」
「測定対象が指示に従わなかったからだ」
フィナは納得できない顔のまま、今度は自分の椅子でくつろぐネムへ勢いよく指を向けた。
「ネムは私の椅子を取ってるよ!」
フィナの椅子に深く身体を沈めたネムは、目を閉じたまま自分には関係ないとばかりに返した。
「ネム、測定対象じゃない」
「不公平だよ!」
抗議するフィナを置き去りにし、レオンは黒板の左半分へ数式を書き始めた。
「火球の直径をD、温度をT、魔力量をM、対象までの距離をLとする。着弾時の熱量と拡散率から、許容被害半径を――」
数式が三段目へ入ったところで、エルナはこれではフィナが最初の記号から置いていかれると判断し、黒板の右半分へ大きな丸と小さな丸を描いた。
「そんな説明でフィナが分かるわけないでしょ!」
エルナは二つの丸を交互に示し、できるだけ単純な図へ置き換えて説明を始める。
「いい、フィナ? こっちが普通の火球。こっちがあんたの火球。まず、この大きさへ合わせるの」
円の中から黒板を眺めていたフィナは、素朴な疑問を浮かべて首を傾けた。
「どっちが私の?」
「大きい方に決まってるでしょ!」
「でも、丸がちょっと大きいだけだよ?」
エルナは黒板いっぱいの巨大な円を描きかけた手を止め、こめかみを押さえた。
「黒板へ山を描きたくないのよ!」
そこへレオンが図の曖昧さを見逃さず、エルナの描いた丸へ寸法を書き足す。
「その説明では寸法も距離も不明だ。雑すぎる」
「あんたのは難しすぎるの!」
「俺は正確に説明している」
「伝わらなければ意味がないでしょ!」
レオンはエルナの絵へ寸法を書き込み、エルナはレオンの数式を丸で囲んで「ここから不要」と書いた。
レオンが即座に消し、エルナが雷の細い光で火球の軌道を示す。レオンは光速と火球速度の差を指摘し、エルナは見やすさのためだと反論した。
二人の議論が完全にフィナから離れていく一方、リリカは黒板の前で繰り広げられる応酬を、重要な魔法史の一場面でも見るような表情で追っていた。
「フィナ師匠の感覚を巡り、理論と実践が激突している……!」
円の中央へ置き去りにされたフィナは、両腕を大きく広げてリリカへ訴える。
「リリカ、楽しそうにしないで! 私の普通を決める会議だよ!」
「師匠の普通は、歴史の転換点です!」
「そんな重い普通いらないよ!」
フィナは床の円の中で一人、右と左を交互に見た。
レオンの黒板は数式で埋まり、エルナの黒板は火球、木箱、逃げる人、なぜか倒れた城壁の絵で埋まっていく。質問される気配はもうない。
二人の議論へ割り込む隙を失ったフィナは、とうとう小さく手を上げた。
「私、何を答えればいいのかな」
黒板から視線を離さないレオンは、フィナへの聞き取りより説明方法の整理を優先したまま答える。
「今は聞かない。説明法を決めている」
「私へ説明する方法を、私抜きで決めてるの!?」
レオンがフィナの足元へ一度視線を落としたため、円から出ようとしていた身体がぴたりと止まる。
「動くと追加記録」
「もう動かないよ!」
フィナは頬を膨らませ、床の円の中央へしゃがみ込んだ。
数分後には膝を抱え、その上へ顎を乗せている。さらに時間が経つと、円から出ないよう器用に身体を傾け、近くの机へ額だけを預けた。
反対側ではネムがフィナの椅子で完全に眠っている。二人の頭の高さだけが徐々にそろっていった。
その様子まで意味のある訓練と受け取ったリリカは、語録帳を抱えたままフィナへ期待の目を向ける。
「フィナ師匠。これは、動かず耐える修行ですね!」
机へ額をつけたまま、フィナはもう訂正する気力さえ削られた声を返した。
「違うよ。もう帰りたいだけだよ」
「本音をさらけ出すことも修行の一環……!」
フィナは勢いよく顔を上げた。
「何でも修行にするのやめよう!?」
その瞬間、視界の端でネムの手が菓子袋へ伸びた。
フィナは疲れ切っていた表情を一瞬で変え、二袋目へ入ろうとする手を指さす。
「ネム、それ二袋目だよね?」
ネムは袋を抱えたまま、長引く会議こそ正当な理由だと言わんばかりに目だけを向けた。
「測定、長いから」
「測定されてるの私だよ!」
「フィナ、食べない」
「食べられないの! 円から出ると記録されるから!」
ネムはその事情を理解した上で、菓子袋を自分の胸元へ引き寄せる。
「ネムが食べておく」
「親切みたいに言わないでよ!」
菓子を守ろうとフィナが立ち上がろうとした瞬間、黒板の前で議論していたレオンとエルナが同時に振り返った。
「位置を動くな!」
「今いいところなのよ!」
左右から制止されたフィナは、立ち上がりかけた姿勢のまま二人を見比べ、次に菓子を持つネムへ指を向けた。
「私の菓子がなくなるところだよ!」
二人は一瞬だけネムを見た。
ネムはフィナの椅子に座り、フィナの毛布を使い、フィナの菓子を食べていた。しかし次の瞬間には、二人とも黒板へ向き直った。
「見なかったことにされた!」
フィナの悲鳴を背に、議論はさらに一時間続いた。
気づけば黒板は数式と絵で完全に埋まり、記録用紙は安全会議ではなく、フィナ取扱規則の草案へ変わっていた。
大量の項目を書き終えたレオンは、実習時の運用方法へ話を進める。
「実習前に威力申告書を提出させるべきだ」
エルナは黒板へ書かれた《小さい火=未定》という項目を見て、即座に問題点を返した。
「自己申告が信用できないなら、意味ないでしょ」
二人の意見が噛み合わないと見るや、リリカがぱっと顔を明るくした。
「ではレオンさんとエルナ先輩が、毎回フィナ師匠の心を読み取るのですね!」
「できるか!」
「できないわよ!」
二人の否定が重なった直後、フィナの椅子から眠たげな声が落ちた。
「ネム、分かる」
机へ伏せたまま、ネムが目だけを開いた。
「フィナが『大丈夫』って二回言ったら危険」
「どうして!?」
さらにネムは、これまでの経験を当然の統計のように続ける。
「三回言ったら、もう遅い」
「私の大丈夫に段階を作らないでよ!」
レオンは少し考え、本当に用紙へ書き加えた。
フィナは笑顔のまま固まり、やがてゆっくり机へ沈んだ。
夕方になっても、「軽い水」も「壊れない土壁」も一度も確認されなかった。
会議で正式に決まったのは、フィナの自己申告を信用しないこと、魔法使用前にレオンとエルナの許可を得ること、「大丈夫」を二回言った時点でネムが避難を開始すること、そして測定中にネムが食べた菓子の補充をフィナが担当することだけだった。
完成した安全基準表を見下ろしたフィナは、自分だけが一度も魔法を使っていないのに、危険人物、申請者、菓子の補充係という三つの役割を与えられていることへ気づいた。
班室の中央では、世界最強の魔法使いが誰よりも小さく机へ沈み、その横で最も正しく会議を過ごしたネムだけが、満足そうに最後の菓子を食べ終えていた。




