第一章 25 『特別危険指定の休日』
学院地下への侵入事件が収束してから三日後、正式な特別実習班となった五人へ、一日の休日が与えられた。
実習も授業も報告書の提出もなく、学院外へ出ることも自由。五人がそろって休める日は、班の結成以来初めてだった。
「休暇中は心身の回復を優先し、無用な訓練および調査を控えること、だって」
班室の長机で、フィナは学院から渡された書類を声に出して読んでいた。
向かいではレオンが自分の書類を確認し、エルナは椅子の背にもたれて窓の外を眺めている。リリカは休日という言葉だけで期待に瞳を輝かせ、ネムはフィナの隣で既に眠そうだった。
「あれ?」
フィナが紙を傾けた。
「私のだけ、下に何か書いてあるよ」
「嫌な予感しかしない。読め」
「《特別危険指定》対象者は、休暇中も周囲へ十分配慮すること……だって」
班室へ、妙に重い沈黙が落ちた。
レオンは自分の書類を裏返して確認し、エルナも無言で紙の下端まで目を走らせる。リリカはフィナの書類を敬虔な表情で見つめ、ネムだけがフィナの袖を引いていた。
「毛布」
「あ、うん。ちょっと待ってね」
フィナは近くの棚から毛布を取り出し、ネムの肩へ掛けた。それから注意書きをもう一度読み、真剣な顔で考え込む。
「じゃあ今日は、危険じゃないことだけしよう」
「さすがです、フィナ師匠!」
リリカは勢いよく語録帳を開いた。
「力を持つ者ほど、何もしない勇気を持たなければならない……! 世界を動かせるからこそ、自ら動かぬ道を選ぶ! これこそ真の強者にのみ許された静かなる覚悟なのですね!」
「ただの休養日を王の退位宣言みたいに扱わないの!」
エルナが机を叩いて立ち上がった。振動でインク壺が跳ね、レオンが反射的に結界を張って受け止める。
「そもそも、何もしなければ安全という考え方が雑だ。危険性は行動の有無ではなく、発生確率と想定被害の積によって――」
「休日の説明に計算式を持ち込まないでよ!」
「必要だろ。休む行為にも転倒、寝違え、過度の睡眠による生活周期の乱れがある」
「それを言い始めたら、呼吸だって危険行動になるじゃない!」
「呼吸そのものは生命維持行動だ。安全行動とは分類が異なる」
「休むのだって生命維持でしょ!」
「休息は回復行動であって、生命維持行動と完全に同一ではない」
「どうでもいいわよ、その分類!」
二人は机の中央へ身を乗り出し、休むことを安全行動へ分類できるかという、休日の過ごし方とは無関係な論争を始めた。
その間にネムはフィナの膝へよじ登り、毛布に包まった。さらに机の上の菓子皿を自分の届く位置まで引き寄せ、最も柔らかそうな焼き菓子を一つ確保する。
フィナは膝の上へ増えた重みを受け止めながら、まだ言い争っている二人と、語録帳へ筆を走らせるリリカを順番に見た。
「それで、今日は何をするの?」
誰も答えなかった。
レオンは既に紙を一枚取り出し、危険度分類を書き始めていた。エルナはその横から勝手に別の紙を奪い、休日にふさわしい行動候補を書き並べる。
「まず予定を決める。午前は休養効果の高い読書、その後に軽い散歩。昼食を取ったら買い物へ行って、帰った後に軽い運動。夕方は入浴して、夜は早めに寝る。完璧でしょ」
「待て。散歩と買い物の経路が重複している。移動効率が悪い」
「休日に効率を求めすぎる方が間違ってるのよ」
「お前は今、完璧な休日を作ると言っただろ」
「有意義で完璧な休日よ! 効率だけが完璧さじゃない!」
「では評価基準を先に定義しろ」
「休日を評価するな!」
エルナが叫んだ直後、レオンは別の紙へ表を引き始めた。
休養目的、想定時間、必要物品、移動経路、疲労回復予測、事故発生時の対処。項目は次々と増え、十分もしないうちに、紙の束は迷宮実習前の作戦書とほぼ同じ厚さになっていた。
「休日って、こんなに準備がいるんだね」
フィナが感心すると、リリカが大きく頷いた。
「何もしないために、あらゆる可能性を想定しておく。深いです!」
「それは何もしないんじゃなくて、準備だけで一日が終わるやつだ」
レオンはそう言いながらも、筆を止めなかった。
「だが、決めずに動いて余計に疲れるよりはいい。まず各自の希望を確認する。フィナは何がしたい?」
「みんながしたいこと」
「お前自身の希望を聞いている」
「じゃあ、レオンが決めたこと」
「判断を返すな」
「なら私が決める!」
エルナは髪を払って立ち上がり、黒板へ大きく予定を書き始めた。
散歩三十分。読書四十分。軽運動二十分。買い物一時間。休憩十五分。その横へ、姿勢を正す時間、適切な水分補給、休日らしい会話という項目まで増えていく。
「休日らしい会話って、予定に入れるものなの?」
「入れておけば忘れないでしょ!」
「忘れる会話は、しなくていい会話じゃないか?」
「レオンは黙って計画表を作ってなさい!」
「今、その計画表を否定したばかりだろ」
エルナは黒板と紙の束を往復し、窓を開けて空模様を確認し、散歩に適した服装まで考え始めた。休暇を完璧に管理しようとする本人だけが、誰よりも忙しく班室を動き回っている。
一方、リリカは床へ座布団を置き、姿勢を正して目を閉じた。
「私は、何もしない修行へ入ります」
「修行にした時点で休んでないと思うよ!?」
「いいえ、フィナ師匠。何もしないことを意識しながら何もしないことで、何もしない心を――」
そこまで言ったところで、リリカの眉がわずかに動いた。
数分後、背筋はまだ伸びていたが、口元が小さく震えている。さらに一分が過ぎると、組んだ足の片方がじわじわと外へ逃げ始めた。
「リリカ、足が痛いの?」
「これは……痛みではありません。何もしない修行に対する、身体からの問いかけです」
「痺れてるだけ」
毛布の中からネムが言った。
リリカは笑顔のまま固まり、次の瞬間には横へ倒れた。足を抱えて声も出せずに転がる姿を見て、フィナが慌てて立ち上がろうとする。
「治す?」
「待て。お前の治すは範囲が不明だ」
「足だけだよ?」
「その『だけ』が信用できないから言っている!」
フィナは座り直し、膝のネムを落とさないようにしながら困った顔を浮かべた。
レオンの計画へ従えばいいのか、エルナの予定を手伝えばいいのか、リリカと何もしない修行をするべきなのか。ネムを見習って眠ろうにも、膝を貸しているため姿勢を変えられない。
「私、何をすればいいかな?」
「まず希望を決めろ」
「まず立って散歩の準備をして!」
「まず何もしない心を――痛っ、まだ足が!」
「動かないで。揺れる」
四方向から別々の答えが返ってきた。
フィナは笑顔のまま瞬きを止めた。やがて肩が少しずつ下がり、机へ近づいていく。隣ではレオンも計画表の増えすぎた項目を前に額を押さえ、エルナは予定の遅延を取り戻そうとして黒板を修正し続け、リリカは痺れた足を伸ばしたまま語録帳へ何かを書き込んでいた。
昼を過ぎても、五人は班室から一歩も出なかった。
散歩は準備時間の超過で中止。読書は本を選ぶ基準の議論で中止。買い物は購入品一覧の作成が終わらず中止。軽い運動は、リリカの足が回復するまで延期となった。
そのたびにレオンの計画表へ修正版が追加され、エルナは崩れた予定を組み直そうと立ったり座ったりを繰り返した。
「もう、いっそ今から何もしないってのは?」
机へ頬をつけたフィナが提案した。
「それでは今日の成果がないじゃない」
「休日に成果を求めるな」
「計画表を七枚も作った人に言われたくないわよ!」
「修正版を含めれば九枚だ」
「増えてるじゃない!」
レオンとエルナの声にも、朝ほどの勢いはなかった。
リリカは机の端へ顎を乗せ、語録帳を開いたまま動かない。フィナも反対側から同じように沈み、二人の間ではレオンが積み上げた作戦書級の休養計画が小さな壁を作っていた。
エルナは最後まで姿勢を保とうとしていたが、夕方には椅子の背へ沈み込み、黒板へ伸ばしかけた腕を途中で諦めた。
窓から橙色の光が差し込んだ頃、毛布の塊が静かに動いた。
午前中からフィナの膝で眠り続けていたネムが目を開け、ゆっくりと身体を伸ばす。菓子皿から最後の一枚を取り、四人の疲れ切った顔を順番に眺めた。
「みんな、休むの下手」
反論できる者は一人もおらず、初めての休日は、最初から最後まで何もしなかったネムだけが正しく休息を取ったという結果を残して暮れていった。




