第一章 22 『原初魔法という名前』
学院の研究保管庫で警報が鳴ったとき、フィナたちはまだ実習報告を終えたばかりだった。
黒い結晶が置かれていた保管台は空になり、扉も結界も壊されていない。床に残された黒い魔力痕だけが、廊下を横切って学院本棟の地下へ続いていた。
「正式な追跡隊が到着するまで、現場を動かすなと言われたはずだ」
「でも、その間に逃げちゃうかもしれないよ」
フィナは廊下の先へ消える痕跡を見つめた。
黒い線は少しずつ薄くなっている。レオンもそれを理解しているらしく、注意を口にしながら既に測定札を取り出していた。
「だから現場を荒らさず、位置だけ確認する。追いついても勝手に戦うな」
「分かった。勝手じゃなく、みんなで戦うね」
「前半しか聞いていない!」
「フィナ師匠は、追跡隊としての団結を重視されているのですね!」
「今の会話から団結だけを救出するな!」
リリカが手帳を開きかけると、エルナが無言で表紙を閉じた。
手帳とエルナの手に挟まれたリリカは、真剣な顔のまま一度だけ瞬きをする。
「今は記録より追跡でしょ」
「ですが、緊迫した場面での師匠の言葉は――」
「帰ってから思い出せる分だけ書きなさい」
「忘れた部分はどうすれば?」
「たぶん重要じゃない」
ネムが淡々と切り捨て、先頭へ出た。
黒い痕跡の前で目を閉じ、廊下に残る魔力の揺れへ意識を広げる。やがて眠そうな顔のまま、立入制限区域の扉を指さした。
「あっち。静かすぎる人が通った」
「静かすぎる?」
「足音も魔力も消してる。でも、消した跡がある」
「音を消した静寂と、最初から音がない状態は違うということか」
「うん。隠れるの、下手」
「学院の多重結界を抜けた侵入者への評価としては辛辣ね」
エルナが杖を抜き、床に残る黒い線の上へ細い雷光を走らせた。
「——雷光演算〈ルクシヴェリア〉、展開!」
雷の格子が廊下の分岐を覆い、残留魔力と扉の開閉履歴を拾い上げる。
三つの経路が浮かんだが、二つは途中で同じ場所を何度も巡る偽装経路だった。残る一本だけが、閉鎖された古い地下通路へ向かっている。
「本命は中央階段。ほかは魔力だけを歩かせた分身体よ」
「魔力だけで歩くの!?」
「実際に足があるわけじゃない! 追跡を逸らすための疑似反応よ!」
「じゃあ、靴はいらないんだね」
「そこに興味を持たないで!」
「魔力用の靴……新しい装備の可能性があります」
「リリカも広げるな!」
エルナが二人を怒鳴っている間に、レオンは閉鎖扉の前へ膝をついていた。
扉には学院の封印術式とは別に、黒い細線が絡みついている。解除手順を誤れば通路そのものが閉じ、侵入者との距離を広げられる構造だった。
「外側の学院式を維持したまま、侵入者が追加した部分だけを切る。全員、魔力を抑えろ」
「応援も駄目?」
「応援に魔力を込めるな」
「気持ちだけにします!」
「リリカの気持ちは火球になりそうだから、少し離れろ」
レオンが複数の光線を扉へ差し込み、黒い術式の接続点を一つずつ分離する。
最後の線が切れた瞬間、扉の隙間から人型の影が三体飛び出した。顔も装備も同じだが、内部の魔力は薄く、攻撃と同時に爆ぜるよう組まれている。
「分身体です!」
リリカは驚きながらも杖を構え、足を止めなかった。
小さな火球を床すれすれに三つ放つ。火球は分身体そのものではなく、足元に伸びた黒い影へ命中し、爆発術式へ繋がる線だけを焼き切った。
三体の影は糸を失った人形のように崩れ、黒い煙となって消える。
「できた……!」
「今の判断はよかったわ。敵の姿じゃなく、動かしている術式を狙ったのね」
「はい! 以前の私なら、全部を大きな火球で吹き飛ばしていました!」
「成長してるけど比較対象が怖いのよ!」
「フィナ師匠を見習いました!」
「そこは見習ってないよ!?」
フィナが慌てて否定する横で、ネムは床へ落ちた黒い煙を踏まないよう小さく跨いだ。
「真似、禁止の成果」
「はい!」
「禁止されたことを誇らしげに受け継ぐな!」
解除された扉の先には、地下保護区画よりも古い通路が続いていた。
壁面の照明は消えていたが、黒い魔力痕が細く光り、奥へ道を示している。五人はネム、レオン、リリカ、フィナ、エルナの順に並び、互いの距離を空けずに進んだ。
途中で作動した床の罠はネムが魔力の動きを静め、レオンが解除した。左右の壁から射出された黒い針は、エルナの雷が軌道を逸らし、リリカの火球が術式の根元を焼き切る。
やがて通路が開け、古い円形施設へ出た。
中央の台座には盗まれた黒い結晶が浮かび、その前に黒い外套をまとった侵入者が立っている。胸元には、外輪と十二の小円を組み合わせた黒い紋章が刻まれていた。
「そこまでよ!」
エルナが杖を向ける。
「結晶から離れなさい。逃げ道も、もう予測してあるわ」
「正面、左右、天井。全部見てる」
ネムも侵入者の動きを静かに追う。
レオンはフィナの前へ半歩出て、施設と結晶を結ぶ術式を測定した。リリカは後方の通路を守り、分身体が現れても対処できるよう火球を一つだけ維持している。
侵入者は囲まれても慌てなかった。
黒い仮面の奥から、まっすぐフィナを見つめる。
「——ようやく見つけた。全属性へ適合し、術式を必要とせず、認識のみで現象を成立させる存在」
低い声が、古代施設へ静かに響いた。
「完全な原初魔法適合者」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
初めて聞く名称だった。それでも侵入者の声には、フィナの魔法を以前から知っていた者だけが持つ確信がある。
「原初魔法……?」
フィナは自分の手を見下ろし、少し考えてから顔を上げた。
「初級魔法とは何が違うの?」
重苦しい沈黙が、綺麗に転んだ。
「そこから聞くの!?」
エルナの声が施設全体へ響き渡る。
侵入者も予想していなかったらしく、説明のために上げかけた片手が空中で止まっていた。
「原初魔法とは、世界に術式という概念が生まれる以前の――」
「待て。敵の説明を信用するな」
レオンが鋭く遮った。
「でも、知ってそうだよ?」
「知識が正しい保証はない。意図的に誤解させる可能性もある」
「じゃあ、半分くらいだけ聞く?」
「情報の真偽を量で調整するな!」
「敵から授業を受けようとするんじゃないわよ!」
エルナがフィナと侵入者の間へ割り込む。
「今は結晶を取り返す場面! 質問時間じゃない! そもそも、こいつは学院へ侵入した犯罪者なのよ!」
「臨時講師ではないのですか?」
後方でリリカが手帳へ《原初魔法・特別授業》と書いていた。
「どこをどう見たら講師になるの!?」
「新しい言葉を教えてくださいました」
「侵入料として結晶を盗んでる講師がいるわけないでしょ!」
「授業料、黒い結晶」
ネムが短く付け加える。
「学院側が払わされてるじゃない!」
侵入者はしばらく黙っていたが、やがて小さく肩を揺らした。
「ククク……興味深い。力だけでなく、認識の基準そのものが既存の魔法使いとは異なる」
「今、笑ったわね!?」
「エルナ、授業は?」
「受けないって言ってるでしょ!」
侵入者が黒い結晶へ手をかざす。
結晶から伸びた魔力線が古代施設の床へ入り込み、十二の円形装置へ次々と接続された。
「下がれ!」
レオンが結界を展開すると同時に、施設全体が目を覚ました。
壁が開き、何十体もの古代魔導兵が姿を現す。天井と床には防衛術式が重なって展開され、光弾、拘束鎖、刃状の魔力が五人へ照準を合わせた。
「数、六十四。上にも十二」
ネムが即座に数える。
「リリカは後方! エルナは防衛術式を止めろ! フィナ、兵だけを――」
「——いっぱい風」
フィナが両手を軽く広げた。
古代魔導兵の足元に、無数の小さな風が生まれる。
六十四体が一斉に床から浮き上がり、天井の十二体も落下する前に空中へ固定された。腕も脚も動かせず、攻撃術式だけが狙いを失って明滅する。
風は施設の床も壁も揺らさない。
レオンたちの髪や衣服にも触れず、中央に立つ侵入者の外套さえ動かしていなかった。
古代魔導兵だけが、見えない棚へ整然と並べられたように宙へ浮かんでいる。
「いっぱい風……?」
侵入者の仮面の奥で、目が細められた。
驚きではない。求めていた答えを確認した者の反応だった。
黒い紋章が光り、侵入者の手元にある薄い記録板へ、フィナの魔力反応と制御範囲が次々と刻まれていく。
「やはり、間違いない」
「何を記録してるの?」
「フィナ、近づくな! 最初からお前の反応を調べることが目的だったんだ!」
侵入者は黒い結晶から手を離し、記録板を外套の内側へ収めた。
施設の奥で転移術式が開き、黒い光が出口を形作る。フィナとの戦闘を続ける意思はなく、必要な反応だけを集めて逃走しようとしていた。




