第一章 20 『迷宮主より強い木級冒険者』
下層の奥から響いた咆哮は、空気だけでなく、壁へ埋め込まれた黒い金属板まで震わせた。
フィナたちが通路を抜けると、円形の広間へ出た。中央には迷宮核を守るはずの迷宮主が立ち、その背後では黒い魔力が柱のように渦巻いている。
四本の腕と岩の外殻を持つ魔物だったが、本来の姿より二回り以上も巨大化していた。肩や胸には黒い結晶が食い込み、岩肌の隙間から炎、雷、水、風の魔力が交互に漏れている。
「複数属性……しかも、全部が黒い魔力で無理やり繋がれてるわ」
エルナは杖を構え、迷宮主の胸元を睨んだ。
階段側から追いついた教員と上位冒険者たちも、広間の入口で武器を抜く。誰も軽率には近づかず、フィナたちの退路を確保するよう左右へ広がった。
「本来の迷宮主ではありません。実習は中断、直ちに後退してください!」
「待ってください」
レオンは床へ測定札を滑らせ、迷宮核へ続く魔力線を確かめた。
「黒い魔力が迷宮主と核を接続しています。ここで無理に引けば、追跡される可能性がある。通路で戦えば、退路そのものが潰されます」
「なら、広間で止めるしかないわね」
エルナが一歩前へ出る。
「フィナ、勝手に全部持っていかないでよ。右側の属性制御は私が――」
「わあ、火と雷が一緒になってる」
フィナは迷宮主を見上げ、純粋に感心した顔で目を輝かせていた。
「今、楽しそうに観察する場面じゃないでしょ!」
「だって、エルナの雷と火が混ざったみたいで綺麗だよ」
「私の雷は、あんな黒くて禍々しくないわよ!」
「そこが抗議点なのか?」
レオンの冷静な声に、エルナは勢いよく振り返った。
「違うわよ! 危険性も構造も全部まとめて抗議してるの!」
「要点を整理してから叫べ」
「戦闘前にツッコミの採点をしないで!」
「二人とも、仲良し」
ネムの短い判定が落ちた瞬間、迷宮主の四本の腕が広がった。
炎が右腕へ、雷が左腕へ集中する。二つの魔法陣は黒い線で結ばれ、広間の天井近くまで巨大化した。
「来るぞ!」
レオンが前方へ三重の結界を展開し、エルナも雷の障壁を重ねる。
迷宮主が両腕を振り下ろした。
「——炎雷崩界〈ヴァルグレシア〉!」
赤黒い炎の奔流へ、白紫の雷撃が何百本も絡みつく。
広間の床を削りながら迫る複合魔法は、直撃すれば後方の通路まで焼き払う規模だった。入口側の上位冒険者たちが防御姿勢を取り、教員が退避命令を叫ぶ。
「——小さい壁」
フィナは自分の足元へ手を向けた。
床から、膝ほどの高さしかない薄い土壁が一枚だけ立ち上がる。
「小さすぎる!」
「低い! 低すぎるわよ!」
レオンとエルナの声が重なった。
炎雷崩界〈ヴァルグレシア〉が土壁へ激突する。
轟音と閃光が広間を満たした。
しかし、土壁の後ろには、熱も風も雷も一つとして届かなかった。
膝ほどの壁を境に、巨大な複合魔法が縦に切り取られたように消えている。土壁には焦げ跡どころか、土粒一つ崩れた形跡もなかった。
長い沈黙が落ちた。
「……壁の高さに意味はあったのか?」
「みんなの顔が見えなくなったら困るかなって」
「防御魔法に視界の良さを求めるな!」
「でも、見える方が安心でしょ?」
「今は安心より常識が行方不明なのよ!」
入口側では、上位冒険者の一人が構えていた盾をゆっくり下ろした。
教員も退避を促すために上げた手を、そのままの形で止めている。誰も状況を説明できず、膝丈の土壁だけが堂々と広間の中央へ残っていた。
「フィナ師匠は、壁の大きさではなく守る意志こそが重要だと……!」
リリカが語録帳を取り出す。
「今は書かなくていいのよ!」
「ですが、この壁は歴史的な――」
「まず杖を構えなさい!」
エルナに怒鳴られ、リリカは慌てて語録帳をしまった。
迷宮主は複合魔法を防がれたことに激昂し、四本脚で床を踏み砕きながら突進する。巨大な身体が近づくたび、石床へ蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
「ネム、動きを遅くできるか?」
「少しなら。でも、黒いのが邪魔」
「なら右脚だけでいい。エルナは左側を牽制。リリカは下がって入口を守れ!」
レオンの指示に、全員が動く。
ネムが掌を向けると、迷宮主の右脚だけが水の中へ沈んだように鈍った。エルナの雷が左肩の関節へ正確に走り、突進の軌道を広間中央へ限定する。
「フィナ、止めろ! 迷宮核には触れさせるな!」
「うん。じゃあ、——重い水」
フィナの指先から、一握りほどの水が落ちた。
水は迷宮主の頭上へ移動し、額へぽたりと触れる。
次の瞬間、巨大な身体が床へ叩きつけられた。
四本の腕が石床へ沈み、脚は立ち上がろうと震えるだけで一歩も動かない。迷宮主の上には、掌ですくえる程度の透明な水しか浮かんでいなかった。
「……重い水?」
エルナの眉が痙攣した。
「うん。すごく重くしたの」
「重い水は水魔法の分類ではないわよ!」
「水が重いだけだよ?」
「その『だけ』で巨大な迷宮主が床に埋まってるのよ!」
「エルナ、諦めるまでが速くなったな」
レオンは迷宮主へ測定札を向けながら、真剣な顔で指摘した。
「以前なら、あと三往復は理論的に抗議していた」
「成長みたいに評価しないで! 説明しても無駄だと学習しただけよ!」
「学習も成長」
「ネムまで追い打ちをかけないで!」
エルナは反論しようと口を開いたまま、フィナとレオンとネムを順番に見た。
やがて肩を落とし、杖を持っていない方の手で顔を覆う。
「……水が重いだけ」
「自分へ言い聞かせ始めたぞ」
「聞こえてるわよ!」
フィナは押さえ込まれた迷宮主を見ながら、楽しそうに首を傾げた。
「この子、いろんな魔法を使えてすごいね。炎と雷だけじゃなくて、水と風も身体の中で回してる」
「黒い魔力が属性同士の反発を抑え、無理やり同時発動させているようだ」
レオンは迷宮主の上に浮かぶ水を測定し、さらに眉を寄せた。
「それと、フィナの水は通常の圧縮では説明できない。水量は増えていないのに、迷宮主へかかる圧力だけが桁違いだ。水へ質量か、落下圧そのものの概念を直接与えている可能性がある」
「難しい話?」
「かなり重要な話だ」
「じゃあ、あとで聞くね」
「今聞け!」
「戦闘中に長い説明を始めたのはレオンでしょ!」
エルナが噛みつき、レオンが言い返そうとする。
その間にも、迷宮主の胸に埋まった黒い結晶が激しく脈打った。
押さえ込まれたまま四つの属性が胸部へ集中し、炎、雷、水、風が一つの黒い球体へ圧縮されていく。広間の壁が軋み、迷宮核の光まで不安定に揺れた。
「まずい! 核ごと巻き込む気だ!」
「フィナ師匠!」
「大丈夫。魔法だけ消すね」
フィナの掌に、何の変哲もない小さな火球が浮かんだ。
分裂もせず、巨大化もせず、ゆっくりと迷宮主へ飛んでいく。
黒い球体と触れた瞬間、火球はその中心へ吸い込まれた。
爆発は起きなかった。
炎も雷も水も風も、最初から存在しなかったように消える。迷宮主の身体には傷一つ増えず、迷宮核も壁も床も、そのまま残っていた。
力を使い果たした迷宮主だけが瞼を閉じ、深い音を立てて気絶する。
「……普通の火球?」
エルナが乾いた声で尋ねた。
「うん。魔法を消すだけの火」
「普通の火球は、他の魔法を選んで消さないのよ」
「でも、迷宮主まで燃やしたらかわいそうでしょ?」
「優しさの使い方が規格外なのよ!」
フィナが重い水を消すと、迷宮主の胸部から黒い結晶が転がり落ちた。
拳ほどの結晶は生き物の心臓のように脈打ち、床へ触れた途端、迷宮核へ黒い線を伸ばす。
「全員、結晶から離れろ!」
レオンが結界を張るより早く、黒い魔力が迷宮核へ流れ込んだ。
広間が大きく傾き、天井から石片が降り始める。壁の金属板は次々と砕け、帰還経路の通路にも深い亀裂が走った。
迷宮主を無傷で制圧した木級冒険者の目の前で、黒い結晶に侵食された迷宮全体が崩壊を始めた。




