第一章 19 『師匠の真似は禁止です』
地図に存在しない下層は、上の迷宮とは明らかに造りが違っていた。
壁には黒ずんだ金属板が埋め込まれ、床を走る溝には弱い光が流れている。五人が階段を降り切ると、背後の封印は閉じなかったが、上層から届いていた迷宮核の魔力は急激に薄くなった。
「ここから先は、上の迷宮とは別の区画と考えた方がいい」
レオンは帰還用の記録札を階段脇へ固定し、正面へ薄い結界を展開した。
「勝手に物へ触るな。単独で角を曲がるな。フィナは、何か分かっても即座に魔法を使うな」
「最後だけ私専用だよね!?」
「必要だから追加した」
「特別対応です、フィナ師匠!」
「特別危険指定の方だと思う」
ネムがフィナの袖を掴んだまま、容赦なく補足した。
「二人とも、もう少し前向きな特別にしてくれない?」
「前向きに危険」
「方向の話じゃないよ!?」
リリカがその会話まで手帳へ記録しようとしたところで、通路の奥から硬いものを擦る音が響いた。
左右の壁まで四歩ほどしかない狭い直線通路。その中央を塞ぐように、六本脚の甲殻魔物が姿を現す。
背丈はリリカの肩ほどだが、全身を覆う黒褐色の甲殻は厚い。曲面状の外殻には淡い紋様が走り、魔法を受け流す反射術式が表面を巡っていた。
「反射型よ」
エルナは杖を構え、甲殻の紋様へ鋭く目を走らせた。
「正面から魔法を当てれば、入射した方向へそのまま返される。通路が狭いから、避ける場所も少ないわ」
「じゃあ、私が甲羅だけ外そうか?」
「待ってください!」
フィナが一歩前へ出るより先に、リリカが杖を胸元へ引き寄せた。
声はわずかに震えていたが、目は魔物から逸れていない。
「私に戦わせてください。いつまでも、フィナ師匠やエルナ先輩に守られているだけでは、弟子とは言えません!」
「保留中の弟子だけどね」
「今そこを確認する必要あります!?」
エルナのツッコミに、リリカは少しだけ肩を縮めた。
「でも、自分でやってみたいのは本当です」
「なら、正面の一体だけに集中しろ」
レオンは通路の両壁へ補助結界を張り、全員の退路を階段側へ確保した。
「反射された場合は俺とエルナが防ぐ。ネムは魔物の脚を抑えろ。フィナは、リリカが本当に危険になるまで手を出すな」
「分かった。応援するね」
「応援だけにしろよ」
「応援の風とかも駄目?」
「声だけにしろ!」
リリカは深呼吸し、杖先へ魔力を集めた。
昨日までなら、火球を途中で消さないよう一定量を流していた。だが今は、フィナが巨大な魔物を倒したときの炎を思い出し、もっと強く、もっと大きくしなければ届かないと考えてしまう。
「ぎゅっとして……もっと、もっと……!」
「リリカ、込めすぎよ!」
エルナが制止したときには、杖先の炎は頭ほどの大きさへ膨らんでいた。
「いきます!」
火球が正面から甲殻へ直撃する。
炎は爆ぜなかった。
甲殻表面の紋様が青白く輝き、火球を潰すように受け止めた次の瞬間、まったく同じ勢いでリリカたちへ跳ね返した。
「伏せて!」
エルナが前へ踏み込み、杖を横薙ぎに振る。
「——雷障壁〈ヴァルセリア〉!」
網状の雷光が通路を斜めに塞いだ。
反射された火球は障壁へ触れ、正面から止められるのではなく、天井近くへ軌道を逸らされる。レオンの結界が残った熱と衝撃を受け止め、黒い天井板が一瞬だけ赤く照らされた。
火の粉が消えると、通路には耳が痛くなるほどの静寂が残った。
「……ごめんなさい」
リリカの杖先が下がる。
指が震え、顔から血の気が引いていた。自分の火球が戻ってきた瞬間、フィナだけでなく、ネムやレオンまで巻き込んでいた光景が頭から離れない。
「私、また強くすることしか考えなくて……皆さんを危険に……」
「リリカ」
フィナは前へ出ようとしたが、甲殻魔物が脚を鳴らしたため足を止めた。
不用意に近づけば、今度は魔物が突進する。励ましたくても隣へ行けないことが、もどかしかった。
「私は、強くすることだけを教えたつもりはないよ」
「でも、フィナ師匠の魔法は、いつもすごく強くて……」
「うん。でも、えっと……強いから強いんじゃなくて……必要だから、必要な分だけ強いというか……」
フィナは途中で自分の説明を見失い、空中へ手を泳がせた。
「ちょうどいい感じに、いいところへ、いい感じで……」
「説明から意味のある部分が消えていってるわよ!」
「今、私も駄目だと思った!?」
「自分で気づくのが遅い!」
エルナが叫ぶ横で、レオンは結界を維持しながら短く息を吐いた。
「フィナが言いたいのは、威力は目的ではなく手段だということだ。相手の性質、地形、反射方向を見て、必要な効果を選ぶ」
「そう、それ!」
「お前は最初からそう言え!」
「言葉が喉の辺りまで来てたんだけど」
「違う言葉が大量に出ていたぞ!」
甲殻魔物が身体を低くし、突進の姿勢へ入った。
「少し、静かにする」
ネムが片手を向ける。
音が消えた。
甲殻魔物の六本脚が床を蹴る直前で鈍り、甲殻の擦れる音も、術式の脈動も弱まる。完全に停止させるほどではないが、踏み出すまでの時間が引き延ばされた。
「長くは無理。重い」
ネムの眉間へ皺が寄り、フィナの袖を握る手へ力が入る。
「リリカ、今のうちに見なさい」
エルナは魔物の甲殻を杖先で示した。
「全部が同じ角度じゃない。肩の外殻は斜め上、腹側は内向き。反射は甲殻の面に沿うから、当てる位置を変えれば戻る方向も変わる」
「正面から押し切る必要はない」
レオンも反射術式の流れを読み、甲殻の継ぎ目へ光の印を浮かべた。
「隙間は四か所。魔法を内側へ直接通せなくても、反射させて熱を送り込むことはできる」
リリカは唇を結び、魔物を見つめた。
大きな火球を一つ作るのではない。小さな火球なら制御できる。甲殻の形、反射する向き、レオンが示した隙間を一つずつ確かめる。
「フィナ師匠の真似をするんじゃなくて……私にできる火で」
杖先に、指先ほどの炎が三つ灯った。
一つ目は魔物の右肩へ。
火球は甲殻に弾かれ、左下へ跳ぶ。二つ目をその先へ重ねると、再び反射し、腹側の隙間へ炎の熱だけが滑り込んだ。
魔物の脚が大きく揺れる。
「合ってる! 次は左側よ!」
エルナの声に押され、リリカは三つ目を放った。
小さな火球は左の外殻、壁際の甲殻、背中の縁と三度反射し、甲殻の内側へ潜り込む。内部へ熱が蓄積し、甲殻魔物が苦しげに身体を持ち上げた。
熱を逃がすため、閉じていた腹甲が開く。
「今よ!」
「——雷縛穿〈ヴェルシオン〉!」
エルナの雷が開いた隙間へ走り、魔物の脚と反射術式を一瞬だけ停止させる。
リリカは残った魔力を杖先へ集めた。今度は大きくしない。狙う場所も、必要な熱も分かっている。
「届け!」
小さな火球が腹甲の内側へ飛び込み、甲殻魔物の核へ命中した。
硬い身体が傾き、六本の脚が順番に床へ折れる。甲殻を破壊することなく、魔物はその場で動きを止めた。
しばらく誰も動かなかった。
リリカは自分の杖と倒れた魔物を交互に見つめ、やがて目元を潤ませながら笑った。
「できました……私の火球で、倒せました!」
「ええ。ちゃんと自分で見て、自分で考えた魔法よ」
エルナは自分のことのように顔を輝かせ、リリカの肩を強く叩いた。
「最初の失敗を、そのままにしなかった。よくやったじゃない!」
「ありがとうございます、エルナ先輩!」
リリカは感動の勢いのまま手帳を開いた。
「《師匠の真似をしないことも、師匠の教え》……!」
「待って。私、結局何を教えたの!?」
フィナは本気で分からなくなり、レオンへ助けを求めるように振り返った。
「少なくとも、具体的な戦術の半分は私の説明よ!」
「理論の基礎と反射角の印は俺だ」
「ネム、時間を作った」
三人がそれぞれ自分の貢献を主張する中、リリカは大きく頷いた。
「皆さんが、フィナ師匠の教えを完成させてくださったのですね!」
「全部フィナへ戻った!?」
「俺たちの説明を吸収した上で、なぜそうなる!」
「師匠を中心に仲間の知恵が一つになる……これが真の師弟連携です!」
「もう師弟関係の範囲が迷宮より広いわよ!」
フィナは語録帳を覗き込み、自分の名前の下にレオン、ネム、エルナの説明までまとめられているのを見て、静かに首を傾げた。
戦闘には勝ったはずなのに、誰が誰へ何を教えたのかだけが完全に迷宮入りしていた。
そのとき、下層のさらに奥から空気を震わせる咆哮が響いた。
通路の金属板が一斉に鳴り、黒い魔力が床の溝を逆流する。先ほどの甲殻魔物とは比較にならない圧力が五人の身体へ叩きつけられ、笑いの残っていた空気が瞬時に消えた。
異常な魔力によって強化された迷宮主が、下層の奥で目を覚ましていた。




