第一章 17 『黒い紋章』
昼食を終えた森の中で、レオンは木の根元へしゃがみ込み、黒い魔力痕へ測定札を近づけていた。
灰色の土に残る細い線は、何かを引きずった跡にも見える。だが、落ち葉や苔には傷がなく、黒い色だけが地面の内側へ染み込んでいた。
「全員、そこから近づくな」
レオンは振り返らず、片手を上げて五人を止めた。
「今回の依頼は薬草採取だ。この痕跡の調査は範囲外になる。正体も分からない以上、勝手に触れるなよ」
「私を見ながら言ってない!?」
「見なくても、お前に向けて言っている」
「今回は触らないよ!」
「前回も、触るつもりはなかったと言っていたな」
「転びそうになっただけだよ!」
フィナは両手を背中へ回し、何も触れない姿勢を全身で示した。
その隣では、ネムも小型魔物を抱えたまま黒い線を見つめている。昼寝をしていたときより瞳が開き、普段の眠そうな空気がわずかに薄れていた。
「動いてない」
「痕跡なんだから、動かないのが普通じゃない?」
「違う。止まってる」
ネムは抱えていた小型魔物を地面へ下ろし、黒い線へ片手を向けた。
「流れようとしてるのに、途中だけ静か。誰かに止められたみたい」
「魔力の残滓そのものへ、停止状態が固定されているのか」
レオンは測定札を地面と平行に滑らせた。
札の光は黒い線の上でだけ不規則に明滅し、その外へ出ると安定する。火、水、風、土、光、闇のどれにも分類されず、登録済みの特殊属性とも一致しなかった。
「私にも調べさせて」
エルナが杖を抜き、レオンの隣へ立った。
「痕跡がどこから来て、どこへ続いていたのかくらいなら割り出せるはずよ」
「直接干渉はするな。表面に残る情報だけを拾え」
「分かってるわよ。あんたに言われなくても慎重にやるわ」
杖先から細い雷が伸び、地面へ触れない高さで枝分かれした。
「——雷光演算〈ルクシヴェリア〉、展開!」
淡い雷光が黒い線の周囲へ格子を描く。
地形、残留魔力、踏み荒らされた草、空気中に残る微細な粒子。それらを組み合わせ、黒い痕跡が残される前の流れを逆算していく。
「森の奥から来た形跡はない……?」
エルナの眉が寄る。
「ここで突然始まって、木の根を半周したところで消えてる。運ばれたものでも、歩いた魔物が残したものでもないわ」
「上から落ちた可能性は?」
「それなら葉や枝にも反応が残るでしょ。何もないのよ」
「地面の下は?」
「深さは指一本分もない。そこから先は、初めから存在してなかったみたいに途切れてる」
エルナは杖を下ろしたが、納得できない顔のまま黒い線を睨んでいた。
自然に生まれた魔力痕なら、どれほど薄くても流入元か流出先が残る。だが目の前の黒いものには、始まりも終わりも存在していなかった。
「古代の秘密ですね!」
後ろで見守っていたリリカが、手帳を勢いよく開いた。
「森の奥深くで発見された、誰も知らない漆黒の魔力! きっと失われた王国の秘宝へ続く印です!」
「森の奥深くではない。王都から歩いて一時間程度だ」
「では、身近な場所に隠された古代の秘密ですね!」
「距離を修正しただけで、古代と秘宝は残すのか」
「レオン、リリカの想像力を止めるのは難しいよ」
「フィナ師匠が近くへ来たことで姿を現した可能性もあります!」
「今、私の話も追加された!?」
リリカは既に《黒き痕跡と師匠の邂逅》と書き始めている。
フィナは慌てて手帳を覗こうとし、その分だけ黒い線へ一歩近づいた。
「フィナ、止まれ!」
「触ってないよ!」
レオンの鋭い声に、フィナは片足を上げた姿勢で固まった。
黒い痕跡までの距離は、まだ三歩ほどある。手も魔力も伸ばしておらず、本当に近づいただけだった。
それでも、地面の黒い線が脈打った。
「えっ?」
細かった痕跡が、フィナの方へ向けてゆっくり広がる。
土を侵食したのではない。黒い魔力そのものが地面から浮き上がり、幾重もの円と線へ形を変えていった。
大きな外輪。その内側を囲むように並ぶ、十二個の欠けた小円。中央には文字にも術式にも見える複雑な線が重なり、古びた紋章を作り上げる。
「私は何もしてないよ!?」
「分かっている。動くな」
レオンはフィナの前へ腕を伸ばし、紋章との間に薄い結界を展開した。
だが、黒い魔力は結界へ攻撃を仕掛けない。ただフィナの存在を確かめるように、一度だけ中央の線を明るく脈動させた。
「術式の起動条件が、接触ではない……」
「フィナの魔力を感知したの?」
エルナは杖を構え直し、フィナの左右と背後へ視線を走らせた。
「でも、さっきまで近くにいたでしょ。どうして今になって反応したのよ」
「距離か、向きか、フィナが痕跡へ意識を向けたこと自体が条件なのかもしれない」
「私、ちょっと見ようとしただけだよ?」
「お前の『ちょっと』が、未知の紋章を起動させた結果は変わらない」
「また私のちょっとが怒られてる!」
ネムがフィナの袖を掴んだ。
普段なら眠気に任せて身体を預けてくるが、今は指先へ強く力が入っている。暗い赤紫色の瞳は紋章から離れず、眉間に小さな皺が寄っていた。
「ネム、どうしたの?」
「これ、嫌い」
「前に見たことがある?」
「ない。でも、嫌」
理由を尋ねても、ネムは首を横へ振った。
黒い魔力はうるさいわけではない。むしろ不自然なほど静かで、何も感じさせないよう自らを押し殺している。その静けさが、ネムには眠れないほど不快だった。
「学院地下で施設が動いたときと似ている」
レオンの声が低くなる。
彼は記録札へ保存していた地下保護区画の反応を呼び出し、目の前の紋章から伝わる波形と重ねた。
「完全に同一ではない。だが、魔力が立ち上がる直前の間隔と、現代式の解析を拒む性質が近い」
「じゃあ、あの古い施設と関係があるの?」
「可能性はある。少なくとも、無関係だと切り捨てるべきではないな」
「それなら、危なくなる前に消した方が早くない?」
フィナは黒い紋章へ掌を向けかけた。
「待て!」
「待ちなさい!」
レオンとエルナの声が、寸分違わず重なった。
「早さの問題じゃない!」
「早さの問題じゃないわよ!」
二人は同時に言い終え、互いの顔を見る。
「……真似するな」
「あんたが私に合わせたんでしょ!」
「息、合ってる」
ネムがフィナの袖を握ったまま、静かに評価した。
「合ってないわよ!」
「声まで同じくらい」
「比較しなくていい!」
リリカは目を輝かせ、手帳へ新しい一文を書き足した。
「二人の副師匠が同時にフィナ師匠を導く、見事な連携……!」
「副師匠ではない!」
「そこまで同時に否定するな」
「レオンが先に言いなさいよ!」
騒がしい声が森へ響いても、黒い紋章は反応を変えなかった。
フィナが掌を下ろすと、レオンは結界を維持したまま記録札を複数配置した。エルナも雷光演算〈ルクシヴェリア〉で外周の形状を読み取り、紋章へ直接触れずに寸法と魔力の周期を記録する。
ネムは周囲に別の反応がないか探り、リリカは薬草の袋と小型魔物たちを安全な距離まで移動させた。
「私も何かした方がいい?」
「何もしないことが、今のお前の役割だ」
「一番簡単なのに、信頼されてない感じがする……」
「未知の現象を消さずに待っている。十分な協力だ」
「じゃあ、頑張って何もしないね!」
「力を込めて何もしようとするな」
必要な記録が揃うと、レオンは紋章の周囲へ簡易封鎖術式を設置した。
フィナたちが距離を取るにつれ、黒い紋章はゆっくり薄くなっていく。最後には元の細い痕跡へ戻ったが、完全には消えず、木の根元へ静かに残った。
五人は薬草と記録札を持ち、来た道を王都へ戻り始めた。
その背後、木々を何本も隔てた高所に、黒い外套をまとった何者かが立っていた。
顔も姿も枝葉の影へ隠れ、手元には外輪と十二の小円が刻まれた小さな板がある。板の中央に灯っていた黒い光は、フィナが去った方向へ向けて一度だけ脈打ち、すぐに消えた。
何者かは五人を追わず、記録を終えたように森の影へ溶けていった。
学院と冒険者ギルドへ薬草採取の達成報告を行うと、黒い魔力痕の記録は通常の木級依頼とは別に調査対象として受理された。
学院が保管していた周辺地域の記録を照合した結果、森の痕跡が途切れた方向には、最近になって入口が確認された小規模迷宮が存在していた。内部では同系統の可能性がある微弱な魔力反応も観測されている。
黒い紋章へ反応したフィナ、解析を担当するレオン、静寂魔法で異常を感知できるネム、見習いのリリカ、そして黒級主席のエルナ。
五人の次の学院実習先として、王都近郊に現れた小規模迷宮が正式に指定された。




