第四章 37 『帰る場所』
古代施設を離れた探索隊は、見つけた保守通路を上層へ向かって進み始めた。
通路は緩やかな上り坂になっていたが、戦闘を終えたばかりの身体にはそれだけでも重い。
ガレスは先頭で速度を抑え、ミアが地図へ新しい線を書き足しながら進路を確かめ、セリアは一定時間ごとに全員を止めて負傷と疲労を確認していった。
「次の広いところで休むよ。カイル、左脚」
「まだ歩けます」
「歩けるかじゃなくて、帰るまで保つかを聞いてるの」
「……休みます」
セリアに即座に折られたカイルが槍を杖代わりに歩く横で、エルナも泥と傷だらけになった服を見下ろしている。
「帰ったら絶対これ買い直す……」
その様子を見たカイルが口を挟む。
「まだ服を気にする余裕あるんだ」
「あるわよ。むしろ今だから気になるのよ!」
少し後ろでは、リリカが何冊目か分からなくなった記録冊子を鞄へ押し込み、ネムはフィナの近くをゆっくり歩いていた。眠気は強いものの、自分から限界を伝えたことで無理に魔法を使う必要もなく、枕型魔導具を抱えたまま足だけは止めずについてくる。
フィナは通路の先を見上げながら、一度だけ考えた。
上まで穴を開ければ早いかもしれない。
けれど、その考えはすぐに引っ込めた。上層の地盤がどうなっているか分からず、水脈や他の探索者がいる可能性もある。迷宮そのものを貫けば、別の崩落を起こすかもしれない。
「……やめとこ」
その独り言を拾ったレオンが、右肩を庇いながら横へ顔を向ける。
「何をだ?」
「上まで穴開けたら早いかなって」
「やめてくれて本当にありがとう」
「そんなに!?」
「今の俺には止める体力がない」
「止める前提なんだ……」
フィナは頬を膨らませたが、自分でも今回はレオンの方が正しいと思っていた。
強ければ、道を作れる。けれど、道を作れることと、その道を使って全員が安全に帰れることは違う。深層で何度も教えられたことが、今なら前より少し分かる。
保守通路をさらに進んだ頃、先行していたミアが突然足を止めた。
「待って」
片耳の音響魔導具へ指を添え、誰にも喋らないよう手を上げる。探索隊も静かになり、ミアはもう一度反響を飛ばした。
「……足音」
ミアの表情が変わる。
「前から来る。複数。あと……声もある」
ガレスが巨大剣へ手を掛けたが、ミアはすぐに首を横へ振った。
「違う。人だと思う」
「分かるのか?」
ガレスが問い返す。
「装備音が揃ってる。歩幅も人間。それに――」
その時、遥か通路の先から微かに声が届いた。
「――誰かいるか!」
フィナの胸が大きく跳ねる。
「いる!」
思わず返した声が通路全体へ響く。
「こっち! います!」
今度は複数の声が返ってきた。
足音が一気に近づき、しばらくして灯りが見える。上層から捜索へ降りてきた救助隊の姿が現れた。
「生きてた!」
「全員いるのか!?」
声を掛けられたガレスは、一度だけ後ろを確認した。
フィナ、レオン、ネム、リリカ、エルナ、カイル、セリア、ミア。担架の負傷者たち。そして、自分。
「いる」
ガレスは短く答えた。
「全員だ」
その一言で、救助隊側から大きな息が漏れた。
カイルは少し離れた壁へ背中を預け、初めて声を出して笑った。
「……帰れる」
いつもの皮肉っぽさも競争心もない笑い方だった。
隣にいたエルナも何か言い返そうとして、結局そのまま小さく息を吐く。
「そうね」
救助隊との合流後は、帰還速度が少しだけ上がった。負傷者用の担架や水、食料も補充され、フィナたちは無理に自分たちだけで全部を担ぐ必要がなくなる。
それでも、ガレスは急がせなかった。
「出口が見えてから倒れたら笑えねえ。最後まで同じだ」
休憩を挟みながら、探索隊は上層へ向かう。
やがて人工通路は終わり、見覚えのある迷宮区画へ繋がった。その先では魔導灯が増え、整備された足場や目印も戻ってくる。
そして最後の坂道を上り切った時、遠くに白い光が見えた。
「……あれ」
フィナは思わず足を止めた。
魔石灯ではない。自然の光だった。
細かった光は一歩進むごとに広がり、やがて迷宮入口全体を白く染める。
外へ出た瞬間、風が頬を撫でた。土と草の匂い。地下とは違う冷たさ。頭上にある、本物の青空。
フィナは眩しさに目を細めながら、それでもすぐには視線を落とさなかった。
「……空だ」
その横で、ネムがフィナの服の端を掴んだまま上を見ている。
「……明るい」
「うん」
リリカも泥だらけの顔で笑い、エルナは自分の服と青空を交互に見て何とも言えない表情を浮かべた。レオンも記録板を持ってはいたが、今だけは何も書かずに空を見上げている。
世界の底まで行ったあとでは、いつも見ていた青空が少し違って見えた。
その日は、それ以上のことはほとんどしなかった。
最低限の生還報告を済ませると、そのまま治療へ回され、食事と睡眠が優先された。ネムは食事の途中でほとんど目を開けていられなくなり、フィナの近くへ座ったまま眠り始める。
「ネム、お皿まだ残ってるよ?」
「……あとで」
「絶対あとでじゃないやつだ」
フィナ自身も、気づけば普段よりずっと多く食べていた。
向かいではリリカが深層で増えた冊子を机へ積み、エルナは乾いて固まった泥を装備から剥がしながら、何度目か分からない溜息をついている。
「これ、本当に落ちるの……?」
カイルの軽口を思い出したのか、エルナの眉間に皺が寄る。
「絶対思わない」
レオンだけは食事後すぐに報告資料を開こうとした。
「何してるの?」
背後から覗き込んだセリアが問いかける。
「最低限、今日のうちに――」
「寝て」
「でも記録が」
「寝て」
「……はい」
***************
数日後。
冒険者ギルド、学院、魔導協会による正式な報告が行われた。
未踏領域への到達。大規模崩落からの生還。探索者の救助。新規地図。未知魔物。古代地下都市。最深部の古代施設。地殻竜との遭遇と生存。
十二円環と《消えて》についてだけは一般へ公開されず、限られた関係者のみが閲覧できる記録として扱われることになった。
報告資料の一角で、レオンのペンが止まっていた。
簡略名――《消えて》。
現象――対象消失。
術式――検出不能。
属性――分類不能。
変換過程――不明。
残留魔力――ほぼ確認不能。
そして、正式名称だけが空白だった。
「名前、付けないの?」
隣から覗き込んだフィナに、レオンは空欄を見たまま返す。
「付けないんじゃない。まだ付けられない」
「どうして?」
「俺が、何を見たのか分かってないからだ」
今までなら、どれほど規格外でも起きた現象をある程度は定義できた。今回だけは違う。
なくなった。
それ以外に書けることがない。
正式な報告が終わったあと、五人にはもう一つ通知が渡された。
「鉄級……?」
フィナは新しい冒険者証を見ながら目を瞬かせる。
「逆さの海を直した時は木級だったのに?」
「だから、あれは冒険者依頼としての成果じゃない」
横でレオンが説明すると、エルナが額を押さえた。
「そこから説明が必要なの?」
「だって国を助けたよ?」
「冒険者ランクは世界救済回数じゃないのよ!」
今回は違った。
冒険者として迷宮へ入り、自分たちで判断し、救助し、記録を持ち帰り、全員で生還した。ガレスからの推薦も添えられていた。
別れ際、ガレスは五人を見渡し、最初に会った時とは少し違う顔で笑った。
「次に潜る時は、学生の推薦枠じゃねえ」
一度だけフィナへ視線を向け、それから五人全員を見る。
「冒険者として呼ぶ」
その直後、カイルはすぐエルナへ向き直った。
「次はどっちが先に深層へ着くか勝負な」
「受けて立つわよ。今度は怪我して言い訳しないでよね」
「そっちもな」
少し離れた場所では、ミアがすでに新しい地図を広げ、セリアはその横でガレスの荷物を確認していた。
「次から治療用品、増やすから」
「重くなるぞ」
ガレスが返すと、セリアは荷物を確認したまま問い返した。
「誰の怪我が多かったと思ってるの?」
「……増やそう」
そして、五人は学院へ戻った。
***************
第一特別実習班の班室。
壁には、五人がまともに並べなかった集合写真。棚にはアクアレイアの土産や、王都魔法祭の頃から増え続けた資料が並んでいる。
そこへ今度は、深層地図の写しと許可された小さな魔晶石、探索記録、五人の鉄級冒険者証が加わった。
ネムはフィナの近くですでに眠り、リリカは新しい深層記録冊子を棚へ押し込んでいる。エルナは修理へ出す装備の一覧を作り、レオンは例の空欄を残したまま記録帳を整理していた。
フィナは自分の冒険者証を机へ置き、壁の集合写真を見上げる。
世界の底まで行った。巨大な竜と戦った。自分が「消えて」と思うだけで、存在そのものをなくせることまで知った。十二の謎の円環も見た。
分からないことは、前より増えた。
それでも班室へ戻れば、いつもの四人がいる。
「ただいま」
フィナが写真を見たまま呟くと、記録帳を整理していたレオンが顔を上げた。
「おかえり」
棚の前にいたリリカもすぐに振り返る。
「おかえりなさい、フィナ師匠!」
装備の一覧を作っていたエルナが、少しだけ笑った。
「今さら言うの?」
そして、眠っていたはずのネムの声まで聞こえてくる。
「……おかえり」
フィナも笑った。
遥か地底では、誰もいない古代の円形広間に十二の円環が並んでいた。
十一基は沈黙し、大地を思わせる一基だけが淡い光を残している。
静寂の中、その光がほんの一度だけ、鼓動のように脈打った。




