第五章 1 『鉄級の次の行き先』
世界最大級迷宮の最深部から生還して、しばらくの時間が過ぎていた。深層で負った傷は治療を終え、右肩を傷めていたレオンも、右腕に負担を抱えていたエルナも、すでに通常授業や実習へ復帰している。
第一特別実習班の班室にも、以前と変わらない五人の日常が戻っていた。ただし、机の上へ並ぶ五枚の冒険者証だけは深層へ向かう前とは明確に違い、揃って《鉄級》を示す刻印が入っている。
「やっぱり、まだちょっと不思議なんだよね」
窓際の席で自分の冒険者証を持ち上げたフィナは、光へ透かすように何度も角度を変えていた。鞄には五人で揃えた雷獣のぬいぐるみ飾りが揺れ、その隣ではネムの枕型魔導具が机のかなりの面積を当然のように占領している。
向かい側で記録帳を整理していたレオンが顔を上げた。
「何がだ?」
フィナは鉄級証を両手で挟み、改めて刻印へ目を落とした。
「私たち、本当に鉄級なんだなあって。逆さの海を直した時は木級だったのに」
修理を終えた装備の確認表を眺めていたエルナは、その言葉に呆れたように額へ手を当てた。
「その話、昇格した時にもしたでしょ」
「覚えてるよ! 今回はちゃんと冒険者として迷宮に入って、探索して、救助して、情報を持って帰ってきたからでしょ?」
フィナがすぐに言い返すと、レオンは記録帳へ視線を戻しながら短く返した。
「分かってるならいい」
その直後、隣の机で何冊目か分からない冊子を開いていたリリカの表情がぱっと輝いた。
「フィナ師匠は昇格後も慢心せず、自ら階級制度の意味を問い直しているのですね……!」
「違うよ! そんな立派な確認じゃないよ!」
慌てて身を乗り出したフィナの肘が、机の端へ積まれていた記録冊子へ当たった。崩れかけた山をエルナが片手で押さえ、その厚みを改めて見て眉を寄せる。
「ちょっとリリカ。これ、深層から帰った時より増えてない?」
「帰還後の整理記録が増えました!」
胸を張って答えるリリカに、エルナは冊子の山を押さえたまま顔をしかめた。
「正しい理由で増えてるのが余計に止めづらいわね……」
「必要な記録です!」
「量の話をしてるのよ!」
エルナとリリカのやり取りを聞きながら、ネムは枕へ頬を沈めたまま、机の端に置かれていた焼き菓子へ手を伸ばしていた。フィナが気づいた時には、一つあったものがきれいに半分へ減っている。
「ネム、それ私のだよね?」
「半分残した」
「親切みたいに言わないでよ!」
「全部食べてない」
「基準がおかしいよ!」
ネムは反省した様子もなく、残った半分をフィナ側へ少し押した。それで返却したつもりらしく、すぐに枕へ頬を戻して目を細める。
そんな声が飛び交う班室には、五人が積み重ねてきた時間が目に見える形で残っていた。壁には、レオンとエルナが言い合い、フィナが止めようとし、リリカが感動し、ネムがフィナの腕の中で眠っている集合写真が飾られている。
棚にはアクアレイアから持ち帰った土産と解析資料、王都魔法祭の頃から増えた記録が並び、その隣には深層迷宮地図の写し、小さな深層魔晶石、探索記録が加わっていた。リリカの冊子も一段では収まらなくなりつつあり、その一角だけ妙な圧迫感を放っている。
レオンの机にも新しい記録が増えていた。その中で一冊だけ、フィナが何度見ても落ち着かない頁が開かれたままになっている。
簡略名――《消えて》。
現象――対象消失。
術式――検出不能。
属性――分類不能。
変換過程――不明。
残留魔力――ほぼ確認不能。
そして最後の正式名称だけが、今も空白のままだった。
「まだ決まらないんだね」
レオンの机まで歩いてきたフィナが、肩越しに頁を覗き込んだ。帰還したばかりの頃なら負傷していた右肩へ気を遣って距離を取っていたが、今はもう治療も終わっている。
「決まらないんじゃない。決められるだけの情報がない」
レオンは空白部分を指先で軽く叩き、眉間へ薄く皺を寄せた。
「でも、なくなったんだよね?」
「その『なくなった』以外の過程が何も観測できてない。それを適当に定義したら、記録じゃなくて想像になる」
「レオンって、名前を付ける時だけ妙に厳しいよね」
その会話を聞いていたネムが、枕へ顔を半分埋めたまま目だけを向けた。
「名前の時だけじゃない」
「お前まで敵に回るな」
「敵じゃない。事実」
レオンが言い返そうとしたところで、今度はリリカが記録冊子を胸へ抱えながら近づいてきた。妙に輝く目を見たエルナは、まだ何も始まっていないうちから嫌な予感を覚えたように眉を上げる。
「正式名称すら人の理解を拒む、究極の――」
「書かない」
エルナが冊子の表紙を上から押さえたため、リリカの手が途中で止まった。
「まだ最後まで言ってません!」
「言わなくても分かるのよ。勝手に伝説へしない」
「でもフィナ師匠の――」
「私からもお願いだからしないで!」
エルナとフィナの両側から止められ、リリカだけが納得できない顔をしている。その様子を見たフィナは困ったように眉を下げながらも、最後には小さく笑った。
深層では、食料も水も休息も退路も、全部が生きて帰るための判断だった。今は記録冊子へ何を書くかで真剣に揉めている。そんな当たり前の日常が戻ってきたことを、フィナは以前より少し大切に感じられるようになっていた。
通常実習もすでに再開している。リリカは《心火一灯〈カンデリア〉》を自分の火として磨き続け、エルナは雷の速度と精度をさらに高める訓練へ戻っていた。ネムも疲れれば自分から休むようになり、限界を越えてまで能力を使い続けることはなくなっている。
フィナ自身も、何か問題を見るたびに全部自分で終わらせようとはしなくなっていた。できるかどうかだけではなく、それを自分がやるべきなのかを考える時間が、以前より自然に生まれるようになっている。
「今日はもう実習ないよね?」
窓の外へ傾き始めた陽を見ながらフィナが確認すると、予定表を見ていたエルナが指先で一日の欄を追った。
「通常実習は終わり。私は提出物も済んでるわ」
レオンは机の端へまとめた資料束を軽く叩いた。
「俺も終わってる」
リリカも自分の鞄を確認し、嬉しそうに片手を上げた。
「私もです!」
最後に四人の視線が集まるより先に、ネムは枕を抱え直していた。
「ネムは寝る」
「それは予定じゃないよ!」
「重要」
「否定しづらいけど!」
フィナが笑ったところで、班室の扉の下から白い封筒が差し込まれていることに気づいた。学院の正式印に加え、国外交流案件を示す封蝋まで押されている。
「これ、いつ来たの?」
フィナが拾い上げた封筒を眺めていると、レオンは椅子を少し引いて手を伸ばした。
「班宛てだな。貸してみろ」
「こういうの、やっぱりレオン担当?」
「別に決まってない。ただ、お前が開けると最初に観光案内を探しそうだからな」
「探さないよ!」
反論したフィナの視線が、まだ開いてもいない封筒の端へ落ちた。
「……ちょっとしか」
その小声を聞き逃さなかったエルナは、予定表を机へ置いて即座に振り返った。
「探すんじゃない!」
枕へ顔を伏せたネムが、そこへ小さく言葉を足した。
「観光、大事」
「ネムまで!?」
封を切ったレオンは一枚目へ目を通し、途中で表情を引き締めた。その変化に気づいたエルナが席を立ち、リリカとフィナも自然に机の周囲へ集まる。ネムも寝る予定を一旦保留したのか、枕を抱えたまま上体だけを起こしていた。
「国外実習?」
書類の見出しを先に読んだエルナへ、レオンは二枚目を広げて見せた。
「ガルディア帝国との学院・軍事技術交流だ。第一特別実習班へ正式な派遣要請が来てる」
「ガルディア帝国……」
フィナの頭にも、授業や資料で見た大国の姿が浮かんだ。正規軍や騎士団だけでなく、大規模な工廠、軍用鉄道、魔導兵器、魔導工学でも知られる国だ。
レオンは書類を全員が見える位置へ置き、記載された目的を指先で順番に追っていった。
「帝国学院との交流、魔導工学施設の視察、合同軍事訓練。それから、古代設備に関する情報共有」
最後の項目が読まれた瞬間、先ほどまでの軽い空気が少しだけ変わった。リリカは抱えていた冊子を閉じ、エルナも派遣日程より先に古代設備の文字へ目を移す。ネムまで枕から顔を上げ、レオンの机に積まれた古代施設関連資料へ視線を向けていた。
「学院の地下とか、アクアレイアとか、深層の地下都市で見つかったものと似てるのかな?」
フィナが尋ねると、レオンはすぐには断定せず、資料の該当箇所をもう一度確認した。
「そこまでは書かれてない。だから情報共有なんだろう。少なくとも、向こうにも調べる価値のある設備があるらしい」
「じゃあ、観光だけじゃないのね」
エルナが念を押すようにフィナへ視線を向けると、その肩が分かりやすく少し落ちた。
「観光もできないの?」
「誰もそうは言ってないわよ」
「じゃあ、お菓子見に行ってもいい?」
「最初からそこを主目的にしない!」
それまで眠そうだったネムが、今度は完全に身体を起こした。
「お菓子」
フィナが振り向くと、ネムは枕を抱えたまま続けた。
「ガルディアの、食べたい」
「急に参加意欲がすごいよ!」
その横では、リリカがもう新しい冊子を開き、最初の頁へ大きく《ガルディア帝国》と書き始めていた。レオンは派遣期間と必要資料へ目を移し、エルナは合同訓練の文字を見つけると、わずかに口元を上げる。
「帝国学院の実技、かなり水準が高いって聞くわ。私は行きたい」
続いてレオンが書類から顔を上げた。
「俺も古代設備と魔導工学資料があるなら、断る理由はない」
その答えを聞いたネムは、枕を抱え直したまま簡潔に続けた。
「ネムは、お菓子」
リリカは新しい冊子を抱え、今にも立ち上がりそうな勢いでフィナへ向き直った。
「私はもちろんフィナ師匠と一緒に行きます!」
「リリカ、それ私が行く前提になってない?」
四人の視線が集まり、フィナは一度だけ瞬きをした。
以前なら、自分が行きたいかどうかだけで決めようとしたかもしれない。けれど今は、エルナには競いたい理由があり、レオンには調べたいものがあり、リリカには学びたいものがある。ネムにも本人なりに、少なくとも非常に分かりやすい目的があった。
フィナは壁の集合写真と、その下へ増えてきた旅の記録を見たあと、机の上に並ぶ五枚の鉄級冒険者証へ視線を戻した。世界の底から帰ってきた五人の前には、もう次の行き先が置かれている。
「じゃあ、行こう。ガルディア帝国」
誰か一人のためではなく、それぞれが自分の理由を持ったまま、第一特別実習班の次の国外実習が決まった。




