第四章 35 『消さない』
何も残っていない空間を挟み、地殻竜と探索隊のあいだに奇妙な静止が落ちていた。大地を丸ごと押し寄せさせていた巨体は、ほんの僅かに首を引き、巨大な瞳だけをフィナへ向けている。
それまで何度攻撃を受けても前へ出続けていた地殻竜が、初めて明確に警戒していた。
フィナも、その視線から目を逸らせなかった。さっき消えたのは岩盤だけではなく、土砂も岩槍も、大地の波そのものも、自分が「みんなを潰そうとしているもの」と認識した範囲だけだった。
なら、同じことを目の前の地殻竜へ向けたらどうなるのか。答えを誰かに教えられたわけではない。それでもフィナの中には、妙なくらい自然な感覚があった。
消えて、と言えば。
たぶん、この戦いは終わる。
建物より大きな甲殻も、何百メートルある巨体も、何千年も積み重なった岩山も関係なく、その存在そのものがなくなる。
そこまで考えたところで、地殻竜の瞳とフィナの目が真正面から重なった。
思い浮かんだのは、これまで受けた攻撃ではなかった。この生き物は誰かに命令されてここへ来たわけでも、最初から人間を殺そうとしていたわけでもない。
ずっと、この場所で眠っていただけだった。そこへ自分たちが落ちてきて、近づいて、起こした。
「……違う」
フィナのすぐ近くで測定札を握っていたレオンは、その小さな声を聞き逃さなかった。
「何がだ?」
フィナは地殻竜を見たまま、ゆっくり首を振る。
「この子を消すのは違う」
レオンは一瞬だけ目を細めたが、問い返す前に地殻竜が動いた。
「来る!」
片耳の音響魔導具を押さえたミアが、巨体の内部で動いた重心を拾う。
「右前脚! フィナ狙い!」
巨大爪が持ち上がり、空洞の光を遮った。
これまでなら風で逸らすか、水で受ける。けれど、フィナはどちらも選ばなかった。
「——止まって!」
振り下ろされかけた巨大爪が、空中でぴたりと止まった。
風は吹いていない。水壁も土壁もなく、何かへ衝突した音さえない。ただ地殻竜の前脚だけが、動きを失っている。
「……ネムじゃない」
セリアの横で休んでいたネムが、珍しく少しだけ目を見開く。
「……ネム、何もしてない」
レオンも測定札へ視線を落としたが、そこに現れているのは魔力反応の直後に運動停止という結果が成立した記録だけだった。術式経路も属性変換も見つからず、王都魔法祭で何度も確認した異常が、今度は戦闘の最中にそのまま繰り返されている。
「まただ……術式がない」
停止は長く続かなかった。だが、一瞬あれば十分だった。
「フィナが作った隙を使う!」
レオンは解析を切り上げ、地殻竜の左右へ空中足場を連続展開する。
「カイルは左! エルナは右から背中へ!」
「了解!」
「言われなくても!」
左脚を痛めたカイルは地面を長く走らず、風とレオンの足場を繋いで左前脚へ迫った。反対側ではエルナが《紫電歩〈パソ・センテリア〉》で加速し、岩盤のような鱗を蹴りながら巨体の側面へ一気に駆け上がる。
「リリカ、関節を続けろ!」
「はい!」
リリカの周囲へ、《心火一灯〈カンデリア〉》の小さな火が次々と浮かぶ。大きな炎へ変えることなく、これまで傷を重ねてきた甲殻の隙間と関節周辺だけへ、軌道と着弾時間をずらしながら集中させていく。
地殻竜が止まっていた前脚へ力を戻し、二人を振り払おうとした。
「——下がって!」
フィナが反射的に叫ぶ。
次の瞬間、地殻竜の巨体そのものが大きく後方へ押された。
風が吹き付けたわけではない。地面が隆起したわけでもなく、見えない何かへ弾かれたような衝撃さえなかった。それでも巨大な爪は地面を削り、数百メートル級の身体だけが確かに後退していく。
「えっ……?」
小さな火を操っていたリリカが、思わず目を丸くする。
レオンは空中足場を維持しながら、もう一度測定札へ視線を落とした。
「これも術式なし! 属性変換も出てない!」
地殻竜の背中を走っていたエルナが、頭上から声を飛ばす。
「今それ確認するところ!?」
「確認しながら戦ってるんだ!」
「器用なことしてないで前見なさいよ!」
「二人とも、尾!」
フィナの声で、エルナとレオンの視線が地殻竜の後方へ向く。
巨大な尾が探索隊を薙ぎ払う軌道で動き始めていた。
「——こっちに来ないで!」
フィナがそう願った瞬間、尾の軌道が途中から外側へ逸れた。
弾かれたのでも、押されたのでもない。探索隊がいる場所だけを避けるように、動きそのものが変わっていく。
「……もう何でもありじゃない」
岩鱗へ足を掛け直したエルナが、さすがに呆れた声を漏らす。
地上側にいるカイルが、そのまま前脚の関節へ槍を突き込みながら返した。
「助かってるんだからいいだろ!」
フィナは自分でも、今の現象をうまく説明できなかった。ただ、止まってほしい、下がってほしい、こちらへ来ないでほしいと思えば、その結果だけがそのまま起こる。
それでも、一人で地殻竜を拘束し続けようとは思わなかった。
レオンが作った足場をカイルとエルナが使い、リリカの火が傷を積み重ねる。ミアは巨体内部の動きを読み、ガレスは正面から圧力を受け、ネムは必要な瞬間だけ魔力活動を静めている。
それでいい。
「次、胸側から魔力が上がる!」
ミアが音響魔導具へ意識を集中させ、反響の変化を追う。
「咆哮かブレス! 来るよ!」
「ネム、短く頼めるか!」
巨大剣を構えたガレスの声に、セリアの隣にいたネムが一歩だけ前へ出た。
「……短いなら」
ネムは地殻竜の喉へ集まり始めていた魔力へ、《魔流鎮静〈カルミア・マナ〉》を働かせる。完全に停止させるのではなく、流れだけが僅かに鈍った。
ネムは長く維持しようとしない。
「……今ならいける」
ミアの合図に合わせ、ガレスが真正面から踏み込んだ。
「——《震嶺断〈ヴァルガ・ローディア〉》!」
巨大剣が前脚の亀裂へ叩き込まれ、反対側からカイルの槍も関節へ食い込む。さらに上方から、エルナの《雷針〈アグハ・ヴォルティア〉》が甲殻の隙間へ鋭く突き刺さり、三方向の衝撃が同じ脚へ重なった。
「リリカ、目だ!」
「分かりました!」
ガレスの指示を受け、リリカはすぐに小さな火の狙いを変えた。
焼くためではない。巨大な瞳の前へ何十もの小さな炎を時間差で広げ、地殻竜からフィナたちの位置を一瞬だけ奪う。
地殻竜が煩わしそうに首を振り、その動きに合わせて巨体の重心が傾いた。
「右前脚、沈む!」
ミアがすぐに変化を拾う。
「エルナ、カイル、今!」
「任せなさい!」
「行く!」
エルナが背中から雷をまとって一気に駆け下り、カイルも左側から風を踏んで突撃する。二人の攻撃が前脚へほぼ同時に重なり、傷の広がった関節がついに耐えきれず沈み込んだ。
地殻竜の胸が大地へ近づく。
倒れはしない。それでも、今まで一度も崩れなかった姿勢が初めて大きく落ちた。
「フィナ!」
正面で巨大剣を地面へ突き立てたガレスが、地殻竜の額まで続く道を見上げる。
「今だ!」
フィナは走り出し、レオンの空中足場を蹴って前脚の上を越えていく。途中で地殻竜の尾が再び動きかけたが、ネムが残していた力で魔力の流れをほんの一瞬だけ静めた。
「ネム、もういい!」
すぐ近くで状態を見ていたセリアが止める。
「……うん。もう使わない」
ネムは素直に手を下ろした。
フィナは最後の足場を蹴り、地殻竜の額へ降りる。
目の前に広がる甲殻は、もう岩山の斜面とほとんど変わらない。硬い鱗の隙間には長い年月で積もった土が残り、その向こうから巨大な瞳がフィナだけを見上げている。
さっきまでの敵意に加えて、今は明らかな疲労が滲んでいた。
フィナはゆっくりと手を伸ばし、地殻竜の額へ触れた。
「もう大丈夫だから」
地殻竜の呼吸が低く響く。
「——眠って」
光も魔法陣も現れなかった。
ただ、地殻竜の身体から少しずつ力が抜けていく。前脚が大地へ沈み、後脚もそれに続き、数百メートルある巨体が倒れるのではなく、自分から伏せるようにゆっくりと高さを下げていった。
背中に積もった岩山が静かに揺れ、最後に巨大な頭部が地面へ触れる。開いていた瞳も徐々に細くなり、やがて完全に閉じた。
最深層へ残ったのは、一定の間隔で響く深い呼吸だけだった。
「……寝た」
セリアの隣で枕型魔導具を抱えたネムが、小さく呟く。
地殻竜の額から降りたフィナは振り返り、ようやく少しだけ笑った。
「ネムとおそろいだね」
「……でかすぎる」
即座に返されたネムの一言に、地殻竜の背中から降りてきたエルナが肩を落とす。
「そこ比べるところなの!?」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
それでも戦いの疲労が消えたわけではない。ガレスは巨大剣へ体重を預け、カイルは痛む左脚を伸ばして地面へ座り込み、エルナも荒い呼吸を整えている。セリアはすぐ負傷者とネムの状態確認へ戻り、ミアも地殻竜の鼓動が安定していることを反響で確かめていた。
少し遅れて、レオンがフィナのところまで歩いてくる。
「さっきのを使わなかったんだな」
フィナは眠っている地殻竜へ視線を向けた。
「うん」
「使えば、終わってたかもしれない」
「たぶん」
自分でも、そう思う。
あの岩盤を消した時と同じように、この地殻竜へ「消えて」と言えば終わっていた可能性は高い。けれど、それを選びたいとは思わなかった。
「だって、この子、悪いことしたかったわけじゃないし」
レオンは何も挟まず、続きを待っている。
フィナは自分の手を見た。
何でもできるのかもしれない。どこまでできるのか、自分でもまだ分からない。それでも、その力を使うかどうかまで誰かに決めてもらう必要はなかった。
「……消せるからって、消していいわけじゃないよ」
レオンの視線が僅かに和らぐ。
フィナは眠りへ戻った地殻竜へ向き直った。
何千年もこの場所で眠り続けてきた巨大な生き物の鼓動は、戦いの前と同じようにゆっくりと深層へ響いている。その音を聞きながら、フィナは自分の中に生まれた新しい力ではなく、それを使わなかったという選択の方を、静かに胸へ残した。




