第四章 34 『消えて』
地殻竜の左前脚を覆う巨大甲殻には、カイルの《疾風穿〈ヴェル・ラディア〉》とエルナの雷撃によって、初めて明確な亀裂が刻まれていた。建物ほどもある一枚の甲殻を横切るその傷は、これまでの攻撃とは違い、確かに巨体の奥へ届いている。
それでも地殻竜は倒れなかった。むしろ長い眠りから完全に目覚めたように頭を持ち上げると、巨体の内側から、それまでとは比べものにならないほど濃い魔力が膨れ上がった。
「……増えてる」
片耳の音響魔導具へ指を添えたミアは、地殻竜から返ってくる反響を追いながら顔を強張らせる。
「身体の中だけじゃない。地面の奥まで一緒に鳴ってる」
次の瞬間、地殻竜の咆哮が最深層全体を震わせた。
フィナは反射的に足を開いて踏ん張ったが、揺れているのは足元だけではない。左右の崖、遠くの岩山、何層にも重なった地層そのものが軋み、数百メートル先の大岩まで地面から引き剥がされるように浮き上がっていく。
「フィナ師匠……あれ、全部来ます!」
杖を握り締めたリリカの視線の先で、浮き上がった岩盤がゆっくりと傾いた。
巨大な岩だけではない。崩れた山も、土砂も、砕石も、地層そのものまでが巻き込まれ、探索隊を囲む数キロ規模の大地が一つの波となって押し寄せてくる。
「まともに受けたら埋まるぞ!」
右肩を庇いながらも、レオンはすぐに複数の術式を前方へ展開した。
「負傷者側まで届かせるな!」
「俺が前を割る!」
ガレスは固定された肩へ無理を掛けすぎないよう踏み込みを調整しながら、それでも巨大剣を大きく振り抜く。
「——《震嶺断〈ヴァルガ・ローディア〉》!」
先頭の岩盤が真っ二つに割れた。しかし、その後ろからさらに何十、何百という岩塊が迫っている。
「左、開ける!」
左脚を痛めているカイルは長く走らず、風で身体を持ち上げながら岩盤の側面へ回り込む。槍が一枚を貫き、その亀裂へエルナの雷撃が撃ち込まれた。
「次、右上!」
雷をまとったエルナは浮遊岩の間を高速で移動しながら、落下方向が危険なものだけを選んで撃ち砕く。
「リリカ、細かいのお願い!」
「任せてください!」
リリカの周囲へ《心火一灯〈カンデリア〉》の小さな火が次々と展開された。大岩を壊すのではなく、ガレスやエルナが砕いた破片のうち、負傷者側へ飛ぶものだけを一つずつ正確に撃ち落としていく。
その後方では、レオンが《連環築壁〈カデナ・フォルティア〉》を何層にも重ねていた。正面だけでなく、左右と上方にも角度を付け、受け止めた岩を負傷者から外へ流せる形に組み替えていく。
「セリアさん、中央へ!」
「分かった。動ける人は担架の外側を支えて!」
セリアは負傷者を防御陣の最も厚い位置へ集め、そのすぐ横へネムも下がらせた。
「ネム、まだ使わなくていいよ」
「……うん。必要になったら言う」
フィナは全員の位置を確認してから、大地の波へ向き直った。
もっと強い魔法なら使える。地殻竜そのものを吹き飛ばすほどの火でも、山ごと押し返すほどの力でも、出そうと思えば出せる。
けれど、この地下空洞がどこまで支えられるのか分からない。頭上には古代都市があり、背後には負傷者がいて、仲間たちも地殻竜の周囲へ散開している以上、威力だけを上げればいい状況ではなかった。
「フィナ!」
先頭で岩塊を受け流していたガレスが、押し寄せる大地を睨んだまま叫ぶ。
「止められるか!」
「やる!」
フィナは両手を前へ向けた。
「——強い風!」
広大な空間へ成立した暴風が、数キロに及ぶ大地の波へ真正面からぶつかった。浮いていた岩盤が一斉に押し返され、土砂が逆方向へ巻き上がり、先頭部分が大きく後退する。
「押し返してる!」
反響を追っていたミアの声に、一瞬だけ明るさが戻った。
しかし、地殻竜が再び咆哮する。
巨体の周囲から新たな岩盤が浮き、押し返された大地のさらに後ろへ重なっていく。地殻竜は崩れた分を諦めるどころか、深層そのものを追加するように押し込み続けていた。
「フィナ、まだ増えてる!」
レオンは防御陣を維持したまま、地面へ走る亀裂にも目を配る。
「風だけじゃ終わらない!」
「じゃあ、水も!」
フィナの前方へ巨大な水流が生まれる。
「——すごい水!」
暴風の内側へ重なった巨大な水流が、大地の波へ激突した。巨大岩盤が水圧で砕け、先頭の地層が大きく崩れる。押し寄せていた流れが一度だけ完全に形を失い、フィナはそのまま水と風で外側へ押し広げようとした。
ところが、崩したはずの岩が地面へ落ちなかった。
「……え?」
水に押し流された土砂も、砕けた岩塊も、地殻竜の魔力に引かれるように再び浮き上がる。それらは後ろから迫る新たな岩盤へ巻き込まれ、さっきよりも厚い大地の波へ変わっていった。
「壊した分まで使われてる!」
レオンは周囲の岩壁へ新しく走った亀裂を見た瞬間、顔色を変えた。
「フィナ、これ以上出力を上げるな!」
「でも、このままだと!」
「この空洞が先に崩れる!」
レオンは頭上と左右の岩盤を見比べながら、声を張った。
「今でも地層が割れてる! これ以上の規模で正面衝突させたら、地殻竜を倒す前に俺たちごと最深層が落ちる!」
フィナは唇を噛んだ。
倒せる力はある。それでも、その方法では仲間を守れない。
「右側、抜けた!」
ミアの警告に、フィナが振り向く。
風と水の境目を滑り抜けた巨大岩盤が、防御陣の右上へ回り込んでいた。落下先にはセリアと負傷者、それにネムがいる。
「ネム!」
セリアの横にいたネムは、フィナの声が届くより先に片手を上げていた。
「——《万象静止〈サイレント・レスト〉》」
数百メートル級の岩盤が空中で止まる。その後ろから押し込まれていた土砂まで一瞬だけ鈍り、レオンが防壁を追加する時間が生まれた。
「ネム、無理しないで!」
セリアはすぐ隣で、ネムの呼吸と顔色を見ている。
「あとどれくらい?」
「……三秒、無理」
ネムの腕が細かく震え始めた。
「じゃあ切って!」
「……でも、後ろに人いる」
いつもなら限界を隠さないネムが、それでもあと一瞬だけ静止を維持する。
「ネム!」
フィナが叫んだ時、ネムの膝が僅かに落ちた。
「……もう、だめ」
静止が切れ、巨大岩盤が再び落下を始めた。
ネムだけではない。セリアも、その周囲の負傷者も、全部まとめて押し潰す位置だった。
フィナからは遠い。風を回しても、水を出しても、今からでは僅かに間に合わない。
その光景を見た瞬間、フィナの中から焦りとは違う感情が湧いた。
——嫌だ。
ネムが潰されるのも、仲間が傷つくのも、そんなのは嫌だった。
フィナはまだ魔法を選んでいなかった。それなのに、周囲を舞っていた水滴が空中で止まり、足元を転がっていた小石も動きを止める。風さえ一瞬だけ消えたように静まり、フィナの顔からそれまでの必死な表情が抜け落ちた。
視線だけが、ネムたちへ落ちようとしている巨大岩盤を捉える。
「——消えて」
声は小さかった。
爆発も光も起こらず、岩盤が砕けることさえなかった。ただ、そこに存在していたはずの巨大な岩が、一瞬で何もない空間へ変わった。
それだけでは終わらない。
岩盤の背後から押し寄せていた土砂も、地殻竜が浮かせていた岩槍も、崩れた岩山を巻き込んだ大地の波も、フィナが「今、みんなを潰そうとしているもの」と認識した範囲だけが続けて消えていく。
砕けた破片も塵も残らず、魔力の残滓すらほとんど感じられないまま、数キロに及んでいた攻撃の一角だけが丸ごと世界から抜け落ちた。
轟音に満ちていた空間が、突然静かになった。
エルナは雷をまとったまま足を止め、カイルも槍を構えた姿勢で何もなくなった空間を見つめている。ガレスでさえ巨大剣を下ろさずに視線だけを動かし、何が起きたのかを確かめようとしていた。
「ネム、大丈夫?」
セリアは我に返るとすぐネムの肩を抱き寄せ、頭上と身体を順番に確認した。
「……うん」
ネムは少しぼんやりした目で、自分たちの上に何も残っていない空間を見上げる。
「……なくなった」
フィナ自身も、すぐには理解できなかった。ただ消えてほしいと思った。それだけだった。
「レオン……?」
呼ばれたレオンは返事をせず、記録板と測定札を立て続けに確認した。残留術式、転移反応、空間変動、魔力変換、物質分解の痕跡まで拾おうとするが、どれにも一致しない。
「……破壊じゃない」
レオンの声は、いつもの解析結果を告げる時よりずっと低かった。
「転移反応もない。分解でもないし、魔力へ変換された形跡もない。空間魔法の痕跡も……ない」
何度測定しても、結果は変わらない。
「……どこへ行った?」
フィナは自分の手へ目を落とした。
「消えてって言ったから……消えた?」
レオンは答えなかった。
これまでフィナが見せてきた規格外の魔法も、規模や仕組みが異常であっても、起きた現象そのものは記録できた。けれど今回は、「対象が存在しなくなった」という結果以外に、記録できる過程が何一つ見つからない。
だからレオンは、いつものように名前を付けようとしなかった。
遠くでは、地殻竜まで動きを止めていた。
巨大な瞳が、フィナだけを見ている。
攻撃を防がれた時とは違う。自分が動かした大地が壊されたのでも、押し返されたのでもなく、存在そのものを失ったことを、生物としての本能が理解したように、数百メートル級の巨体が僅かに身を引いていた。
「フィナ」
何も残っていない空間と測定札を見比べたまま、レオンがようやくフィナへ顔を向ける。
「今のは……何をした?」
フィナは自分の手を見つめたまま、しばらく答えられなかった。そこには光も魔力も、何かを壊した痕跡さえ残っていない。
「……分かんない」
フィナはゆっくりと指を握り、何も残っていない空間へもう一度視線を向けた。
「ただ、消えてほしいって思っただけ」
その言葉だけが、誰にも説明できない静けさの中へ残った。




